見出し画像

北海道釣りミステリー『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』アメマスはどこへ消えた? 犯人は地球温暖化⁉ フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【1尾目】【2尾目】

[あらすじ]
フライフィッシングが趣味の栗尾根くりおね天士たかしは、道東の川で水死体を釣り上げてしまう。死体は温泉地のホテル従業員、濱口はまぐち正夫まさお。水難事故として処理しようとする北海道警察釧路署の姿勢に疑問を感じた栗尾根は、独自の捜査を開始する。濱口の部屋で謎の名簿を手に入れるが、そこにはなぜか栗尾根自身の名前と住所が書かれていた。濱口の秘密を追いかける栗尾根。その背後に迫る、札幌ナンバーの黒いトヨタ・アルファード。そして神出鬼没、闇の中から事態をじっと見つめる「フクロウ男」の正体とは? 釣竿と事件を乗せて、栗尾根のスズキ・ジムニーが、晩秋の北の大地を駆け巡るハードボイルド・フィッシングミステリー

【1】


 夏の終わりに暴れ狂った台風は、日本列島から二十余名の魂を吸い上げ、裁判にかけられることもなく、留置場にも入れられず、名残惜しげに網走港あばしりこうの小型漁船を数隻沈めてオホーツク海へ高飛びした。
 道東の道路と鉄道は、ズタズタに断ち切られ、復旧のめどの立たない区間がいくつも残されていた。
 十勝とかちでは橋が落ち、走行中の車が流された。
 二名の行方不明者は、十月に入ってもまだ見つかっていない。

 秋は死の季節シーズン

 栗尾根天士くりおねたかしの足元にも死体が転がっていた。
 赤茶けた肌の、鼻先の曲がったオスのサケが、事切れて腐臭を漂わせているのだ。
 河原へ目を移すと、ところどころに赤茶色の影が落ちていた。落葉の吹き溜まり以外は、サケの死骸だ。
 産卵を終えた魚からどんどん死んでいく。舞い降りたカラスがそれをついばんでいる。

シャケに説法。南無阿弥陀鮭。


 まだ生きているサケもいる。
 時折、川底を黒い影がよぎったり、浅瀬でバシャバシャと跳ねていた。
 栗尾根は、いつの間にか川下へ流されてしまった釣糸を手元へたぐり寄せ、再び竿を振り込んだ。
 緩やかな流れに打ち込まれた餌は、サケの卵。
 イクラ。
 その、イミテーション。
 釣鉤つりばりに、ピンクの毛糸を巻いてハサミで丸く刈り込んだ手製の毛鉤けばりだ。

サーモンエッグの毛鉤(イクラのイミテーション)

 水を吸ったニセモノのイクラが流れに飲み込まれ、沈んで消えた。
 沈んだイクラに引きずられるようにして、蛍光オレンジのナツメ型の小さなウキが川面を滑り始める。
 このスチロール樹脂のウキを「インジケーター」とか「マーカー」と呼ぶ奴がいたら、そいつはまぎれもなく毛鉤釣師フライフィッシャーだ。
 インジケーターは、地層がむき出しになった崖の下の青黒いよどみに沿ってゆっくりと流れていった。

崖の下の毛鉤釣師


 川幅は7、8メートル。
 広くても、10メートル。
 早瀬もなければ落ち込みもない、のっぺりとした流れだった。
 本州ならハヤかオイカワが釣れそうな雰囲気だが、道東の川はどこもこんな感じだ。
 栗尾根は竿を上げ、川から釣糸を引き抜いた。
 同じ場所を二回流したが、インジケーターに変化がなかった。
 もっと下流へ行こう。
 渓流釣りは上流へ釣り上るのが基本だが、道東の緩い流れは下るほうが釣りやすい。
 小石の河原をザッツ、ザッツと踏みつけるたびにキリリーン、カリリーンとベストに吊るした熊除けの鈴も鳴った。
 栗尾根の行く手に小さく見えている赤い橋梁は、廃線となったローカル線のものだった。

紅葉と赤い橋


 かつて沿線には炭鉱町が栄え、黒いダイヤと呼ばれた石炭を積んだ貨物列車が川をまたいで走っていた。
 1970年代に閉山。
 最盛期には人口2万人を越えた集落も散り散りとなったが、鉄道のほうは赤字を積み上げながら1980年代初頭まで走り続けた。
 山の灯が消え、鉄路も断たれ、すっかり寂しくなった土地に新たな価値を見出したのは釣人たち。
 ここは、春に川を下り、秋に海からさかのぼってくる大型アメマスの釣場として、全国の毛鉤釣師から熱い視線を注がれている超有名河川のはずなのだ。
 鈴の音が止んだ。
 栗尾根の足が、止まっていた。
 偏光グラスの目を細めて川の中を見つめていた。
 対岸に少しよどみができて川底が見えなくなっている。
 魚がひそんでいるなら、そこだ。
 栗尾根はリールから、淡いグリーンの釣糸を引き出しながらしなやかに竿を振り始めた。
 空を舞う釣糸は、栗尾根の前と後ろでU字のループを描きながら距離を伸ばしていく。
 PVCポリ塩化ビニール樹脂でコーティングされた毛鉤釣り専用の糸は、それ自体の重さで軽い毛鉤を狙ったポイントまで運ぶのだ。

紅葉と毛鉤釣師


 釣糸は対岸の深みを目指してするすると伸びて、川に薄緑色の線が引かれた。
 イクラの毛鉤が、流れに巻かれて沈んでいった。
 インジケーターが川を滑っていく。
 水面に浮かぶオレンジの点を、じっと目で追っていた。
 点が、何かにつまずいたように止まり、水にもぐった。
 すかさず、竿をあおった。

C川中流域


 毛糸のイクラに落葉の塊がついて返ってきた。
 栗尾根は溜息をつき、毛鉤から落葉を振り落とした。
 一昨年あたりから、だろうか。
 目に見えて魚が減ってしまった。
 以前ならちょっとした深みには必ず数匹、泳いでいた。
 中には80センチを超える巨大な魚影も揺らめいていた。
 それがサケではなく、アメマスなのだから驚いてしまう。
 釣人たちが夢中になって通い詰めるのも無理はない。
 ところが、アメマスは消えてしまった。
 これは、事件だ。
 釣人たちの間では、誰がアメマスを消したのか、犯人探しが始まっていた。
 今のところ有力な容疑者は「地球温暖化」――地球規模の巨大な犯人だ。
 近年、北海道の漁場では異変が続いている。
 全道的なサケの不漁。
 道南のホッケが不漁。
 日高ひだかではシシャモの漁獲量が激減。
 根室ねむろのサンマも不漁。
 かと思えば、何十年も姿を見せなかったニシンが急に復活。暖流系のブリが豊漁……。
 温室効果ガスの増加が海水温の上昇を招き、魚類の回遊や繁殖に影響を与えているという説には信憑性がある。
 海と川を行き来するアメマスの生態にも何らかの変化が及んでいる可能性は高い。
 第二の容疑者は「漁業関係者」――これについては非常にデリケートな話になる。
 また鈴の音が止んだ。
 巨人の足!?
 栗尾根がギョッとして見上げると何のことはない、鉄橋の柱だった。
 古びたコンクリートの橋脚の上に、錆びた鉄骨の橋桁が載っている。先ほど遠くに見えていた赤い鉄橋だ。
 橋桁には、栗尾根の背丈よりも高い位置に泥のあとがついていた。
 流木も折り重なるようにして引っかかっている。
 川の水位は元に戻ったが、台風の爪あとはまだ生々しく残されていた。
 橋脚の根元はえぐれて、黒い淵になっている。
 変化に乏しいこの川では珍しく、ポイントらしいポイントだ。
 栗尾根は水ゴケで滑りやすくなった流れに静かに足を踏み入れていった。
 胸まである胴長靴ウェーダーが、次第に流れに埋まっていく。
 足首から、ふくらはぎにかけてが、水圧でキューっと引き締められる。
 膝から腰へ、秋の川の冷たさがジンジンはい上がってきた。
 淵の手前で横倒れになった柳が、まだ青々とした枝を揺らして釣りの邪魔をしている。
 栗尾根は柳に引っかけないよう、慎重に竿を振った。
 オレンジのインジケーターは、橋脚に寄り添うようにして黒い淵の上を流れていった。
 栗尾根は瞬きもせず、じっとそれを目で追った。
 何度か流したが、インジケーターに変化はない。
 ここにもいない。
 この川はもうダメなのだろうか。
 地球温暖化が犯人だとしたら、冷水を好む魚はいずれ北の大地から消える運命だ。
 栗尾根は、鉄橋を見上げた。
 風化が激しく、もう赤い塗装と赤錆の区別もつかなかった。

C川にかかる廃鉄橋


 上を走っていたローカル線は、日本国有鉄道の民営化に先駆けて廃止されたという。
 民営化後、道内の赤字路線は堰を切ったように切り捨てられ、今や北海道の路線図は背骨だけ残ったサケの死骸だった。
 ふと気がつくと、水面からオレンジ色が消えている。
 瞬間、栗尾根の手首が勝手に返って、竿を立てていた。
 右腕に小気味いい引きが伝わってきた。
 と、思う間もなく魚が、水面を滑ってこちらへ飛んでくる。
 栗尾根の手元で、25センチほどの魚体が身をくねらせていた。

毛鉤で釣れたアメマス(小型)


 このちっちゃいのが、アメマス
 川で生まれ、海で育つイワナの仲間。
 銀色の鱗は見る角度によって、アメジストのような紫の光を帯びた。
 そこにちりばめられた、白い水玉模様。
 草間彌生くさまやよいがデザインしたような、ポップな魚。
 サイズはともかく、やっと一匹、釣れた。
 在来種で、北海道を代表する釣りの対象魚だが、残念なことに味があまりよくないので、釣人以外には見向きもされない。
 放流したサケの稚魚を食い荒らすので、漁業関係者にとっては憎むべき害魚でもある。
 釣人の間で、漁民によるアメマスの大量駆除、アメマス大虐殺という都市伝説ならぬ辺境伝説が囁かれる背景がこれだ。
 栗尾根は小さなアメマスの口から鉤を外してやった。
 アメマスは、川に浸したてのひらの上でしばし、きょとんとして動かなかったが、釈放された事実に突然気づいたように尾びれを震わせて水中へ飛び出していった。
 再び淵へ毛鉤を送り込むと、またもインジケーターが沈み、小さなアメマスが水面に躍り上がった。
 同じ場所で続けて三匹。
 これまでの不調が嘘のように釣れ出した。
 この黒い淵の中にはアメマスが群がっているようだ。
 台風で流された土砂で川が浅くなり、魚が隠れる場所も減っている。
 もっと底のほうに、大物が隠れているかもしれない。
 栗尾根はベストのポケットから、粘土状のオモリを引っ張り出すと、指先で丸めて毛鉤の少し上に取りつけた。オモリには、タングステンの粉末が練り込まれていてよく沈むのだ。
 期待を込めて竿を振った。
 栗尾根のイメージの中で、イクラの毛鉤が川底にへばりついた大アメマスの鼻先までスーッと下りていった。

C川中流域



            ***
 キリリーン、カリリーンと鈴を鳴らしながら、枯れたススキをかき分けて、栗尾根が土手を上がってきた。
 ヒグマ出没注意の立て看板のある駐車スペースには、愛車のスズキ・ジムニーのほかにもう一台、釧路ナンバーのレンタカーが停まっていた。
 その横で、胴長靴をはいた男性が竿に釣糸を通している。
「どうでした?」
 見たところ五十五、六歳の男性は、釣り支度を進めながら朗らかに尋ねてきた。
「いや、どうもこうもないですね」栗尾根が答えた。
「ダメでしたか……」
 男性は釣糸を引っ張って竿先をぴんぴん曲げながら言った。
 栗尾根は男性の装備を見て、一瞬で理解した。
 アメリカ老舗メーカーの竿とリール。
 フェルトの中折れハット。
 ポケットがたくさんついた機能的なベストではなく、古風な釣り専用のショルダーバッグを下げていた。
 このスタイルを選ぶ毛鉤釣師は、高い確率であの映画の影響を受けている。
リバー・ランズ・スルー・イット
 日本公開は1993年。
 監督ロバート・レッドフォード。
 主演ブラッド・ピット。
 アメリカ西部モンタナ州のとある毛鉤釣り一家の家族愛、兄弟愛を描いた佳作。
 栗尾根が調べた範囲では、映画のせいで日本の毛鉤人口は十倍に膨らんだ。まさに毛鉤バブルだった。
「え、まったく? まったくダメ?」と男性。
「これくらいのが、三つです」
 栗尾根は左右の人差し指でサイズを示した。
「そうか、小物ばかりなんだ……」
 男性は竿の調子を確かめるように軽く振りながら独り言のように続けた。
「デカいのはどこへ行っちゃったんだろう……」
 釣場でよく見かける毛鉤釣師の年齢層は、五十代から六十代。そこに明らかなボリュームゾーンがあった。
 つまり三十代から四十代であの映画の直撃を受け、経済的に余裕もあるので毛鉤釣りを始めた人々だと考えると合点がいく。
 栗尾根は勝手に「フラピ(ブラピ)世代」と呼んでいた。
 自慢じゃないが、三十歳の栗尾根は、釣場で自分より年少の毛鉤釣師に出会ったためしがなかった。
 毛鉤人口の減少。
 釣師の高齢化。
 毛鉤専門店の相次ぐ閉店……
 日本が抱える問題の縮図がここにもあった。
「困ったもんだ。どうにかならないのかなあ……」
 男性の独り言が続いている。
 男性が振っている釣竿は、栗尾根が予算オーバーで手が届かなかった竿だ。
 為替で多少、値段は上下するものの税別で一本、10万円以上はするハイエンドモデル。
 だいたい毛鉤釣りは、若者が気軽に始めるには道具類が高すぎる。
 毛鉤業界がかろうじて命脈を保っているのは、釣師一人あたりの購入額が他の釣りより桁が一つ多いためだ。
「あれ、あなたもご存知ですよね?」
 揺れる竿先を見つめていた男性が、不意に栗尾根のほうを見て言った。
「はい? ええまあ」
 男性の釣具に気を取られていた栗尾根は曖昧に返した。
「ここのアメマスが、魚粉に加工されて、肥料ニワトリの餌になっているらしいじゃないですか」
 男性は呆れたように言った。
「ひどい話だよなあ……」
 それは初耳だ。
「アメマスなんて、漁師にとっちゃ、その程度の価値しかないんだろうけど。70センチ、80センチのアメなんてほかの場所じゃ、滅多に釣れないからなあ……もったいないですよ」
 男性は笑いながら同意を求めてきた。
「ねえ?」
 栗尾根は無言のまま曖昧な笑みだけ返した。
 この男性の中では、大型アメマス消失事件の犯人は漁業関係者に確定しているようだ。
 実は、真犯人は別にいる、という説もある。
 こんな田舎の小さな川が全国的に有名になり、年間延べ何千何万の釣人が殺到していたのだ。
 いくらC&R(キャッチ・アンド・リリース)だからといって、同じ魚が繰り返し釣られたら、やがて弱って死んでしまう。
 第三の容疑者――それは、アメマスの減少を嘆いている「釣人たち」。
 無自覚な犯罪ほどタチの悪いものはない。犯行現場(川)で被害者(魚)の一番近くにいたのに、事件と無関係ですむわけがないだろう。 
 そもそもアメマスは、産卵のために川をさかのぼってくる。魚が群れて釣りやすい時期だからといって、それを喜んで釣っていいのか。
 秋のアメマス釣りは、釣人としての倫理的問題もはらんでいるのだ。
 さらに言えばだ。魚釣りなんて、魚を鉤で引っかけて遊ぶ、野蛮で残酷な行為だという意見すらある。
 釣りとは高尚な趣味であり「魚と人間との技能の戦いちゅうこったなあ」と言ったのは、マンガ『釣りキチ三平』の主人公だったが、それも遠い昔の話になった。
 動物愛護の声が日に日に勢いを増している今日。愛護派の人々からすれば、生きものを使ったゲームなど言語道断。釣りは、憎むべき動物虐待の一種でしかないのだろう。
 これに対して、釣人の立場からの反論は難しい。「正義」は向こうにある。
 世界中でアンチフィッシングの嵐が吹き荒れる、釣人受難の時代は、もうすぐそこまで来ている。
 そんな気がしてならないのだった。
「それじゃ、また」
 釣り支度を終えた男性が栗尾根の横を通りすぎていった。
「あ。ここはやめたほうがいいですよ」
 栗尾根が、我に返った。土手を降りていこうとする男性を、慌てて呼び止めた。
「死体があるんです」
「死体? 死体って……」
 振り向いた男性の表情が強張っていた。
「ああ、何だ。サケの」
「サケも、ですが」
「鹿ですか? もしかして、熊?」
「人です」
「ああ、人……ええっ? 人間!?」
 男性の声が裏返った。
「はい、人間です。ほら、あそこの鉄橋の下で水死体を釣ってしまいまして。そろそろ警察が来るはずなんですけど」
 男性が持っていた釣糸の先がぴょんと跳ねて、しゅるるるるっと竿のリングを逆戻りしていった。
「これからちょっと面倒くさいことになりそうです。場所を変えたほうがいいのではないかと」
「……マジで? それ、先に言ってよ!」
 栗尾根は頭を掻いて謝った。
 男性がそそくさと道具を片づけレンタカーで走り去ると、入れ替わるようにしてサイレンが響いてきた。

熊は釣人の隣にいる。知らぬがヒグマ、ではすまされない。

【2】


 現場にやってきた警察官は三人。それに、救急救命士が二人。救急車は警察が呼んだのだろう。
「あんたがクリオネさん?」
 年配の警察官が話しかけてきた。
「じゃあ、すんませんが、案内してもらえますか」
 二十代と思われる若手の警官二人は、胴長靴を履いている。
 年配の警官は、膝までの長靴。
 救命士たちは、普通のシューズ。
 浅瀬を渡って進んだほうが早いのだが、河原を歩くことにした。
 一行は、石ころの上をおぼつかない足取りで進んでいった。栗尾根は彼らに合わせてゆっくり歩いた。
「ここへはよく釣りに来るの?」
 年配の警官は親しげに尋ねてくる。
「何が釣れるの?」
「アメマスです」
「ほう。マスかい」
「マスというより、デカいイワナですね」
「イワナか。そりゃ、うまいっしょ」
「いや、食べませんけど」
「おや。じゃあ、釣ってどうするの?」
「写真を撮って逃がします」
「もったいない。食えばいいべさ」
 釣り歴二十五年、釣りをしない人間とこの手の会話を何度繰り返してきたことか。
「おい。そこ、気をつけろ」
「うわ、サケが死んでる」
 若手の警官たちが騒がしい。
「汚ねえから、踏むなよ」
「うわ、ウジ涌いてる」
 ようやく赤い鉄橋の下まで来た。
「ここです」
 栗尾根は、橋脚の下を指さして言った。
「おう?」
 年配の警官が川面に目をこらした。
「仏さんは、どこだ? 流されちゃったか」
 栗尾根が川へ入っていった。 
 橋脚に引っかかった流木の中で一本、大きく湾曲した柳の枝が流れに合わせて揺れ動いている。
 枝に結ばれていた釣糸を引くと、どっしりとした重みが伝わってきた。
「この下です」
 栗尾根は、水中にビーンと突き刺さった釣糸を持ち上げて言った。
 三十分ほど前、黒い淵から釣り上げたものが水死体だとわかり、釣糸を切って枝に結びつけておいたのだ。
 年配の警官以下五人は、川岸に一列に並んでこちらを見ている。
「本当に釣っちゃったんですな」
 年配の警官が言った。
「おい、木村。ほら、代わってあげなさい」
 年配の警官が若手の警官たちを促した。
 「中島も、見てないで、早く。二人とも、川へ入った入った」
 日焼けして屈強そうな木村巡査が、胴長靴をジャバジャバいわせて流れに踏み込んできた。
 制服を着ている以外これといって特徴のない中島巡査も、恐る恐る川へ入ってきた。
 栗尾根は釣糸の端が川へ逃げてしまわないよう、木村巡査のゴム手袋に巻きつけるようにしてバトンタッチした。
「これ、切れませんか? 引っ張っちゃって、大丈夫ですか?」
 木村巡査は釣糸の重い手応えに戸惑っている。中島巡査も不安そうだ。
「80センチ以上のアメマスでも対応できる釣糸です」と言ってもわからないだろうから、栗尾根は「大丈夫です」とだけ答えた。
 若手警官たちは危なっかしい手つきで釣糸をたぐり寄せ始めた。
 自分が手伝ったほうが早く終わりそうだが、警察の領分には入らないに越したことはない。
 栗尾根は岸へ引き返した。
「おい、わかってるな。テングスを離すなよ」
 年配の警官は腕組みをして作業を見守っている。
「テングスをしっかり掴んで、ゆっくりと、慎重にな」
 テングス……
 栗尾根は懐かしさで眩暈がしそうになった。
 テングス。テグス。天蚕糸テグス
 手芸や工事現場ではまだ通用するのかもしれないが、釣りの世界では死語になっている。
 その昔、ガの一種「テグスサン」の幼虫の体内から絹糸腺けんしせんをとって釣糸にしていた時代の呼び名だ。
 現在の釣糸は、ライン(道糸)もリーダー(ハリス)もナイロンやポリエチレンなどの化学繊維で作られている。複数のポリエチレン糸で編まれたPEラインも大流行りだ。
 警官たちが引っ張っている糸も強度に定評のあるフロロカーボン製だった。
 川の中で木村巡査が何か言っている。
「あん? 何だって?」
 年配の警官が耳に手をあてて言った。
「い、糸が手に食い込んで、いたたたた……」
 木村巡査の情けない声が河原に響いた。
「ちょっと、痛いんですけど」
「痛いんですけど、じゃねえべさ」
 年配の警官は呆れたように言った。
「いいから、続けろ」
 木村巡査が顔をしかめながら釣糸を引っ張っている。中島巡査も糸を掴んで力を貸そうとするが足元がぐらつき、かえって邪魔になっているようだ。
 一瞬、水面が白くなった。
「お。今、何か見えたぞ」
 年配の警官が叫んだ。
「もうちょいだ。けっぱれ!(がんばれ!)」
 川に開いた黒い穴から白いものが浮かび上がり、水面に広がっていった。
「よーし。浮かんできた、浮かんできた」
 年配の警官が川へ身を乗り出した。
「けっぱれ! けっぱれ!」
 釣糸を木村巡査に任せ、中島巡査が直に白いものを捕まえようとした。
 突然、「うわっ」水しぶきが上がった。
 木村巡査が、滑って転んだのだ。体格がいいだけに、転び方も激しかった。
 白いものは、また黒い穴へ沈んでいった。
 木村巡査は尻もちをついたまま、腕に巻きつけた釣糸に引っ張られている。慌てて立ち上がろうとして、また滑って転んだ。
「おい、早く掴め!」
 中島巡査が腕を伸ばした。
 木村巡査も腕を伸ばすがわずかに届かない。
 そのまま、ずるっ、ずるっと、黒い穴のほうへ引き込まれていった。
 中島巡査の手が届いた。
 「痛い痛い痛い……」両腕を死者と同僚に伸ばされ、木村巡査が叫んでいる。
 中島巡査も流れの中で踏ん張っているだけで精一杯のようだ。
 水が膝の上を越えたら、重力の違う異世界へ来たと思ったほうがいい。その上、川底には茶色い水苔がびっしりと繁茂して、ぬるぬるとよく滑る。
「これ、大丈夫なのか……」
 救急救命士たちもそわそわし始めた。このままでは、警官の救急救命をするはめになる。
 年配の警官は目を閉じて溜息をついていた。
「ダメだこりゃ」と年配の警官。
「まったくもう、わやだな。はんかくさくて見てられんわ。いいから、テングスを一回離してしまえ」
 わやは、北海道弁で「めちゃくちゃ」。
 はんかくさいは、「馬鹿」「アホ」「間抜け」全般に使えた。
「そうだ。離せ、離せ」
 中島巡査も言った。
「重いんだよ。限界だ」
「いや、それが……手から離れない……離れません……」
 木村巡査が水をかぶりながら訴えた。
 栗尾根がゴム手袋にしっかりと巻きつけたのがまずかったようだ。
 警察の業務用胴長靴はゴム底で、滑り止めのフェルトもスパイクもついていないのだろう。
 二人の警官は、ゆっくりと確実に流れに引きずられていた。黒い穴の中から、死者に引っ張られているかのようだ。
「おまえら、本当に溺れるぞ」と年配の警官。
「今行くからちょっと待ってろ」
 年配の警官が膝までの長靴で川へ入っていこうとするのを、栗尾根は止めた。
「わたしが行きます」
 これ以上、溺死者を増やすわけにもいかない。
 栗尾根は歩き慣れた川へ入ると、木村巡査を助け起こした。釣糸も返してもらった。
「わたし一人でできますので」
 栗尾根は釣糸を自分のフィンガーレスの手袋に巻きつけた。
「いや、でも、かなり重いですよ。すごく滑るし……」と中島巡査。
「大丈夫です。慣れていますので、お任せください」
 川下へ行けたなら、死体を流れに乗せて楽に動かせそうだが、橋脚と流木が邪魔で回り込めない。このまま川上へ引き上げるしかなさそうだ。
 栗尾根は綱引きの要領で腰を落とし静かに下がっていった。
 流れに逆らって後退していると、川がまた白く輝き出した。
 死体は足から上がってきた。
 服装は、白のジャージ。
 その上に着たホットレッドのウインドブレーカーがまくれ上がって、顔を隠している。
 イクラの毛鉤は、脱げかけたジャージのパンツの裾に引っかかっていた。
「終わりました」
 死体を浅瀬まで引き上げると、栗尾根は警官たちに声をかけた。
「あとは、お任せします」
 警官たちが、ばつの悪そうな顔でうつむいている。
「まあ、何というか……ご協力、感謝します」
 年配の警官が、ぺこりと頭を下げた。


            ***
 赤いウインドブレーカーの下から、頬が青白く引き締まった若い男性が現れた。
 二十二、三歳か。顔色は悪いが、口元に耳を近づければまだ何かつぶやきそうだった。
 男性は警察官の手で袋に詰められ、担架に載せられて河原を運ばれていった。
「では、あなたは一度浮上させたご遺体を、また川へ沈めたというのですね?」
 警官たちが遺留品の捜索を続ける河原で、栗尾根は尋問を受けていた。
 陸に上げたまま警察を呼びに行くと、そこらのサケのようにカラスに目玉を狙われてしまう。それで沈めておいたのだが、まずかったのだろうか。
「いけませんね」
 眼鏡の奥の目が細く尖った。
「それは、間違った行動ですよ」
 部下を引き連れて、遅れて河原へやって来た眼鏡の警察官は、先の三人より階級が上のようだ。
「もしも、生存の可能性があったとしたら、どうされるおつもりですか?」
 水死体の生存の可能性……
 栗尾根は目をぱちくりさせた。
「いいですか。あなたは、まだ生きている人を救助もせず、もう一度溺れさせたことになるんですよ」
 それは気がつかなかった。
 栗尾根が水死体を釣るのは、これで四度目だった。
 最初は中学三年の春。港で釣った死体はすでに膨張して悪臭を放っていた。
 前の年の秋口に行方不明になったゴルフ場の管理スタッフだった。酔って岸壁から足を滑らせたようだ。
 死体を釣った少年として地方紙に載り、学校で一瞬だけ有名になった。
 二体目は、十年前の東京時代。場所は栃木県の湖。ボートで釣っていたときに引っかけた。
 釣竿の手応えでピンと来たので、死体を見る前にボートの上から県警に連絡した。上がってきたのはロープに絡まった全裸の男性だった。まだ身元不明のままのはずだ。
 三体目は……
「ちょっと、あなた……ちゃんと聞いていますか?」
 警察官の話は続いていた。
「すいません。はい。聞いています」
 栗尾根は、虚ろな目で答えた。
「いいですか。最悪の場合、過失致死傷罪の適用もありえるんです。重罪ですよ。あなたは大変な間違いを犯していたかもしれないのです……」
 警察官の声は、栗尾根の耳から川へ流れていった。
 釣り歴二十五年で。水死体が四体というのは多いのだろうか。
 年間8万人から10万人にも及ぶという、わが国の行方不明者。
 その95パーセント以上は、無事に発見される。
 だが1千人以上が毎年、行方知れずのままとなる。
 行方不明者が隠れる場所は大きく分けて次の三つ。
 人の中。森の中。水の中。
 国内なら1億人の中にまぎれるか、国土の三分の二の森林に潜むかだが、地球の面積の70パーセントは水なのだから、普通に考えれば水中に隠れている者が一番多いことになる。
 この瞬間にも海や川や湖に何万本もの釣糸が垂れていて、魚も釣れれば人も釣れる。
 それだけのことではないのか。
「あなた、大丈夫ですか? 聞いてる?」
 眼鏡の奥から細い目が自分を覗き込んでいた。
「すいません。はい。大丈夫です」
「ちょっと、しっかりしてください。今、とても大切な話をしているんですよ」
 校長先生の話と警察官の話は、どこか似ている。とても大切な話なのだが、無意味な点で。この無駄な時間の間にアメマスが2、3匹釣れただろう。
「本当にわかっていますか? もし生きていたら、どうなっていたか? あなたは、お医者さんですか? 医者じゃないのだから、勝手な判断をしてはいけないのです。一歩間違えば、大変な事態になっていたかもしれないんですよ。あなた、ちゃんとわかってる?」
 眼鏡の警察官は語気を強めた。
「すいません。そうですね。おっしゃるとおりです」
「そうですよ。一歩間違えば、大変な事態に……」
「鮮度がいいですわ、あの仏さん」
 背後から、のんびりした声が近づいてきた。
「水が冷たい季節で助かりましたな。これが夏場だったらと思うと……」
 年配の警官が、死体を運び終えて河原へ戻ってきたのだ。
「川に沈めたままで正解でしたよ。カラスに突っつかれでもしたら、仏さんも浮かばれませんからな」
 眼鏡の警官の眼鏡が動いている。顔の筋肉が小刻みに振動しているのだ。
「ヒグマに食われでもしたら本当、せっかく浮かんできたのに、浮かばれない」
「ヤマダイラっ!」眼鏡の警官が吐き出すように言った。
「はい? あ、わたしの感触では死後三日は経っていないだろうと」
「そうじゃなくて。あなた、不謹慎ですよ。今、発見者の方にお話を聞いていたところです。静かにしていただけますか」
「大変失礼いたしました。では」
 年配の警官は、慌てて持ち場へ戻っていった。
 栗尾根は死体の第一発見者ということで、氏名、住所、電話番号を控えられた。
「栗尾根天士……姓がくりおね、名がてんし?」
 眼鏡の警官がいぶかしげに言った。
「何だ、これ、本名ですか? あなた、ふざけてないでしょうね」
「てんし、じゃなくて、たかし。くりおねたかしです。本名です」
「まったく……言動も怪しければ、名前まで怪しい……」
 眼鏡の警官が手帳にメモしながら小声でつぶやいたが、しっかりと聞こえていた。
「で、ご職業は?」
「えーと、あの……どうの委託を受けて事務職のようなことをやっている……えーと、そういう奴です」
「……仕事まで怪しい……キラキラネームの怪しい事務職員、と」
 川では四人の胴長靴を履いた警官が川底をさらっている。
 河原でも三人があたりを探し回っていた。
 遺留品はまだ見つからない。
「ご協力、大変ありがとうございました」
 眼鏡の警官は抑揚のない声で言うと、手帳を閉じた。
「おい、ヤマダイラ。この方を駐車場までお連れして」
 やっと解放だ。
 陽は西の山へ倒れる速度を上げ始めている。
 栗尾根は、ヤマダイラと呼ばれた年配の警官に促されて河原を歩き始めた。
「驚いたでしょう。まさか、どざえもん……いや、水死体が釣れるなんてね」
「ええ、まあ」
 本日の釣果。小型アメマス、3。若い男性、1。
「自分は、釣りはせんのですが、小中学校のあだ名がサンペイでしたよ。釣りキチ三平と同じサンペイ。苗字が山に平と書いてヤマダイラなもんで」
 話し好きの警官だった。
「お疲れでしょう。今夜は、ゆっくり休んでください」
「ありがとうございます」
 ピィーッ、ヒュォォォーッ。
 突然、頭上から鋭い叫び声が響いてきた。
 見上げると、秋空に十数羽のトビの字を描いていた。
「トンビと一緒に帰りましょう、か」山平が笑った。
 赤い鉄橋の上にも一羽、留まってこちらを見下ろしていた。
 いや、あれは、シマフクロウ

釣人の頭上を旋回するトビ

 逆光でよく見えないが、シルエットがずんぐりと丸みを帯びている。カラスやトンビではない。
 フクロウらしい鳥が、羽を広げた。
 栗尾根が目を凝らしていると、秋風に揺れながら綿毛のようなものが河原へ降りてきた。
 シマフクロウの羽毛?
 そちらに気を取られているうちに、鉄橋の上のフクロウは姿を消していた。
 栗尾根は山平の目を盗んで、それを拾い上げた。
 羽毛じゃなかった。
 毛鉤だ。
 羽虫を模したドライフライだった。
「すいません」
 立ち止まった栗尾根に気づかず、数メートル先を歩いている山平に声をかけた。
「ちょっと、小用を……」
 急いで土手のほうへ駆けていく栗尾根の背後で山平の笑い声が響いた。
「おやおや、警察官の前で立小便ですか……」
 栗尾根は木陰に入ると、用を足すふりをして、あたりを見回した。
 けもの道があった。
 鉄橋の脇から土手の上に向かってクマザサを縫うように道がついている。
 栗尾根は、急な斜面を登って、鉄橋の上に立った。
 レールと枕木はすでに外されて、ただの橋のようになっている。
 人の足跡がある。それも複数。
 鹿の足跡もあった。
 こんなところをわざわざ歩くのは、廃線跡マニアくらいだろう。
 鉄橋の中ほどまで進んで、下を覗いた。7、8メートル下の川の中では、警察の捜索が続いている。
「しっかり底まで探せ。ほら、そっちの深いほうも」
 河原から指示を与えているのは眼鏡の警官だ。
 栗尾根は先ほど拾った毛鉤をてのひらに載せ、もう一度よく観察した。
 種類はよくわからないが、カゲロウだ。
 成虫ではなく、たぶん亜成虫。
 バランスよく、丁寧に巻かれている。
 野生のフクロウが昼間に、こんなところに留まっているのはおかしい。
 あれは、鳥じゃなかった。
 栗尾根の記憶の中で、フクロウに見えたシルエットが姿を変え始めた。
 ぼんやりとした輪郭がくっきりすると、それは今の自分と同じように、鉄橋から首を伸ばして下を覗いている人間の顔になった。
 濃いヒゲを生やし、丸い眼鏡をかけていた。
 フクロウが羽を広げ羽ばたいたように見えたのは、この毛鉤を投げる動作だったのだろう。
 下からのんびりした声が響いてきた。
「あれ? あの人、どこ行ったんだべ……」
 山平が河原をキョロキョロと見回している。
 栗尾根は急いで戻ろうとした。
 視界の隅で、何かが光って立ち止まった。
 川の流れの中に何かある。一番下流で作業している警官のすぐ後ろだ。
 警官たちに踏み荒らされて濁った川をじっと見つめていると、それが見えてきた。
「そこの人、後ろです」
 栗尾根は、鉄橋の上から思わず叫んでいた。
「あら、いつの間に」
 山平がこちらを見上げて驚いている。
 「あなた、そんなところで何をやっているんですか」
 眼鏡の警官も険しい表情で見上げている。
 栗尾根は構わず、その丸く光っているものを指さして知らせた。
「そう、それだ。リールだ。リールが沈んでいる」
 指摘された警官は、栗尾根の興奮ぶりにたじろぎながらも、足元に沈んでいるものに気づいたようだ。
 栗尾根が、息を切らせて河原へ戻ると、警官たちが川から引き揚げたものをシートの上に置いて検分中だ。
「これは、釣りだな。水難事故か」眼鏡の警官が言った。
「釣りをしていて溺れたんだろう」
「なまら(とても)滑る危険な川ですからな。先ほどの木村の実験で実証ずみですわ」山平が笑顔で言った。
「もう勘弁してくださいよ」
 木村巡査は濡れた下半身が寒いのか、小刻みに震えている。
 栗尾根は、警官たちの間に首を突っ込んで、それをよく見た。
「あ、あなたね、困りますよ。勝手なことされちゃ……」
 栗尾根に気づいた眼鏡の警官がとがめるが、気にしてはいられない。
 シートの上に、アルミ合金の鋼材から削り出した毛鉤釣り専用リールが、カーボン製の毛鉤釣り専用竿にセットされた状態で置かれていた。
 鉄橋の上からは見えなかったが、一緒に竿もついていたのだ。釣糸はすべてリールに収納されており、毛鉤は結ばれていないようだ。
「ルアーでサケでも狙ってたのかね、あの仏さん」と山平。
「密漁ですか」と中島巡査。
「違いますね」と栗尾根。
「これは渓流用の竿です。柔らかすぎて、サケは無理です。それにルアーの道具ではありません。フライです」
「フライ?」山平が首を傾げる。
「フライフィッシング。毛鉤です。西洋式の毛鉤釣り」
「ああ、毛鉤か」
「この川は、アメマスの毛鉤釣りで全国的に有名なんです」
「そうそう、アメマスでしたな。ほう、そんなに有名?」
「山平、何話し込んでるの?」眼鏡の警官が声を荒げた。
「あなたも、困りますよ。勝手に鉄橋に上がったりしては。いいですか。これ以上、捜索の邪魔をしないでください」
 眼鏡の警官の説教が始まったが、栗尾根は竿とリールから目が離せなくなった。
 おかしい。バランスが悪すぎる。
 竿は国産のメーカーの片手投げシングルハンド用。
 それも、かなり古いものだ。
 おそらく中古釣具ショップで3千円もしないだろう。個人的には、5百円でもいらない。
 ところが、リールはスウェーデン製。
 北欧の釣師の英知と高度な旋盤加工技術が到達したフライリールの最高峰。新品なら税別でも、12万円はするだろう。
 3千円以下の竿に、12万円のリールだ。
あずましくないな」栗尾根はつぶやいた。
「はあ? 何があずましくないというのですか?」
 眼鏡の警官が憮然として言った。
「あずましくない。この竿にこのリールは、ありえない」
「何を言い出すんだ。あなたは……」
 限られた予算で道具を選ぶとしたら、まともな毛鉤釣師はリールではなく、まず竿に金をかける。
 極端な話、竿さえあればリールはなくても釣りにはなる。
 これがルアー釣りなら、話は別だ。
 ルアーの場合はリールを巻いて疑似餌を動かし、かかった魚も引き寄せるのだから、リールの性能は重要な要素だ。
 竿よりリールが高価であっても不思議はない。
 ところが毛鉤釣りでは、釣糸は基本的に釣師の手でリールから引き出したり、引き寄せたりするものだ。リールを巻くのは、大物がかかり細かいやり取りが必要になったときと、釣りが終わって帰るとき。
 毛鉤釣師にとって高価なリールは、機械式の高級腕時計と同じ、見栄と自己満足の商品、といっては言いすぎだろうか。

フライリールとフライライン

一気にそこまで話して、栗尾根は一息ついた。
「あ、あなたね、いい加減にしなさい……」
 その間、眼鏡の警官が止めに入っていたようだが、まったく耳に入らなかった。
「ほう。毛鉤の釣りは、奥が深そうですな」
 山平は感心していた。
「なるほど。この竿とリールは、普通はありえない組み合わせだと?」
「山平。いいから、早くこの人を連れて行って」
「その前に、ちょっといいですか」
 栗尾根は眼鏡の警官の脇を擦り抜け、ひょいと竿を手に取った。
「あっ、遺留品に何を」
「ああ、やっぱり」栗尾根の勘はあたった。
「何が、やっぱりだ。早く、竿を戻しなさい」
「いや、これを見てください」
 栗尾根はリールから糸を引き出した。
 釣糸はリールの糸巻きをカリカリと回転させながら竿先とは反対方向へ伸びていく。
「ほらね」と栗尾根。
「何が、ほらねだ。それがどうしたというんです」
「わかりませんか? これ、逆です」
 この竿の持ち主は、リールを逆向きにつけてしまっている。丸い缶詰のようなシンプルな円筒形のリールは、ちゃんと確かめないと、しばしばこういう羽目になる。
「そんな講釈はいいから、竿を早く戻しなさい」
 栗尾根は、竿を足元のシートの上に置いた。
 が、何かに気づいて、また持ち上げた。
 薄いオリーブ色の釣糸にはアリのような小さな文字で数字と記号が印字されている。読めば、釣糸の種類や重さがわかるのだ。
 釣糸は6番だった。竿のほうは3番だ。
 この竿に、この糸では、番手が違いすぎないか?
 毛鉤釣りの道具は、釣場の規模や使う毛鉤のサイズによってクラス別に分かれている。
 5番の竿には5番のリール、5番の釣糸が適合するようにあらかじめ設計されている。
 この竿にこの釣糸では、糸が重すぎて、毛鉤をうまく投げられない。特殊な投法の使い手が、あえて番手を変える場合もあるにはある。だが、これではよほどの達人でないと、下手をすると竿が折れてしまう。
 ますます、あずましくなくなった。
「あなた、いい加減にしなさい!」
 眼鏡の奥から切りつけるような視線が栗尾根に注がれていた。
「警察の捜索中ですよ。もういいから、竿を置きなさい」
 気になるが仕方がない。栗尾根はシートの上に竿を戻した。
「いいですか。これ以上何かしたら、本当に公務執行妨害ですからね」
「まあまあ」と山平。
「死体を釣り上げて、まだ興奮状態なんですよ。無理もないですわ」
「もういいから、早くこの人を連れて行って」
 さあ、行きましょう、と山平に促され、後ろ髪を引かれながらも栗尾根は歩き出した。
「佐々木係長、こんなものが……」
 川から上がった警官が、水を滴らせながら何か持ってきた。
 フライベストだ。
 釣り用ウェアーや小物類で定評のあるアメリカのブランド品だ。
「ご遺体のものらしいな。流れにもまれて脱げたのか」
「あの、すいません。これで、最後。これで、最後です」
 警官たちの輪に、栗尾根がまた割って入る。
「最後に、これだけ確認を」
「お、おい。何をするんだ。あなた、公務執行……」
「まあまあ」
 栗尾根は、濡れたベストのポケットの中を探った。
「おや。こりゃまた、洒落た……うん?」と山平。
「シガレットケースかな?」
「いいえ。フライボックスです」
 栗尾根は瑪瑙めのうのような杢目が美しい箱を、てのひらに載せ、警官たちに見せた。
 こんな毛鉤を入れる木製のハンドメイドの箱が、職人たちが集まる釣具の即売会などで一個1万円から3万円で売買されている。
 アルミ製、プラスチック製の安価なフライボックスが普及している中では、これもまた高級腕時計の類と言えるだろう。
 栗尾根は、箱を開けた。
 防水加工ではないので、中は水浸しだ。
 虫の姿をした毛鉤が標本のように並んでいた。
 ざっと見ると、カゲロウ、トビケラ、カワゲラ、ガガンボ、バッタ、ハルゼミ……水生昆虫の成虫と陸生昆虫ばかりだ。
 イクラやイモムシ、毛虫、水生昆虫の幼虫が入っていない。
 この時期、この川で、使える毛鉤が、一つもない。
あずましくない。これは、おかしい。やっぱり、変ですよ」
「変なのは、あなただ。何なんだ、さっきから、あずましくないあずましくないって。あなた、本当に北海道の人? 言葉の遣い方が変ですよ」
 あずましくないは、北海道弁で「落ちつかない」とか「気持ちが悪い」という意味なので、確かに栗尾根の言葉遣いはややズレているのかもしれない。
 だが、それでいいのだ。
 幼いころから、何かが気になって心がそわそわすると、思わず出るのだ。「あずましくない」が。
 栗尾根に詰め寄ろうとする佐々木係長を、山平が「まあまあ」と取りなした。
 その顔はどこか嬉しそうに見えた。

釣具即売会で販売されていたフライボックス(ハンドメイド)
様々な毛鉤。小魚。カゲロウ。カ。ハエ。アブ。バッタ。カメムシ。イモムシ。ほか


【3尾目】【4尾目】

【5尾目】【6尾目】【7尾目】

【8尾目】【9尾目】

【10尾目】【11尾目】【12尾目】

【13尾目】【14尾目】【15尾目】【16尾目】

【17尾目】【18尾目】

【19尾目】【20尾目】【21尾目】(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?