チューリップ熱愛|イスタンブル便り
3500万円。
現代のお金に換算すると、それくらいだったという。家の値段ではない。チューリップの球根一個の話である。
チューリップの国、といえば、ほとんどの日本人は、オランダ、と答えることだろう。それは日本だけの話ではない。風車、木靴、チューリップの三拍子は、世界的にオランダの定番である。チューリップの輸出世界シェアの9割を占めるのはオランダなのだそうだ。
わたしのような「トルコ関係者」は、そこを「いやいや、じつはチューリップの原産はトルコで、それをオランダ人が持って行って……」と話を進めるのが定石である。
しかし、このエッセイを書くにあたり調べてみたら、意外なことを知った。チューリップを国花としているのはトルコとオランダだけでない。アフガニスタンとイラン、ハンガリーも、なのだそうだ。国花、とは、その国民が最も親しみを感じている花のことらしい。つまり、それだけ多くの国の国民が、自分のものとして愛している、ということなのである。
チューリップの原産地は、広くアナトリア高原、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈とされる。考えてみれば、草花は現代の国境などおかまいなしである。だから、なにもトルコに限らない(しかし、この連載は「イスタンブル便り」である)。
ではなぜ、トルコといえばチューリップなのか。
エチオピア原産のコーヒーが、「トルココーヒー」として世界遺産となったのと同じ話だ。オスマン帝国からもたらされたチューリップは、コーヒーのようにヨーロッパのひとびとを中毒に陥れたのだ。食べ物ではないから、熱狂、というべきか。時代的にはチューリップのほうが先だ。
1636年、オランダ。
それまでにすでに、チューリップ球根は、ジン、ニシン、チーズに次いでオランダの主要輸出品目第4位だった。
変化は11月に起こる。チューリップ球根の値段が、急に上がり始めたのである。現物も現金もやりとりしないまま転売に転売が重ねられ、一ヶ月の間に150倍以上にも跳ね上がった。ピークは翌37年の2月3日。200倍以上となった。その日を境に急激に落ち始める。花の季節となったからだ。二ヶ月後の5月1日までには、値段は元どおりになった。もちろん、ババ抜きよろしく、価格が暴落した時に現物を持っていた人は、大損である。だが、あまりにも多くの人が負債を抱える羽目になったので、とうとう政府から支払い免除の通達が出た。
経済史に名高い「チューリップ熱狂」現象である。その原因には数々の説があるが、誰にもわからないという。
この時に最高値を記録したのは、ゼンパー・アウグストゥスという品種。赤または紫に白の絞りが入るもので、絞りが入れば入るほど珍重された。価格は3000から4200フローリン。
当時、腕のいい職人の年収は約300フローリン、アムステルダム国立博物館所蔵のレンブラントの代表作「夜警」の当時破格の報酬だった値段は、1600フローリンだったというから、べらぼうだ。
いくつかの条件が重なっている。
ヨーロッパの花にはない色、形の多様性や美しさ、 東洋から来たエキゾチックなイメージと改良品種の希少性、そして、季節もの、生ものという期間限定によって、この上ない贅沢品という価値が生み出された。いわゆる「先物取引」の最初の例だそうだ。
この話を知ると、17世紀オランダ静物画の見方がまったく変わってしまう。花瓶に生けられた花に、チューリップ、しかも絞りが混じっているならば、それは間違いなく成金趣味、経済的豊かさの誇示を意味した。
それにしても、美術品や骨董品ではなく、いま形のない、季節で価値が変わる、よく面倒を見ないと花咲かない球根に大金が飛び交ったのは驚きだ。
オランダ黄金時代、世界の富の偏りが生んだ、ほんのひとときの狂気である。しかし、それは愛だったのだろうか?
* * *
「チューリップ時代には、花を愛する人たちの集まりがありました。週に一回、たとえば水曜日に、それぞれ自分の育てた花を持ち寄り、おたがいに褒めたり批評しあったりするんです。参加するには、自分で育てた花を持ってくる、というそれだけの資格でいいの。大宰相から役人、一介の市井の人まで、身分に関係なく集まって、みんなで花の話をしていたんですよ」
声の調子、表情や光の具合まで、鮮明に覚えている。
学生時代、旧市街にあるイスタンブル大学までヌルハン先生の講義を聴きに通っていた。帰りにグランド・バザールを抜けて、ベデステンの骨董屋を冷やかすのも毎週の楽しみだった。
ヌルハン先生は当時もう退官なさっていたと思うが、週に一度だけ、大学院でオスマン美術史の授業を担当していた。十人足らずの小さなクラスで、お茶目で暖かい先生の講義を、直に受けられるのは、限りない喜びだった。
優れた歴史家には、話術が巧みな人が多い。「オスマン美術史の母后」と渾名される世界的権威、ヌルハン先生もその筆頭だ。自由自在に語られる講義は、 極彩色の絹天鵞絨が次々と惜しげなく目の前に広げられるようだった。
その一瞬、自分のなかにぴかっと光が差したような感じがした。
室町時代の会所や江戸時代の種交換会に、なんだか似ている。身分に関わりなく、花を愛でるために、というところが粋ではないか。
チューリップ時代。
高校時代に世界史を履修したことのあるひとなら、オスマン帝国に、そんな可愛らしい名前の時代があったことをご記憶だろう。
一般的には、18世紀初頭 、アフメット三世時代のほんの十数年間(1718-1730)を指す。 ネヴシェヒールリ・「スルタンの娘婿」・イブラーヒム・パシャが大宰相となり、外交的には平和政策、文化が栄えた、とされる。
征服に次ぐ征服、拡張に次ぐ拡張がひと段落した時期である。東にシャー・タスマースブ二世(1704-1740)のサファヴィー朝イラン、南にはアウラングゼーブ(1617-1707)の最盛期のムガル帝国をひかえ、ウィーン包囲はだいぶ昔の話、各帝国は均衡を保っていた。ルイ15世のフランス宮廷にオスマン帝国から初めて大使ユルミセキズ・チェレビ・メフメット・エフェンディが派遣され、「トルコ風」が大流行するきっかけとなったのもこの頃である。
トルコではこの花は、ラーレ、と呼ばれる。もとはペルシャ語の「ラール(赤)」からだ。詩歌の発達した社会では、言葉遊び・文字合わせで意味が増幅するのを楽しむ。「ラーレlale لاله 」 は、「アッラー allah الله」とアラビア文字表記で使用される文字が同じ(エリフ[a]、へー[h]、ラーム[l]が二つ)なので*、「三日月 ヒラールhilal خلال 」とともに、とくに喜ばれ、文学では重層的な言葉遊びの対象となった。
支配者層、知識階級は、日本文化での漢文と同じように、ペルシャ文学、書道の素養が当然だった。アフメット三世自身も、詩人・書家としても知られる。
ヨーロッパ諸語での名前「チューリップ」は、「巻物」を意味するペルシャ語のトゥルベンド(ターバンの語源)から来たという。トゥルベンドを巻いたオスマン人たちの大きな頭のシルエットと、ぷっくりと丸い花の形との連想だろう。そこに西洋人の東洋へのオリエンタリズムが混じっていることは否めない。
じつをいえばこの「チューリップ時代」は、あとから発明されたものである。オスマン帝国時代末期、「オスマン」ではなく、「トルコ」という民族的な考え方とともに生まれ、アフメット・ルファットなどの歴史家によって20世紀初頭に定着させられた。
チューリップへの愛は、なにもチューリップ時代に始まったものではない。それを証拠に、16世紀のタイルにも、チューリップはじつにさまざまな形で描かれている。そして、いわゆる「チューリップ時代」以降も、チューリップへの愛は、連綿と受け継がれている。
* * *
「ルビーのうてな Peyker-i Yakut」、「人生のエッセンス Cevher-i Hayat」、「喜びをもたらすもの Ferah-engiz」、「またとない真珠 Dürr-i Yekta」……。
オランダの「チューリップ熱狂」勃発から約百年後のイスタンブル。『ラーレ古園頌』という18世紀の書物には、173人のラーレ熱愛者たちの名前、それぞれの栽培するラーレの品種、合計1138種の名前が記されている。上にあげたのはその一部だ。
オスマン帝国はチューリップの原産地、ヨーロッパへの提供元。新種の獲得は、オスマン帝国の拡張とともに進んだ。ムラト四世時代、ちょうどオランダの熱狂と同時期の1638年に、バグダッド遠征から新種のラーレがイスタンブルにもたらされた。イランに軍隊とともに派遣されたホジャ・ハサン・エフェンディは、7種のラーレとともにイスタンブルに戻ったことが記録されている。1651年には、オーストリア大使シミッド・ヴォン・シュウェイゼン・ホーンが10種のチューリップをイスタンブルに持ってきた。
つまり、ラーレをめぐる消費生活は、考えられていたより双方向で多角的だ。オスマン帝国の栽培者は、地元のラーレだけでなく、ヨーロッパからの(逆)輸入品、東からも西からも、様々な経路でもたらされた球根を入手し、品種改良を重ねていた。ヌルハン先生が語ってくれたのは、そんなラーレ市場の様子だったのだ。
オスマン人たちのラーレのネーミングの詩的ぶりはどうだ。「恋人の顔」、「ダイヤモンドの影」、「幸運の星」、言葉の優雅さにハートを射抜かれる。色によるもの、ラーレと盃の形の類似からの連想によるもの、光沢、庭園や春から発想されたもの、ラーレの人間への影響によるもの、美しさを強調するもの、宝石への喩え、動物への喩え、別の花への喩え、神話への連想、など、多種多様である。
そこへいくとオランダ産チューリップの品種名は、先のゼンパー・アウグストゥス(「常に偉大な」)とか、海軍提督の名前だったり、わりかし雄壮好みで男性的なところが対照的だ。
違いは形の好みにも表れている。
オランダで発達した絵入りの「チューリップ・ブック」に描かれる高額チューリップ(値段まで書き込まれているから、カタログである)が、幅広の花弁・派手な色合い・ぷっくりふくよかな形であるのに対して、オスマン帝国の花の絵入り本「シュキューフェナーメ(花の書)」に描かれるのは、シュッとしていて、花弁の先が尖り、分かれた形である。チューリップはもともとユリ科の植物、というのがよくわかる。
私見だが、花そのもののイメージも、ところによって変わる。日本では誰もが知っている童謡の影響もあって、チューリップには「かわいらしい」、「小学校お入学」のイメージがある。だがトルコで「ラーレ」といえば、どちらかというと「あでやか」、「瀟洒」という雰囲気だ。オランダを含むヨーロッパでは、「肉感的」、「官能的」のような言葉で形容されることも多い。ゴージャスな感じだ。
チューリップ時代独特の、贅沢で享楽的な雰囲気は、ネヴシェヒールリ・ダーマート・イブラーヒムとアフメット三世の娘、ファトマー・スルタンが ボスフォラス海峡沿いのチュラーアン(ペルシャ語で「光」の意)の邸宅ヤルで張った宴を見るとよくわかる。このふたりは夫50歳、妻14歳で結婚した超年の差カップルだが、心憎いばかりの演出を見ると、うまく行っていたらしいのも頷ける。
宴では、甲羅に蠟燭を立てられた何匹もの亀が 、咲き誇るラーレの園に放たれた。ゆったりとした亀の歩みに連れて、ゆらゆらと揺れる光(チュラーアン)に照らされたラーレの花々は、どんなふうに輝いていたことだろう。
* * *
3月末のある日、イスタンブルのヨーロッパ側、バルタリマヌにある日本庭園に出かけた。姉妹都市の下関市から、友好30周年を記念してイスタンブル市に贈られたもので、茶室を備えた日本家屋もある。
チューリップもいいが、日本人にとって花といえば、桜。
イスタンブルでは両方楽しめるので、毎年この時期になると大忙しである。桜は開花の状態をチェックして、日本美術史の「庭園」の講義を、ここですることにしている。秋学期の講座では、紅葉の時期である。
だが、このエッセイ用に写真を撮ろうとして、はたと気づいた。桜の花の写真だけ撮っても、これがトルコだとわからないではないか。
そこへ、トルコ人のご夫婦がやって来た。ちょうどいい。モデルをお願いし、写真を撮った。
「この花は、サクラですよね?」
わたしがうなずくと、ファズィーレット・ハヌムがこう言った。
「わたしたち、今年で結婚して30 年になるんですけど、(夫君を指して)このひと、結婚前にわたしのことを<サクラちゃん>って、呼んでいたんですよ。だから、わたしたちにとって、桜の花は特別なんです」。
夫君のエルギン・ベイは少し照れながら笑っている。
「ここへは、わざわざいらしたんですか?」
「そうなんです。今日はこのひと仕事が休みだから、こうしてわたしを桜の花を見に連れて来てくれたんですよ」
「まあ、なんて素敵なパートナーなんでしょう!」
そう言って横にいたパオロ騎士を見ると、苦笑いしている。今日はチューリップの名所だ、明日は講義の空き時間に日本庭園だ、と注文の多い妻の忠実な(?)運転手、いや、騎士である。
しかし、花に関してはこういうエピソードもある。
結婚前だったか、したての頃だったか。満面の笑みでもってきた花束は、菊だった。
いや、理解はできる。桜と並ぶ日本のイメージ、日本人女性への敬愛と、高貴な雰囲気が重なったにちがいない。しかし、パオロ騎士が、日本で菊の花が使用される場面と意味について、レクチャーされる羽目になったのはいうまでもない。外国人のパートナーをおもちの日本人女性で同じ経験のある方は、少なくないと予想する。
花に託される思い、ところそれぞれ、ひとそれぞれである。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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