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抱擁感

「詩の面白さが分からない」

 一年に一度は、この言葉を耳にする。そしてここには、(だから教えて)が含意されている。
 私は詩人でも、詩の研究者でもないから、この問いにスパッと答えれるほどの見識は持ち合わせていない。ただ、最低限、「うーん、どうしてだろうね……」と一緒に考えたいとは思っている。

 まず「詩の面白さが分からない」のざっくり度を確認したい。
 それは”詩“の部分を、他の文章表現と入れ替えるだけで、容易に確かめられる。
 会話相手が「小説の面白さが分からない」と言ってきたとしよう。すると大半の人は、「小説って言っても、色んなジャンルがあるからなー」とツッコミを入れるに違いない。ミステリー、SF、ホラー、ビルドゥングスロマン、などなど。もし発言者が、特定のジャンルしか読んでいないことを確認できれば、他ジャンルの本を勧めることによって突破口が開ける可能性はある。

 話を「詩」の場合に戻そう。「詩の面白さが分からない」というとき、そこでは「詩なんて、どれも同じようなものでしょう」という前提が根付いてしまっている。まずできるのは、取り上げる題材や表現形式の違いから、「詩」の内部にも多様性があるのを示すことである。前提を掘り返すところから始めるしかない。

「散文は多くの人に伝わることを目的にするので、個人が感じたこと、思ったことを、捨ててしまうこともある。個別の感情や、体験がゆがめられる恐れがある。散文は、個人的なものごとをどこまでも擁護するわけにはいかない。その意味では冷たいものなのである。詩のことばは、個人の思いを、個人のことばで伝えることを応援し、支持する。その人の感じること、思うこと、体験したこと。それかどんなにわかりにくいことばで表わされていても、詩は、それでいい、そのままでいいと、その人にささやくのだ。」
荒川洋治『詩とことば』岩波現代文庫、P132)

 現代詩作家・荒川洋治の言を引いてみた。「散文」と「詩のことば」が、「個人」という観点から比較されている。
 メッセージを広範囲に伝える上で、散文が適した表現形式であることは論を俟たない。日常生活で目にするテキストの多くが、散文の形をとっていることからも明らかである。
 一方、詩のことばは、胸中にある思いや葛藤を、そのまま表出することを目指した表現形式である。もちろん一度文字に置き換える以上、真に「そのまま」であることは不可能だとしても、できるだけ加工しないですますことが志向される。
 加工しない表現は、受け手の無関心、反発を招くが、ときに強い共感、抱擁感をも生む。「詩の面白さが分からない」と口にする人は、未だこの共感できる詩に出会えていないのかもしれない。



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