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バッハと土耳其珈琲|イスタンブル便り

この連載イスタンブル便りでは、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、トルコの地に刻まれたコーヒーの「記憶ハトゥル」について。

「一杯のコーヒーには、四十年ぶんのハトゥルがある」

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 トルコでよく知られることわざである。だが、ハトゥル、とは、訳すのが難しいトルコ語のひとつだ。

 あえていうなら、思い出、あるいは、記憶、だろうか。しかし、日本語の「思い出」に、遠い日のもの、変更不可能な過去、というニュアンスがあるのにくらべて、トルコ語の「ハトゥル」は、一筋縄ではいかない 。忘却の彼方と現在が、ある日突然、繋がったりするのだ。

「ハトゥルを尋ねる」という行為があるからだ。

 日常のふとした瞬間に、ある人を思い出すことがある。あるいは、夢に見る。それが「ハトゥル」だ。そうやって、頭に浮かんだ、と言って、電話がかかってくることもある。その用件は、「ハトゥル」を尋ねるため、なのである。

 そういう行為を、以前はなんだか不思議なことだと思っていた。お互いにまったく関係ないところで進んでいた人生が、ある時、ある場所で、交差する。その偶然性、偶然から生まれた関係を、相手に「思い出させる」という、能動的な行為。

 だが、コロナの外出禁止で人と会えなかった時間、その「ハトゥル」は、どれだけの重みをもってわれわれの前に現れたか。

 トルコでは「記憶」とは、生きていて、ときおり更新されるものなのだ。それも、思いもかけない時に。

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 2月のある日曜日の朝、イスタンブルのアジア側、カドゥキョイのスレイヤー・オペラ座に出かけた。演目は、バッハの「コーヒー・カンタータ」である。

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1926年創立のスレイヤー・オペラ座は、その建物も共和国初期のイスタンブルのブルジョワジー好みの瀟洒な雰囲気をとどめる。

 音楽の父、といわれるJ.S.バッハに、「コーヒー・カンタータ」という作品があるのをご存知だろうか。カンタータとは、器楽つきの声楽曲のことである。本来なら、衣装や舞台装置などの演劇的要素はなく、純粋に音楽として演奏されるものだそうだ。

 主人公はコーヒー中毒の娘。それをやめさせたい父親とのかけあい、舞台はドイツ、バッハが住んでいたライプツィヒのコーヒーハウスだ。当時のコーヒーハウスは、コーヒーを供するだけでなく、音楽の演奏なども行われていたというから、現代でいうライブハウスのようなものだ。バッハがこの曲を作曲したのは1732年ごろ、とされる。

 コーヒーをやめないなら素敵なドレスも金銀のリボンもなしという父の脅しに屈しない娘は、結婚もなし、と言われると態度を翻す。しかし実は、いつでもコーヒーを飲ませてくれる相手でないと絶対に結婚しない、と陰で舌を出していた、という茶目っ気たっぷりの筋書きである。家庭でコーヒーを誰が淹れるのか? 家事のジェンダー問題まで思わせる点で現代的だ。

 うら若い娘をそこまで夢中にさせた相手、コーヒー。歌詞は、「猫がネズミをとるのをやめさせられないように、母も祖母も飲んでいたものを、娘にやめさせることはできない」とまでいう。

 この作品がイスタンブルで上演されるのには、二重の意味がある。

 ライプツィヒ娘を中毒にした魅惑の味、コーヒーと、カフェ(コーヒーハウス)をもたらしたのは、オスマン帝国だったからだ。それが逆輸入されて、今度はトルコの人がコーヒー中毒の娘の話を鑑賞する。わたしとしては、そこに興が湧いたのだ。

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 植物としてのコーヒーの原産地はエチオピアとされる。8世紀ごろに、食料とされていた痕跡があるそうだ。それが、バーブ・エル・マンデル(アラビア語で「涙の門」)海峡を挟んで対岸のアラビア半島、現在のイエメンあたりでも栽培され、飲料として広がった。

 地図を広げてみてほしい。

 コーヒーの銘柄として有名な「モカ」は、この海峡に面した港町の名だ。有田産の陶磁器が、その積み出し港の名から世界で「イマリ」として有名になったのと同じだ。

 コーヒーには覚醒作用がある。これに目をつけたのがイスラーム僧だ。礼拝や瞑想に好都合だった。しかし、すでに10−11世紀ごろには、これが教義としてありなのか? の議論が起こった。その登場からして、コーヒーには背徳的な性格づけが付きまとっている。飲むと眠気がなくなり、知的活動が活性化する、その不思議な作用のせいだ。

 コーヒーは瞬く間に広がった。12世紀ごろには、メッカに巡礼したイスラーム神秘主義教団の祖シャーズィリーがコーヒーを飲んだとの伝承があり(そのため、コーヒー業界で開祖聖人となった)、14世紀にはダマスカス、カイロ、アレッポなどの都市でコーヒーを飲ませる店が登場している。

 そのコーヒーの文化的な立ち位置を決定づけたのが、オスマン帝国だった。1517年のカイロ征服をきっかけに、 コーヒーは人々の生活に入り込んだ。

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コーヒーには水が添えられるのが定番だが、これはレイハンという赤シソに似た香草から作ったシェルベット(シャーベットの語源となった甘い飲み物)が添えられている。

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オスマン帝国の最初の首都、ブルサの蚕取引場コザ・ハーンの中庭にある歴史的コーヒー店には、アンティークのカップがずらり。

 ちなみに、ここでいう「コーヒー」とは、パウダー状に挽いた(製法はどちらかといえば、「突いた」に近い)豆を、水と一緒にジェズヴェ(小さな銅鍋)で煮出したもののことだ。漉さずに静かに上澄みを飲む。

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今では数少なくなった昔ながらの製法で石臼で突くコーヒー。ベテランのフェリットさんの筋肉がすべてを物語る。エーゲ海の小さな街にて。

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打ち出しの銅製のジェズヴェは、今でも昔ながらの型がしっかり売られているのが嬉しいところ。

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トルコ南東部の街ガジアンテップで、16世紀から続く商業施設、フェルト業者のベデステン(取引場)中庭のコーヒー店。コーヒーは奥に見える竃で、炭火でじっくりと煮出したもの。

 コーヒーはお腹を満たすわけではない。味や香りを喜ぶ嗜好品、それを飲む空間は、人と出会い、詩を朗詠し、ゲームをし、 メッダー(漫談)やカラギョズ(ユーモラスな影絵芝居)などの大衆芸術を楽しむ文化発信の場となった。

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100年の歴史のあるエーゲ海の街のカフェの内部。

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アントワーヌ・イグナス・メリングの銅版画による19世紀初頭イスタンブルのカフェ。「ソファ」と噴水のある空間、窓外にはボスフォラス海峡の眺望。セリム三世の妹ハティージェ・スルタンのお抱えだったメリングは、その後ナポレオンの皇后ジョセフィーヌ付きの風景画家となった。

「カフェ」の始まりである。

 しかし、コーヒー、カフェはオスマン帝国でも繰り返し、禁止と許容の憂き目にあった。

 宗教的な解釈もさることながら、問題はカフェが体制批判の温床となる点だった。支配側にとっては、不穏なことだ。17世紀、ムラト四世の時代には死刑まで布告されたが、完全に根を断つことはできなかったという。

 その一方で、宮廷ではコーヒー給仕の道具や作法が洗練された。公式の役職まである。トプカプ宮殿には、大粒のダイヤモンドやエメラルド、螺鈿、鼈甲や犀の角まで、なんとも優雅で贅を尽くした道具がずらずらと並んでいる。ちなみにコーヒーカップ本体は、宮廷では高価な中国陶磁と決まっている。コーヒーはお菓子とともに供され、音楽の演奏も楽しんだ。

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銅の打ち出しの伝統細工のコーヒーセット。装飾を凝らしたカバーの中に、磁器製のカップをセットするが、本来は取っ手なし、足つきのエッグスタンドのような形である。求肥に似た伝統菓子ロクムが添えられている。

 人を中毒にするほどの魅力は、 オスマン帝国時代に洗練された「焙煎」によりいっそう高まる。香ばしい香りは、ともすれば悪魔的な誘惑となった。17世紀に、ローマの貴族ピエトロ・デッラ・ヴァッレは「黒い水」を飲むイスタンブルの人々の話をナポリの友人に書き送っている。

 イスタンブルで最初のカフェは、シルケジ駅にほど近いエミノニュに開店したという。初めて焙煎済み、挽いた豆を売り出したコーヒー豆屋、現存最老舗のメフメット・エフェンディも同じ地区で健在だ。

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家庭で行うものだった焙煎、撹拌の手間を済ませたコーヒーを初めて売り出したのがメフメット・エフェンディ、創業1871年。アール・デコの洒落た本社ビル、ロゴもトレードマーク。17世紀から続く香辛料市場、エジプシャン・バザールの入り口脇のロケーション。

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トルココーヒーの世界シェア1位の大企業で、スーパーなどで工業製品のパッケージが買えるが、店頭限定で昔ながらの手詰め。いつも行列である。ブレンドの内容は企業秘密。

 オスマン帝国発信の「カフェ」の文化は、すぐさまヨーロッパを席巻した。その空間は、オスマン帝国を連想させるオリエンタルな意匠でひとびとを惹きつけた。たとえば寛ぎ用の長椅子「ソファ」は、もとはといえばオスマン帝国から世界じゅうに広まったものである。

 バッハの「コーヒー・カンタータ」はカフェで上演するための作品だったが、ちょうど同時期、ヴィヴァルディもオスマン帝国スルタンの名を冠したオペラ『ベヤズィット』を作曲している。コーヒー好きの音楽家といえば、時代は少し下がるが、「トルコ行進曲」を作曲したベートーヴェンは、毎朝60粒のコーヒー豆をきっちり数えて挽き、コーヒーを飲んだことで知られる。コーヒー、そしてトルコは、ちょっとした流行だったのだ。

 しかしイスタンブルでは逆の現象が起こった。

 19世紀半ばにイスタンブルを訪れたフランスの劇作家、テオフィール・ゴーティエ(バレエ「ジゼル」の台本作者、と言ったほうがわかりやすいかもしれない)は、パリでは金の内装のカフェ・テュルクが流行なのに、ここではパリ式カフェが高級で、一杯のコーヒーが庶民的な店での夕食一食ぶん、と書いている。

 そしてトルココーヒーが、淹れる手順、作法、器具、コーヒー占いや暮らしの中での伝統とともに、ユネスコ世界無形遺産リストに登録されたのは、2013年のことである。

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エルメスのお皿でサーブされる現代イスタンブルのパリ式カフェのトルココーヒー。エルメスも、オスマン帝国をはじめとするオリエンタルな意匠から少なからずインスパイアされている。

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 閑話休題。さて、件のコーヒー・カンタータ。

 会場に入り、舞台を見て思いついた。上演中の様子、写真を撮る許可がもらえないかしら? このエッセイに載せたいと思ったのだ。

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イスタンブルで上演されたバッハ「コーヒー・カンタータ」より
「ああ、コーヒー、なんて素敵な味! 千のキスより愛しく、マスカットのワインよりも舌触りがいい、コーヒー、コーヒーを飲まなくちゃ、もし誰かがわたしを喜ばせたいなら、コーヒーを飲ませるだけでいいのよ!」と歌う娘。Photo :©️Yasin Kula

 ロビーに出て、誰に尋ねたらいいか考えた瞬間。

「ミユキ!」

 絶妙のタイミングで、声をかけられた。

 黒髪の女性が、にこにこと笑っている。

 どこかで見かけたような気がする。が、思い出せない。

「わたしのこときっと覚えてないでしょう? 前に日本から建築家たちがやってきて地震について講演した時に、あなた通訳したでしょう? それで覚えているの。あの時、わたしもいたのよ」

 言われて驚いた。20年以上も前の話だ。名前まで覚えてくれていたなんて。

 1999年8月17日。

 イスタンブルとその南西部を襲ったマルマラ海沖地震。二万人近い犠牲者を出した大地震の後、神戸の経験をシェアしたい、と、神戸の建築家協会から専門家チームがトルコにやってきた。イスタンブル、ブルサ、アンカラ、イズミルの四都市で行われた報告会で通訳をした。

 どの会場でも必死で質問したい、話したい人だらけの中、学生通訳のわたし一人で、大変ハードな経験だったが、その時に、地学関係の雑誌から同行密着取材していた人がいた。それが彼女、セダーさんだった。

 思いがけない巡り合わせ、覚えていてくれたことに喜んでいると、「何か探してるの?」と、尋ねてくれた。

 事情を話すと、「あら、今回の企画の芸術監督、わたしの夫なのよ」。その後建築家になったセダーさんのパートナーは、国際的に活躍するバリトン歌手、ブラクさんだったのだ。

 これはコーヒーがもたらしてくれた「ハトゥル」に違いない。

 その後、セダーさんと旧交を温め、ほんのひとときコーヒーを楽しんだのはいうまでもない。

 折しも、ちょうどこの原稿を書いていた夜、東日本を再度襲った地震のニュースを知った。その夜のうちに、しばらく連絡を取っていなかった友人知人からメッセージが届き、その後会った人たちからも、直接お見舞いの言葉をいくつもいただいた。この場を借りて、被災された方々に、トルコの人々からのお見舞いをお伝えし、一日も早い復旧をお祈りしたい。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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