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ペタコのさえずりに想う、台湾の悲哀|芒種~夏至|旅に効く、台湾ごよみ(21)

旅に効く、台湾ごよみは、季節の暦(二十四節気)に準じて、暮らしにとけこんだ行事や風習などを現地在住の作家・栖来すみきひかりさんが紹介。より彩り豊かな台湾の旅へと誘います。今回は、鳥のさえずりに呼び覚まされる“台湾の古い記憶”について。

梅雨の雨だれのなか「ぴちゅ ぴちゅちゅく ぴちゅく」と鳥の声がしてきて、ああ、雨がやんだのかと気づく。とりわけ軽やかなのは、日本統治時代より「ペタコ」という名でも親しまれてきたヒヨドリ科シロガシラのさえずりである。

童謡にも歌われたペタコ

シロガシラはその名の通りヘルメットをかぶったような白い頭が特徴的だが、台湾語(ホーロー語)では「ペエタウコッ」(白頭拡)と言うのが日本語で訛って「ペタコ」になった。台湾のそこらじゅうで見かける鳥で、台湾俳句の初夏の季語でもある(※台湾俳句歳時記/黄霊芝・著)。「ペタコ」という語感も可愛らしいせいだろう、日本語の童謡でも歌われてヒットした。

ペタコ おっかさんに
しろい ぼうし もろた
ペタコ しろいぼうし かぶってる
ハリャン リャカ リャンノ
リャン リャン リャン
ハリャン リャカ リャンノ
リャン リャン リャン

『白頭鳥(ペタコ)』
作詞:野口雨情 / 作曲:中山晋平

『兎のダンス』『雨ふりお月さん』『しゃぼん玉』などで知られる作曲・中山晋平×作詞・野口雨情コンビによる童謡『白頭鳥(ペタコ)』は、ふたりが1927年に台湾を訪れた際につくられた歌で、台湾ではたいへんに流行ったらしい。

この曲を初めて聴いたのがいつかはうろ覚えだが、おそらくNHK「ラジオ深夜便」での中山晋平か野口雨情の特集だった気がする。20年以上も昔のことで、当時京都に住んでいたわたしは「ペタコ」がどんな鳥でどんな風に鳴くのかも知らなかったし、もっといえばその数年後に台湾へと移住して「ペタコ」の聲に包まれて暮らすようになるなんて露知らずにいた。あらためてこの曲を聴くと京都の深夜の空気を思い出す。音楽と記憶の関係というのは奥ぶかい。
 
ハリャン リャカ リャンノ リャン リャン リャン
 
家の外から聴こえくる、せわしなく誰かに喋りかけるようなペタコの声をこんなふうに表現してしまうとは。歌い手は「天才少女歌手」として日本ビクターの第一専属歌手となった平井英子である。

平井英子といえば、真っ先に思い出すのが『茶目子の一日』というオペレッタ童謡をアニメーション仕立てにした作品(1931/昭和6年)だ。

小学生の茶目子ちゃめこさんが、朝起きてごはんを食べ、学校に行って算術や読本の授業で褒められ、ご褒美にお母さんに活動写真(トーキー)を観に連れていってもらうという、当時の裕福な家庭のお嬢さんの一日を描いたものだが、納豆は食卓でワルツを踊るわ、黒豆は茶目子の口めがけグルグル回転しながら飛び込むわ、制服が勝手に茶目子を包み込むわ、活動写真で首が飛ぶわと、わずか6分のなかでびっくりイマジネーションが爆発する。中毒性のある「こわカワイイ」アニメで、20代のころに繰り返し観たが、昨年ひさしぶりに観返して、90年前に作られたとは思えないほど今もって新鮮な発想と斬新さを確認した。

「茶目子の一日」を観返すきっかけになったのは、ニュースで平井英子さんの訃報を聞いたからだった。平井さんは、黒澤明やマキノ雅弘の監督する多くの映画音楽をつくった鈴木静一と結婚し芸能界を引退、その後は一般人として暮らしていた。そして昨年、東京都内の老人ホームにて104歳で息を引き取ったという。

戦前の日本における台湾のイメージ

平井英子さんのことが気になって、歌った曲を調べてみた。2014年に発売された全曲集には、台湾に関連するこんな歌も収録されていた。

青いお空の南国で わたしは生まれた 台湾娘
緑の椰子のそよ風を ねんねん子守に聞きました

甘いバナナの木のかげで わたしは夢見る台湾娘
綺麗な白いジャスミンの 花の香りを愛します

青い月夜の星の晩 わたしは淋しい台湾娘
胡弓の糸の音のように ほろほろなぜにか泣けてくる

『台湾娘』
作詞:織田勇一郎 / 作曲:王福 / 編曲:鈴木静一

考え込んでしまう。
どうして戦前の日本における台湾イメージは、こんなにもうら寂しい物悲しいものが多いのだろう。平井英子さんは、他にも『きょう』(※お神輿のようにかつぐ乗り物のこと)という台湾童謡も歌っているようだが、そちらも何だか哀愁ただよう歌詞だ。

『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』など多くの童謡で知られる詩人のまど・みちおさんも、「ペタコ」の出てくる詩をつくっている。

ぽとり、ぽとり、落ちるのだ
庭の蕃石榴が熟れて
日がな夜がな
ぽとり、ぽとり、落ちるのだ
 
どこからかペタコもやってきて
ぴろっ、ぴろっと啼いては 
黄色い玉を
ぽとり、ぽとり、落とすのだ

まど・みちお『蕃石榴が落ちるのだ』 


蕃石榴ばんじろうとは、グアバのこと。台湾では一般的に“芭楽バラー”と呼ばれ一年を通して楽しめるフルーツだが、今出回っている大きなグアバは改良品種がタイから移植されたもので、昔ながらの台湾グアバは小さな実で白とピンク色の二種類あり独特の甘い匂いを持つ。

ごつごつした硬い種を持つ蕃石榴は、熟れて来ると鳥がとんで来て実をついばみ、種のはいった糞をあちこちに落とすので色んな場所に自生している。しかしなぜか、まどさんの蕃石榴の詩も、ぽとり、ぽとり、ぴろっ、ぴろっ、と言うオノマトペが響く情景に、煌めく太陽の下にできる濃い影のような、のどかな暗さが漂っている。

まど・みちおと台湾の関係

まど・みちおが、なぜ台湾のペタコの詩を書いたのか? 不思議に思う方も多いだろう。じつはまどさんは、台湾と深い関係をもっているからだ。

1909(明治42)年に山口県の徳山町(現・周南市)で生まれたまど・みちおは、台湾台北で働く父親のもとに先に呼び寄せられた母や兄弟と4年ほど離ればなれになって祖父母と過ごした寂しい幼年期を経て、9歳より台北に移住した。台北工業学校(現・国立台北科技大学)在学中に詩作を始め、卒業後は台湾総督府道路港湾課に就職して道路や橋の測量・設計・施工にたずさわった。

24歳で『コドモノクニ』に投稿した童謡が北原白秋の目に留まり特選を果たして以来、童謡と詩をつくるのに没頭したまどさんは、33歳のとき太平洋戦争に出征。そのままフィリピンとシンガポールで捕虜となり終戦で日本に帰国するまで、じつに24年もの時間を台湾で過ごしたのである。代表作のひとつである『ぞうさん』の象とは、まどさんが17歳ごろに台北動物園にやってきた象の「マー」ではなかったかなんて話もある。

35歳で日本に帰ったまど・みちおは、出版社に勤めながら多くの詩や童謡をつくり、退職後には絵を描く事にも熱中して、2014年に104歳で亡くなるまで生涯にわたって創作をつづけた。しかし日本に帰国して以降、台湾のおもいでを具体的に書いた作品は死ぬまでひとつも作らなかったという。

「日本人が台湾を統治してましたからむろん差別や不公平があったわけですが、その政治の横暴が見えなかったんです。目前のね、日本人の巡査が向こうの人を殴るとかいう現場にいたら、それに対しては憤慨しましたけどね。それで十五年戦争下の台湾が、そのおかれている地理的風土的経済的特殊状況の中でどのように変貌させられつつあるかなども、まるっきり見えなかったようです」

『まど・みちおの詩と童謡の世界:表現の諸相を探る』
張晟喜/法政大学学術機関リポジトリ

台湾に居た頃のじぶんをまどさんは後に客観的にこう語っているが、ペタコの詩のもつ暗さには、まどさんが無意識のうちに見ていた「変貌させられつつある台湾」が写りこんでいるように思える。

「ペタコ」は、戦後の台湾でまた別の意味を持った。2万人以上の犠牲者を出したといわれる武力衝突、二二八事件の後に戒厳令が敷かれた台湾では、独裁体制に従わないものは徹底的に弾圧され、多くの人が殺されたり、拷問されたり、投獄されたりした。政治犯として刑務所に入れられた人々は、白いヘルメットを被った刑務所の憲兵のことを、仲間内の符号で「ペタコ」と呼んだという。

ハリャン リャカ リャンノ リャン リャン リャン

夜明けと共にペタコが鳴き始める。ヒナの生まれるこの芒種の季節にはとりわけ賑やかに鳴く。台湾という土地と歴史がそのさえずりに、なんとも不思議な陰影を与えていることを想う。

文・絵=栖来ひかり

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。

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