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自由

 文庫化は再読のきっかけになる。
 数年前に読んだ『他者といる技法』が、ちくま学芸文庫の一冊に加わった。初読時は、友人から単行本(日本評論社版)を借りて読んだこともあり、今度こそ手元に置いておきたいと、さっそく文庫版を入手した。

 再読とは思えないほど、知的好奇心をくすぐられる発見の連続で、驚く。
 特に刺激的だったのが、「理解」にまつわる議論。

「想像していただきたい。これは、あなたの「身体」という「徴候」やあなたの「言葉」が、あなたの「こころ」をすべて他者に伝えてしまうという事態である。あるいは、他者のもつ繊細な「類型」創出機能は、あなたのどんな動きであってもそれが「間接呈示」する「意味」を完全に読み取ってしまう。これが、他者に完全に「理解」されるという事態だ。」
奥村隆『他者といる技法』ちくま学芸文庫、P273)

 著者の奥村隆は一種の思考実験として、個人が他者から完全に「理解」される状況を想定し、分析する。
 人は、自身の思いや考えが他者に「理解」されないことに不満を持ち、憤る。であれば、他者に完全に「理解」される環境が理想的なのだろうか。
 奥村の答えは、否だ。

「なにもかも「理解」されてしまうとき、私たちは「こころ」を自由に働かせることはできないだろう。むしろ、私たちの「自由」は、他者に「理解」されないことを条件にするようだ。もちろん、他者に理解されることと両立する「自由」もある。しかし、両立しない「自由」もたくさんある。たとえば、「まちがえる自由」。他者に「こころ」をすべて「理解」されるとき、私たちは決して「まちがえる」ことはできない。しかし、「理解」されない領域があるとき、私たちは「こころのなか」でいくらも「まちがえる」ことができる。」
奥村隆『他者といる技法』ちくま学芸文庫、P274)

 容易には「理解」に至らないという現実が、私たちの「自由」の源になっているという指摘は、鋭い。
 「こころ」で感じていること、頭で考えていることは、言語化して表出しない限り、他者に伝わることはない。第一印象ではマイナスの評価を与えていた人や物が、時間をかけて内奥を知るにつれ、評価がプラスに転じることがある。逆もしかり。瞬時に「理解」されてしまえば、時間の経過による考えの変化は考慮されずに、最初の生理的な感覚だけが「理解」の対象になる。
 別の箇所で奥村が指摘するように、自身の考えが外に漏れ出していない期間が存在するからこそ、私たちは「自由」にものを考えることができ、自身の考えの間違いを改める時間が作れる。

 人は他者から「理解」されたいと欲しているが、それはあくまで"ほどほどに"なのだ。



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