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イスタンブル便り

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25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わ… もっと読む
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トルコから見るシルクロード(2)イスラーム・ホジャの夢(ヒヴァ)|イスタンブル便り

首都タシケントでの講演の翌々日、飛行機でヒヴァへ飛んだ。 ヒヴァはウズベキスタンの西端。海のない二重内陸国ウズベキスタンの、さらに奥まったところだ。こう言ってはなんだが、地の果てのような場所だ。そんなところに、なぜわざわざ行ったのか。 ここは、ヒヴァ・ハーン国という小さな国の首都だった。街そのものがそっくりそのまま、世界遺産である。日干し煉瓦で造られた独特の城壁に囲まれた「城内」は、ウズベキスタンのなかでも、最初に世界遺産に指定された、特別な場所なのだ。 空港から直行し

トルコから見るシルクロード(1)伊東忠太をめぐって(タシケントとブハラ)|イスタンブル便り

サマルカンドから帰ってきたばかりである。サマルカンドは、中央アジア、ウズベキスタンにあるオアシス都市。シルクロードで栄えたことで有名だ。先月のエジプト同様、日本のさる研究機関から依頼された、研究調査出張だった。 ウズベキスタンは初めてだった。 研究のために行くというのに、誰も知り合いがいない。ゼロである。 出発する数日前、勤務先のイスタンブル工科大学の同僚、ゼイネップから尋ねられた。 「タシケントに行くの? ユクセルに会う?」ゼイネップが言う。 「え? ユクセル先生?

ボスフォラス海峡とナイル河: オスマン帝国的カイロ案内|イスタンブル便り

ナイル河のほとりで、この原稿を書いている。 日本のさる研究機関の研究プロジェクトによる調査出張である。数えてみれば、10年ぶりのカイロだ。初めて訪れたのは、20年以上前の学生の頃、一人だった。それから何度か訪れている。 カイロは大好きな街だ。「ああ、ここからアフリカが始まるのか」というのが、第一印象だった。その印象は、今も変わらない。空港に降り立った途端、細かいことにこだわらないおおらかさを感じる。建物のスケールも、トルコとは違って大きい(19世紀にイタリア人建築家が多く

静かに進化するトルコの食文化(2)イスタンブルのリトル・シリア|イスタンブル便り

「先生、僕の彼女、フーディー(食べることが大好きな人。グルメとは違う日常的な食に関心が高い人のこと)なんです」。 授業の合間にそう言って、<すごく美味しいシリア料理>を勧められた。さる私立大学で助教を務めながらインダストリアル・デザインの博士課程に通うバライダは、流行に敏感で、レストランに詳しい。ある日、体調を壊したと言って授業を急に休んだので心配していたら、翌週出てきてこう言った。 「先週僕の誕生日だったんですけど、新しくできたタイ料理のレストランで、生まれて初めてタイ

静かに進化するトルコの食文化(1)|イスタンブル便り

「ねえ先生、うちのおじいちゃん、あのベトナム料理の、生春巻きにはまっちゃって、『ほら、お前がこの間作ったあのサルマ(葡萄の葉でお米を巻いたトルコ料理)が食べたい』なんていうんですよ。」 講義の休憩時間にそんな話をしてくれたのは、大学院修士課程で私が論文指導をしていた学生、ブシュラーだった。コロナがようやく下火になって、マスクをしながらだが対面授業になってすぐの頃だったから、2年くらい前だろうか。 それを聞いて、隔世の感に捕らわれたのを、よく覚えている。ブシュラーはトルコ南

トプカプ宮殿宝物秘話:トルコ共和国建国100周年に寄せて|イスタンブル便り

今年2023年10月29日、まもなくトルコ共和国は建国100周年を迎える。100年前のこの日、アンカラのトルコ大国民議会は「共和国」の成立を宣言した。それとともに、法律を制定し、これを建国の日と定めた。 晴れがましいこの日は、600年以上続いたオスマン帝国に最後のとどめが刺された日でもある。トプカプ宮殿と、そこに安置された宝物は、その交代劇で人知れぬ、しかし大きな役割を演じた。あまり言及されることがないので、そのことを、この機会に書いておこうと思う。 * * * 「来週

魅惑のオスマン美術史入門(5)・最終回|イスタンブル便り

初めて訪れたポーランドのワルシャワで、この原稿を書いている。 四年に一度開催されるトルコ美術国際学会の第17回目が、ここワルシャワ大学で開催中なのだ。ちょうど初日の昨日、わたしは自分の発表を終えた。今回は初めて、トルコ美術史の文脈で伊東忠太の話をした。数年来調査していた、東京大学所蔵の伊東忠太資料の全貌を、初披露したのである。世界じゅうから専門家が集まる場で、忠太の話が関心を集め、さまざまな方から質問やコメントをいただき、嬉しい気持ちでいる。 わたし自身は今年で参加は七度

関東大震災100年と伊東忠太|イスタンブル便り

国境の町で、 一泊を余儀なくされた。イタリアの山の上の村からイスタンブルへ帰る自動車旅行の途上である。南伊の港からギリシャへフェリーで渡り、イグナツィア街道をひた走り、トルコへの国境を越えてしばらく行ったところで、車が突然故障したのだ。 翌朝。宿泊客のまばらな朝食室のテレビが、破壊された建物の映像を映し出した。まだ目覚めていなかった体の細胞が、一気に覚醒した。 トルコ南東部、シリア北西部を未曾有の大地震が襲ったのは、今年2月のことである。現時点で、死者数は5万余と言われて

帰ってきたヤニグロ音楽祭と巨匠たちの真剣勝負|イスタンブル便り 特別編

来年もう一度、やれるのだろうか。 去年の夏、コロナ下の幸福な巡り合わせから実現した、世界的巨匠たちの音楽祭。州都の名前を、イタリア人でさえ知らないような地方、レストランもない小さな村。イタリアで最も観光化されていない(というのが唯一最大の特徴の)、モリーゼ州。そこが20世紀を代表するチェリストの一人、アントニオ・ヤニグロ(1918-1989)の父祖の地(そして、パオロ騎士の親戚である)という縁で、マエストロたちの個人的な力添えからはじまった。ジラルデッリ家が18世紀の歴史的

ヨルダン砂漠の遠足と美術史家という病|魅惑のオスマン美術史入門(4)|イスタンブル便り

日本の文部省(当時)から受けた奨学金の期間は二年。しかしわたしには、留学する前から密かに抱いた野望があった。 トルコ語で博士論文を書く。 トルコで博士号を取得する、というよりも、美術や建築作品を生み出した言語、それを愛でた人々が話し、考えていた言語で、作品を理解したい。そういう切実な願いを持っていた。 たとえば日本美術の専門家がいたとする。その人が日本語を少しも理解しなかったとしたら、日本人のわたしたちは、どう受け止めるだろうか? ああ、日本美術が好きなのね、と思いこそ

イスタンブルの水不足|魅惑のオスマン美術史入門(3)|イスタンブル便り

怯んだのも一瞬、わたしはここぞとばかりに訴えた。 日本で手に入る文献には限りがある。母校の図書館や専門図書館の東洋文庫、中近東文化センター、さらには専門家の先生がたから個人的に本を借りたりもしている。それでも足りない。 それに、オスマン帝国の建築文化というものを、現地に行って深く理解したい。必死だった。 その時、審査室全体の雰囲気が変わったのを覚えている。数人の審査員の先生が、深く頷いてくれたのだ。 そして数週間後、わたしは合格の通知を手にしたのである。 * * *

トルコにバロック建築がある!?|魅惑のオスマン美術史入門(2)|イスタンブル便り

トルコのことを研究する。 星山晋也先生に背中を押されて、人生にそういう方向があるということを示された。だが、右も左もわからない。大学四年生になった、春のことだった。 先生がコピーしてくれた英語の世界美術百科事典 『Encyclopedia of World Art』の項目、Turkeyは、当然ながら英語で書かれていた。トルコのことを勉強しようとすると、文献は英語なのか。その事実に愕然としていた。 外国のことを学ぶのだもの、当然だ。しかしそれを知っているのと、実際にやる、

ドルマバフチェ宮殿の衝撃|魅惑のオスマン美術史入門(1)|イスタンブル便り

門はどこにあるのか? わからない。それがわたしのオスマン美術史入門だった。 先月、わたしがトルコ語を習い始めた頃のことを書いた。前後の経緯は省いたのだが、そこを知りたい、というご希望を後からいただいた。そこで今回は、なぜこの 豪華絢爛な迷路に迷い込んだのか、という話をしようと思う。 はじめは美術史だった。世の中には、「美術史」という学問があるらしい。そのことを知ったのは、大学で文学部に入り、専門に分かれる前だ。一年生の教養課程で、「美術史教養演習」という講座があった。美術

東京のなかのイスタンブル(後編)ユヌス・エムレ インスティテュート東京と、トルコ語初学のころ|イスタンブル便り

ユヌス・エムレと聞いて、何のことかすぐにわかる人は、稀だろう。 トルコは最初からそういうハンデを負っている。 では、ゲーテなら? このエッセイをお読みの本好きの方なら、ご存知のはずだ。ならば、ゲーテ・インスティトゥートといえば何のことか、だいたい予想はおつきでしょう。19世紀ドイツの詩人・文学者、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の名を冠した、ドイツの文化センターのことだ。ドイツ連邦政府の機関で、世界各国に設置され、ドイツ語の普及やドイツ文化全般