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失恋

 先日、書店でレジカウンターの列に並んでいたところ、前方から怒鳴る声が聞こえてきた。
 客が本のラッピングについて、何やら注文をつけているらしい。書店員はできないことを伝えているのだが、客は一向に納得しない。
 問答を繰り返したあと、次は「領収書いうてるやろ!」とがなり立てる。私の前に並んでいた男性が、「いま初めて聞いたわ」と小声でつっこむ。私も同感だった。
 荒げる客に対して、いたって書店員の対応は冷静で、「宛名はいかが致しましょうか」とたずねる。客は「R大学や!」とがなる。
 「うわ……大学関係者かよ。恥になるから、そんな大声で大学名を言うなよ……」と心中で嘆くが、時すでに遅し。
 客は店員に向かって、わざわざ大きな舌打ちを一つかましたあと、その場を後にした。

 客が書店員にキツくあたる場面は、時折目にする。本探しに手間取る書店員に対し、「店員なのに分からんのか」とぶつぶつ小言を口にする客がいる。在庫情報がすべて頭に入っているとでも思っているのだろうか。まして、客がすでに絶版となっている本を探している場合もあるから、時間をとって正確な情報を教えてもらった方がいい。「文句言うなら、自分で探せ」と思う。

 書店員を人間と見做さない、客の横暴な振る舞いを目にするたびに、思い出される作品がある。作家・上原隆によって書かれたノンフィクション・コラム、題は「未練」。
 本作は、最初、2018年刊行の『こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎)に収録され、現在は『ひそかに胸にやどる悔いあり』(双葉社)という文庫版で読むことができる。
 今回は、その内容を簡単に紹介したい。

 「未練」は、一人の書店員の語りを、著者が聞き手として伺う、という形式をとっている。
 語り手の書店員は、30代の男性。就職活動がうまくいかず、大学時代のアルバイト先だった書店で、契約社員として働いている。
 ある時期、勤務先に異動してきた正社員の女性と、交際するようになる。それまで女性との交際経験がなかった彼が、勇気を振り絞って告白したところ、それが実った。
 しかし、交際経験の不足もあって、なかなか彼女と身体を重ねることができない。セックスに対する嫌悪感も、男性の中にはあった。
 彼女の別勤務地への異動もあり、いつしか二人の関係から潤いが失われていく。痺れをきらした男性は、つい衝動的になって、彼女に別れのメールを送ってしまった。そして、これが決定打となって……。

「「『失礼なことしちゃってごめん、あれは別れたいと思ってやったわけじゃないんだ、ときどき俺は君がわかんなくなっちゃって、でもいっしょにいたい』っていったんです。彼女はずーっと黙ってました。暗いですよ。彼女の家の近くまで行ったとき『もうだめだね』って彼女がつぶやいたんです」」
上原隆『ひそかに胸にやどる悔いあり』双葉文庫、P60〜61)

 以上に見られるのは、男女のありふれた出会いと別れだが、私が大事にしたいのは、この"ありふれた"の部分である。
 書店員も我々と同じ人間であり、一人ひとり、別々の日常生活を送っている。
 我々がそうであるように、書店員も怒鳴り散らされれば、心が乱され、傷つくことがある。「勤務中に受けた傷は、勤務外になればさっぱり忘れる」というふうに、人間は便利にできていない。
 客と店員の関係になると、途端にこのことを忘れ、横柄な態度をとる客は少なくない。
 誰にでも魔が差して、文句の一つでもぶちまけたくなるときはあるだろう。それを店員に向けてしまいそうになったとき、相手も傷つく一人の人間であり、仕事と切り離せない日常生活があることは、最低限意識したい。



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