128 1986年と2024年、昭和と令和
ドラマ『不適切にもほどがある!』
宮藤官九郎脚本のドラマなので、とにかく見なければ。
そう思っていたのに、金曜日の放送を見逃してしまい、日曜日に再放送をしてくれたおかげで1話を見ることができた。
ああ、タイムトラベルものだった。私の嫌いな未来や過去へ行き来するやつ。しかし、大笑いしながら見終えるのだった。なるほど、そうきたか。
突然のミュージカルに「おまえも歌うんかい!」とツッコミを入れたくなる展開。このドラマは、40年近く前の日本といまの日本を比較して、どれほど大きく変化しているか、そのズレのようなものを描きつつ、なんでいまほど多様性に溢れた世界なのに生きづらいのかを描きだそうとしている、のかもしれない。その大義名分的なところを、歌で言い合うのである。
唐突な歌、といえば、インド映画を思い出す人もいるだろう。これはもう、インド映画の影響なんだ、と断言してもいいかもしれないが、私の感覚からすると、メル・ブルックス監督作品の流れを汲んでいると思いたい。
メル・ブルックスはサム・ペキンパーと並んで私の好きな映画で、この監督たちは、度を越すことがとても上手い。巧みに易々と度を越してしまうのである。私の大好きな「ブレージング・サドル」というメル・ブルックスの映画については、あらすじさえもが、いまのコンプライアンスではお話できないような内容である。
簡単に言えば、西部劇なのだが、なにを間違えたか、赴任してきた保安官は黒人だった、という話。人種差別の坩堝の中へ、彼は飄々と飛び込んでくるのである。そしてお下劣なギャグの連発。ラストシーンは誰もが真似したくなるような、映画の枠をぶっ壊してしまう大暴走ぶりである。
好きじゃないタイムトラベルも、要するに文化の比較のためにやむを得ず取り入れた仕掛けだとすれば、まあいいか、となる。登場する学生に「タイムトラベルは可能」と言わせてしまうのはもうきっと伏線だろうけど、ちょっとやりすぎな気もする。理論上はできるけれど、生きた人間を生きたままできるかといえば恐らくムリだろうから。
それにしても昭和
すべてのテレビ番組を見ているわけではないが、昨年あたりから、急激に「昭和」テーマの番組が増えている気がしてならない。昭和の「あるある」をいまの子どもたちにクイズ形式で当てさせる。昭和のヒット曲をVTRやご本人登場で振り返る。そんな企画が多いのは、視聴者の多くが高齢者からではないか。
その意味で、ドラマ『不適切にもほどがある!』も、高齢者をも巻き込んで楽しんでもらえるのではないか、と企画されたと考えてもいい。とはいえ、私がテレビドラマを見始めたきっかけとなった『あまちゃん』も、実は、このドラマと同じような構造になっていて、タイムトラベルはしないけれども、昔のアイドルといま(ドラマ時点でのいま)のアイドルを描いていたし、もちろん小泉今日子も薬師丸ひろ子も登場させて、なんにも説明しなくても高齢の視聴者にはそれがわかる仕組みになっていた。
なお、ドラマ『不適切にもほどがある!』の快挙は、ドラマ『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』でみごとだった河合優実を、1986年世界に登場させている点だ。阿部サダヲ演じる主人公のひとり娘の役である。
これは、TBSドラマ『毎度おさわがせします』(1985年)の中山美穂である。私はほとんどドラマを見ていないけれど、知識としてそれぐらいのことは知っているのだ。そういえば劇中に板東英二の名も出たような気もする。
それにしても、セリフに時代感をてんこ盛りにしているのは、とんでもない力技であるし、このドラマで描かれている1986年は、1986年を生きていた記憶のある人にとっては、「そうそう」とうなずくよりもむしろ「いくらなんでも、それはないだろう」の方がやや上回っている気もするけれど、それがこのドラマのおもしろさにつながっているので、私は許容する。
昭和って、いま生きている人の多くが経験しているはずだが、まあ、かなりとんでもないことも多かったんだよね。
そしてドラマではなく、私たちはこの週末、昭和からの亡霊についてのニュースに注目したのだった。1970年代に起きた連続企業爆破事件の犯人のひとりとして指名手配されていた男らしき人物が名乗りをあげて、末期癌だと報道され、今朝、息を引き取ったと報じられた。確定的なことはまだわからないのだが、改めて多くの人たちが「昭和」を意識したに違いない。
彼はまさかタイムトラベルによって突然に現われたわけではないだろう。彼がもしあの時代に戻れるとしたら、どうしたいだろう。
少なくとも私は、「昭和に帰りたい」とは思わないけれど、あの頃に戻って地球の温暖化を止めることができるものだろうか、とふと思ったりはする。そして青江三奈のようなため息をつくのである。