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名前

 私はある時期まで、有吉佐和子と阿川佐和子を判別できていなかった。
 阿川佐和子のエッセイが好きな知り合いの女性が、「いつか会ってお話ししてみたい」と話すのを耳にして、「もう亡くなってるのが残念ですね」と反応してしまう。当然「えっ? まだ亡くなってませんよ!」と驚かれ、私が阿川佐和子と有吉佐和子を混同していることが、明らかになった。

 人の名前を間違えることほど、失礼なことはない。
 その贖罪意識からだけではないが、定期的に意識して阿川佐和子のエッセイを読むようになった。
 一度読み始めると、スルスル読めてしまう。気づけば次の本を求めている自分がおり、「愛読者になるのも納得」とひとりごちた。

「私の「佐和子」という名前は墓から取った。その話は再三、書いたり喋ったりしてきたので詳細は省くが、父がたまたま通りかかった他人様の墓石を見て、「おれ、これにしよう」と決めたのだ。小さい頃、その話を友達にすると、「やだあ、怖くないの?」と眉をひそめられたが、私は嫌だとも怖いとも思ったことがない。ただ、できればもう少しお洒落な名前にしてほしかった。」
阿川佐和子『老人初心者の覚悟』中公文庫、P137)

 引用したのは、阿川が自身の名前の由来について語った文章。ここに出てくる「父」とは、作家の阿川弘之である。
 名前というのは、自分では決められないのに、ずっとついて回るという厄介な代物だ。命名者である親や親類は、何らかの願いを込めて名付けているケースが多いが、私の場合、その願いと自分の生活態度があまりにかけ離れていて、気まずくなったこともある。

「他人には奇異に感じられる名前にも親の気持が込められているはずだ。五十年後、このキラキラネームの子供たちが高齢になって、その名前で呼ばれる姿を見てみたい。もっともその頃、他人様の平和など考えぬ意地悪お佐和ばあさんはこの世にいないだろうけれどね。」
阿川佐和子『老人初心者の覚悟』中公文庫、P139)

 現代は、戸籍上の本名とは違う名前を、各々が持っている時代である。自分で決めたアカウント名を掲げて、活発な発信が行われているSNSでは、もういちいち本名かそうでないかを気にすることはない。
 私にも、リアルな場でお互いをSNSのアカウント名で呼び合う友人・知人がおり、本名を知らなくても、特に問題は起きていない。阿川は「キラキラネーム」の例を出していたが、おじいちゃん・おばあちゃんがアカウント名で語り合う未来も、そう遠くはないと思う。



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