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心の有無

 友人としたまとまりのない話を、まとまりがないまま記録しておく。

 最近まで、某人工知能チャットボットにどハマりしていた友人が、急にぱったりとその話題を口にしなくなった。
 気になったので訊ねると、「いまはいじってない」との返事が。訳を訊くと、「何というか……やっぱり心を感じないんだよな」とのこと。
 心を感じない。それはつまり、人工知能には心がない、ということだろうか。まあそりゃな、と納得感もあったが、一つ質問をして、話を広げてみたくなった。
「でもさ、心があったら、それはそれで面倒じゃない?」
 私の趣旨はこうだ。心があるということは、私たち人間と同じように傷つくようになるわけで、友人がして楽しんでいたように、不躾な質問をぶつけ続けるということも難しくなる。また、お互いに心をもつものとして、対等な関係も求められるようになるから、自分自身がやりとりの中で人工知能に傷つけられるかもしれない。そんなことを、人工知能の利用者側は望んでいるのだろうか。
「まあでも、心はあった方がいいよ」
 友人はしみじみと答えた。

「「他人の心はけっきょくのところ分からない」という素朴な日常的実感は、あくまでも部分的な不可知性にとどまっている。相手を疑ってかかっているときでさえ、その人の心の動きのいちいちすべてを疑うわけではない。いわんや、その人の心の有無を疑ったりはしない。」
野矢茂樹『心と他者』中公文庫、P98)

 友人とあれこれ議論しているうちに、かつて読んでメモしていた文章を思い出す。
 哲学研究者の野矢茂樹も指摘するように、個々人に心があったところで、結局その内実を伺い知ることはできない、と多くの人は考えている。人工知能には心がない、と嘆くとき、その「心」は温かさや優しさの源泉として捉えられているが、一転、疑いや憎しみの源泉となることもある。「こいつ、本心では……」という猜疑心を、人工知能に向けなければならなくなるのは、なかなか煩わしい。

 どれだけ人工知能が発達しようと、それが「人間ではない」と認識されるだけで、欠陥があるものと見做される。
 仮に「人間である」と認識される上で、心をもつことが求められているとする。心は、様々な感情の源泉となる不安定なものであり、それをもつとは、不安定な存在になることを引き受けることである。
 人工知能が「人間である」と認識されるには、不安定な存在にならなければならない。こういうことだろうか。



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