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野菜ジュースを飲む理由

「食事」は、主に3つの動機の有無によって成り立っている。1つは、お腹を満たすため。2つ目は、味を楽しむため。最後は、健康のためである。
「食事」には、「お腹は満たされないけれど、濃厚な味を楽しめた」というものもあれば、「味はふつうだけど、たくさん食べれて満足」というものもある。つまり、3つの動機の濃度の差によって、「食事」のバリエーションが生まれていると言える。
(余程の物好きでないかぎり、まずくてお腹はふくれない上に、食べたら不健康になるような食事をする人はいないだろう。)

ここで考えたいのが、「野菜ジュース」という飲み物についてである。現代人であれば、スーパーやコンビニなど、身近な場所で購入できるこの飲み物を、一度も飲んだことがないという人はいないだろう。
そこで、一つの問いが頭に浮かんでくる。それは「なぜ野菜ジュースを飲むのか?」というもの。「美味しいから飲む」という人も一定数いるだろうが、それ以上に「健康のために飲む」という人が多いのではないだろうか。さらにその中でも「野菜の代わりに野菜ジュースを飲んでいる」の比率が高いことは、容易に想像がつく。私自身、京都で一人暮らしをはじめてから数年間は、「偏った食事になるのはまずい」という危機感から、野菜ジュースを買って飲んでいた覚えがある。

「野菜の代わりに野菜ジュースを飲んでいる」ーー私自身を含め、ごく当たり前に共有されているこの考えは、本当に正しいのだろうか。そんな疑問を露も抱いたことがなかったある日、私は偶然にもそれに答えてくれる本に出会うことになる。

髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』(講談社)は、私たちの食生活が、いかに誤解に満ちた食情報で満たされているのかを、きちんとしたデータを用いて示してくれる一冊である。
その中に、「野菜ジュースは野菜を食べた代わりにならない」というダイレクトなタイトルの一節がある。ここで髙橋は、野菜ジュースが野菜の代用にはなりえない理由を、次のように述べている。

「「野菜ジュース」というのは野菜のしぼり汁だけを集めたもので、汁に入り込めない成分は取り除かれてしまっている」「野菜ジュースで摂取できるのは液汁部分の成分だけです」(髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』講談社、P176)

ここで注意したいのが、髙橋は野菜ジュースを飲むこと自体を否定しているわけではなく、また野菜ジュースと野菜がまったくの別物であると言っているわけでもない、ということである。彼女が指摘しているのは、「野菜ジュースを飲んでおけば、野菜は食べなくていい」という誤った考えであり、野菜そのものを食べることの価値である。
髙橋は、野菜そのものを食べることが大切である理由を3つに分けて示す。

①野菜に含まれる成分のうち、体内に吸収されて重要な役割を演じる物質が摂取できる。
②食物繊維が摂取できる。
③味や歯触り、季節感など、私たちの食事を楽しませてくれる。
(以上、髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』講談社、P176〜177)

上記の3つの理由に通底するのは、「野菜全体を食べて、はじめて野菜を食べる意味が達成される」という考え方である。
髙橋は、別の箇所で次のようにも述べている。

「野菜を食べることが大事、といわれる理由の一つは、ジュースであれば取り除かれてしまう「かす」の部分を摂取することにあるのです。また、野菜は水分や食物繊維が多いので食事の見かけの量(カサ)を増やします。野菜の食べ方が少ない人はどうしてもタンパク質や脂質、炭水化物などをたくさん含む食品をとりすぎる傾向があるので、そういう「くせ」を治すためにも野菜を野菜として献立の中に入れる必要があるのです。」(髙橋久仁子『「食べもの神話」の落とし穴』講談社、P180)

まとめると、野菜ジュースは「野菜の代わりに飲む」のではなく、「美味しいから飲む」のであれば、なんの問題もなく、あわせてきちんと野菜を食べればいい、ということになるだろう。

一冊の本を読むことによって、"食"との向き合い方が変わる。やはり、読書は奥深い。


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