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『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【3尾目】【4尾目】


小さなアメマスの群れ(栗尾根のアルバムより)

【3】


 次に川から引き揚げられたものによって、栗尾根の疑念は確信へと変わった。
 警官が川底に沈んでいた胴長靴を持ってきたのだが、それはソックスタイプのものだった。
 これだけでは肩から吊るす防水のストッキングにすぎない。
「ほら、わたしのウェーダーはブーツの部分と胴体部分が一体になっています。警察のみなさんも同じタイプですね。でも、これはセパレートタイプ。別売りのシューズとセットでなければ使いものにはなりません」
「ほう。そういう仕組みだったんですか」と山平。
 警官たちの会話から山平の階級は巡査部長だとわかった。  
 ここにいる警官たちの中では、眼鏡の佐々木係長が一番上らしい。
「しかし、この厚いソックスの上から履くとなると、かなり大きな靴になりますな」と山平。
「そうですね。ウェーディングシューズは、登山靴のソールの部分がフェルト張りになったものを想像していただければ近いかと」
「フェルトは滑り止めですな。道警もこういうのを支給してくれたら、すっころばずにすんだものを」
「ラバーソールのものもありますよ。それだと見た目は登山靴そのものですね」
 山平が興味を持ってくれたおかげで、栗尾根も話しやすくなった。
「一体型より歩きやすいので最近はセパレートタイプを選ぶ釣人が多いようです。履くのに時間がかかるのと、手入れや持ち運びも面倒なので、わたしは一体型のほうがいいですね」
「あなたの好みなど、どうでもいい。靴はストッキングと一緒に脱げたんだろう。まだ川の中に残っているはずだ」
 佐々木係長が、川の中の警官たちに向かって叫んだ。
「靴だ。靴を探すんだ」
「……いや、ウェーディングシューズは見つからないかもしれない」栗尾根は小さくつぶやいた。
「ほう」山平は聞き逃さなかった。
「それはなぜ?」
「ウェーディング用の靴は、履けばそう簡単には脱げません。しっかりヒモを縛らないと足元がぶかぶかして、川の中は歩けませんから」
「なるほど。それもそうだ」と山平。
「つまり、あの仏は靴を履いていなかった?」
「はい。そう考えるのが妥当かと。ストッキングも普通に履いていれば、まず脱げないと思います」
 栗尾根がシートに置かれた胴長靴を指さして説明する。
「腰のベルトのバックルがカチッとはまってますよね。ほら、ここです。このベルトを締めておけば、まず勝手に脱げることはないでしょう」
「なるほど。こりゃ、脱げないわ……いや、待てよ」
 山平は胴長靴をしげしげと眺めて気づいたようだ。
「その前に履けないわ、この状態では」
「そうです。ベルトがこんなに締まった状態では、胴長靴は履けません。おかしいでしょう?」
「確かに、おかしいですな」と山平。
「つまり、こうなりますか。あの仏は、釣り用の靴もストッキングも履いてはいなかった。履かずに川に入って溺れた」
「別に、おかしくなんかありませんよ」
 佐々木係長が二人の間に割って入った。部下に指示を与えながら、こちらの会話にも聞き耳を立てていたようだ。
「ストッキングと靴を履こうとしている最中に、足を滑らせて溺れたのかもしれない」
「ごもっともなご意見ですが」と山平。
「ちょっと無理ではないですか。それでは、仏がさっきの木村より間抜けになってしまう」
「山平。あなたね、何年、警察官やってるの?」
「ええと、配属されまして、今年で三十二年……いや、三十三年ですが」
「ベテランがそんなことでどうするんですか。素人考えに毒されすぎですよ」
 佐々木係長はあてつけがましく言ったが、栗尾根の耳には入らなかった。
 竿とリールがアンバランス。
 釣糸の番手もミスマッチ。
 フライボックスの中身は季節はずれの虫ばかり。
 とどめは、履いた形跡のない胴長靴だ。
 しかも、遺体は素足に白いジャージと真っ赤なウインドブレーカー。あんな派手な服装で川へ近づいたら魚が逃げてしまう。
「あの死体は釣師ではない」
 栗尾根の声に山平巡査部長と佐々木係長が同時に振り向いた。
「あの人が事故で溺れ死んだとしたら、これらの釣具とは無関係です」
「何を馬鹿なことを……」
「無関係!?」
 佐々木係長の声をさえぎるように山平が言った。
「それはどういう意味でしょう?」
「死体と釣具は、たまたま同じ場所に沈んでいた。これが単なる事故だとしたらですが」
「事故ではないと?」
 山平の眉間に深いしわが寄った。
「ええ。あの死体は、毛鉤釣師の振りをさせられていた可能性があります。ウェーディングシューズはたぶん見つからないでしょう。見た目が登山靴なので、川へ竿やベストを投げ込んだ人間が釣り用の靴だとは思わなかったかもしれない」
「何を言い出すかと思えば……」
「釣具を川へ投げ込んだ人間が、別にいたと?」
 薄ら笑いを浮かべている佐々木係長に構わず、山平が突っ込んできた。
「つまり、これは偽装だと?」
 栗尾根は山平の目を見てうなずいた。
「事件です。死体遺棄と、それに殺人の可能性も」
 おう、と山平が唸った。
「山平! 真に受けるのはよしなさい」
 佐々木係長が遂に切れた。
「冗談にもほどがある。全部、この人の妄想だ」
「そうでしょうか」と山平。
「なかなかにおもしろい、いや、一考に値するお話だと思いましたが」
「あの、これだけ疑いがあるんです。ちゃんと調べてもらえませんか」栗尾根も訴えた。
「あなたね、勝手に事件にしないでくれる? もしも事件になったら第一発見者が一番疑われるんだよ。そうなったら困るのは、あなただ。わかってるのかい? 邪魔なんだよ。これ以上、部下に変な情報を吹き込まないでくれ」
「まあまあ、押さえて押さえて」
「山平が変に興味を持つから、この人が図に乗って余計な知識をひけらかすんだ。いいから、もう捜索に戻りますよ。こんなことにつきあっていたら、日暮れまでに撤収できなくなる」
「しかしですな……」
「ヤマダイラ!!」佐々木係長が吠えた。
「ハイっ、捜索を再開します」と山平。背筋を伸ばしてかしこまっている。
「あなたもだ。クリオネさん、でしたっけ?」と佐々木係長。
「遺留品のそばにいるから、何か言いたくなるんだ。ほら、離れた離れた」
 佐々木係長が手で虫を払うようにして、栗尾根を現場から遠ざけた。
「いいですか? そこから一歩でも近寄ったら、今度こそ逮捕しますからね。本気ですよ。山平はいいの。こっち側にいなさい」
 ダメだ。
 もう我慢できない。
 決めた。
 これは、釣師の聖地で起きた事件なのだ。道警ごときに適当に扱ってもらいたくはない。
 栗尾根は上着のジッパーを引き下げ、シャツの胸ポケットに手を突っ込んでごそごそと探り始めた。
「あの、すいません」
 栗尾根は、佐々木係長の後ろに立った。
「すいません、ちょっとお話が……」
「あなたね」振り向いた佐々木係長が呆れたように言った。「本当に懲りない人だな。警察を馬鹿にしているのですか?」
「わたしは、北海道保安局網走あばしり北見きたみ紋別もんべつ地区保安官事務所の栗尾根です。この件について、北海道警察釧路署に合同捜査を申し入れます。どうか、ご検討を」
 栗尾根は、細い目の前にバッジを突きつけた。
 星形の銅板の中央に北海道の形のレリーフがある。
 それを囲むように《HOKKAIDO 》《Deputy Sheriff》の文字が刻まれていた。
「で、でぴゅてぃ……しぇ、しぇりふ?」
 佐々木係長が眼鏡のつるに手をかけて、バッジに顔を近づけた。
「はい。わたしが、保安官補の栗尾根天士です」
「ホアン? カンホ?」
 佐々木係長の目がただの線になっていた。
「あなたが? 保安官補!? まさか……」
 しかし、これは正真正銘、北海道保安官補の徽章なのだった。

水玉が大きく鮮やかなアメマス(栗尾根のアルバムより)
魚体がゴールドに輝くアメマス(栗尾根のアルバムより)
水玉がピンクのアメマス(栗尾根のアルバムより)
丸々と太った阿寒湖のアメマス58センチ(栗尾根のアルバムより)

【4】


 北海道に今も残る、保安官制度。
 1869年、戊辰戦争の最終局面、箱館五稜郭の戦いで明治新政府軍に降伏した旧幕臣・榎本武揚えのもとたけあきが、北海道開拓使次官・黒田清隆くろだきよたかに進言したのがその濫觴らんしょうだという。
 特赦後、新政府の役人となった榎本は、旧薩摩藩士・川路利良かわじとしよしがフランスを手本に警視庁を創設したことに対抗するように、本道と同じ開拓地としての性質を持つアメリカ合衆国の制度導入を強く訴えた。
 1882年、北海道は札幌県、函館県、根室県の三県一局時代を迎え、区町村には開拓民の安全と財産を守る本道初の地域保安官が誕生。北方の国土防衛を担う屯田兵とともに、本道開拓の礎となるべく期待された。
 日本各地から入植してくる開拓民にとって仲間から選出される保安官は、首長や郵便局長と並ぶ地域の名士として親しみを覚える存在でもあった。
 時代は下って屯田兵は廃止され、郵便局は株式会社となったが、保安官は保安官のまま、北海道近代化の遺物と揶揄されながらも現在に至っている。
 保安官とほぼ同時期にスタートし、ともに広大な道の治安維持に務めてきた北海道警察は数々の不祥事に塗れながらも順調に権限を拡大、組織の肥大化を図ってきた。
 対して、北海道保安官は予算不足から事務所の統廃合の憂き目にあい、名誉職として自治体の首長が兼任するなど有名無実の存在となっている。
 法と制度は、作るコストより廃止するコストのほうが高くつくらしく、国は保安官制度の自然消滅を願っているようだ。
 かつて制度廃止に動いた政治家が相次いで失脚、怪死したことから、幻の蝦夷共和国・保安奉行だった土方歳三ひじかたとしぞうの祟りを恐れて誰も手をつけないのだという説もある。
 現在、現役で公務を執行しているのは網走北見紋別地区の三崎浦蓮一郎みさきうられんいちろう保安官のみ。つまり、栗尾根の上司だけとなっていた。
 保安官事務所の公務といっても、警察が行っている犯罪捜査などは、まずない。
 地方公共団体主催のいくつかの会議、会合への出席のほかには、小中学校や公民館での講演、防犯指導、生活安全指導といったところだ。近年は特に、地元猟友会の一員としてヒグマ駆除に参加する回数も増えている。
「ほえー。保安官」素っ頓狂な声を上げる山平巡査部長。
「ほおー。あんた保安官だったのかい?」
「いいえ。保安官補です。保安官の助手です」
 山平は栗尾根から渡されたバッジを見て感心しながらも、眉間にしわを寄せている。ちょっと疑っているようだ。確かに一個5百円ぐらいに見えるバッジだった。
 栗尾根は、バッジと同じ徽章のある鑑札ライセンスを取り出して、山平に見せた。

     ――HOKKAIDO Deputy Sheriff――
       ――Takashi Clione―― 

 栗尾根の顔写真もある。

「ほへー。こりゃ、本物だ。たまげたね」
 木村巡査と中島巡査も持ち場を離れて、こちらへやって来た。
「保安官事務所の人って、マジすか……」
「……やべぇ、初めて見た」
「おーい、こっちへ来て見てみろよ。この人、保安官補だ」
 よせばいいのに木村巡査が声をかけると、ほかの警官たちも集まってきた。
 すっかり珍獣扱いされている。
「……はい、はい、ええ、よろしくお願いします」
 5メートルほど離れたところで背を向けてスマホで話していた佐々木係長がゆっくりと振り返った。
 電話の向こうに対する声は柔らかだが、その目は栗尾根をじっとにらんでいる。
「え? 何ですか? すいません、もう一度。ああ、はい。わかりました。保安官補と替わります。はい。では、失礼いたします」
 電話を終え、佐々木係長がスマホを栗尾根に返してきた。舌打ちの音が聞こえたのは気のせいか。
 保安官の補では話にならない。上司を出せ、と言うので網走の事務所に繋いだのだ。
「保安官」栗尾根は電話の向こうに語りかけた。
「お手数をおかけします」
「栗尾根君。まったく、君は、あれだな。ドクター・セーコー(独断専行)で、困るよ」
「そうですね。すいません」
 三崎浦保安官は、ひどいかすれ声。
 よく聞き取れないのはいつものことだ。
 文脈から類推するのは慣れている。
「まあ、あれだ。ぼくとしては、あまりクショショ・ショ(釧路署)ともめたくないんだが……わかるだろう?」
「わかります」
 保安官は、なるべくなら釧路署ともめごとは起こしたくない。
 だが、どうしてもやるというのならやれ。
 あとは、現場の判断に任せる。
 栗尾根は、そう受け取っておいた。
「だいたいサッチン・チゲエー(殺人事件)の捜査なんて、どうやるの? ぼくは知らないんだが」
「お任せください。ご迷惑はおかけしません」
「そう願いたいね」
「そうだ、保安官。例のあれをお願いします」
「あれって、あれかい? まったく、面倒だな。でも、捜査には必要か。手配しよう。あとは、そうだな。くれぐれもクンマ・ノ・フッテン(?)には気をつけてくれよ」
「そうですね。気をつけます」
 熊の沸点……確かに熊を怒らせると危険だが、たぶん車の運転だろう。
 電話を切ると、佐々木係長が待っていた。
「お話はわかりました」
 佐々木係長が細い目を閉じて言った。
「保安官事務所の捜査に、わたくしども警察が口を出すことはできません。どうぞご自由になさってください」
「ありがとうございます。では、捜査の協力を……」
「栗尾根さん。あなたは旧網走支庁、オホーツク総合振興局の保安官補ですよね?」
 どうも、当然と言うべきか、すんなりとはいかないようだ。
「ここはどこですか? そう、釧路です。釧路総合振興局の管内です」
 出た。警察名物。縄張り意識。
「釧路、根室、十勝の三十二市町村は北海道警察釧路方面本部の管轄区域。ご存知かとは思いますが、この地域の保安官事務所は三十五年前に閉鎖されました。大変申し訳ございませんが、この土地に保安官などという旧制度は必要ないのです」
「いや、しかしですね、道警様と保安官事務所が協力し合うことは義務規定として法的に決まっているはずですが」
「それは、釧路に現役の保安官がいた時代の話でしょう。警察の協力をお求めでしたら、あなたの地元の所轄署である網走署か北見方面本部へご相談されてはいかがでしょうか」
「事件は釧路で起きているので、ここはぜひ釧路署のご協力をお願いしたいのですが……」
「事件? おや、事件といいますと、どちらの事件になりますか。水難事故でしたら、ただいま捜索を続行中ですが。他所との対応に追われて遅延した分を取り戻そうと必死に励んでいるところです」
「そこを何とか……」
「ですから、あなたが保安官補として独自の捜査を行うというのなら、止めはしませんが、ご協力はできかねます」
 こちらにはほかに人員も機材もない。警察側の資料の提供がなければ捜査は難しい。
「山平さん、こんなものが……」
「うん? これは……何だろう? 目薬かな」
 佐々木係長の背後で、山平と川から上がってきた警官が話している。新たな遺留品が見つかったようだ。
フロータントです」と栗尾根。
 目薬のような容器の中にはシリコンのジェルが入っていて、それを毛鉤に塗ると水を弾いてよく浮くのだ。
「ほう。フロータントだそうだ」
「さっきのベストから落ちたものかもしれない」と栗尾根。「保管しておいて下さい」
「了解です」と山平。
「ちょ、ちょっと、あ、あなたね、部下に勝手に指示を与えないでください」
 自分の肩越しに山平と会話され、佐々木係長が焦っている。
「こちらの捜索は釧路署が責任をもって行いますので。保安官事務所様は、そちらの事件とやらに専心なさってください」
「いや、でも」
「ご心配なく。ではこれで、捜索に戻らせていただきます。失礼」と佐々木係長。
 にべもない。
 栗尾根は、はっと気づいて胸ポケットからもう一度鑑札を取り出した。
 革のカバーの裏側に薄い小冊子が挟んである。

《北海道保安官心得帖》
 
通称、ザ・シェリフ・ブック。

「ええと……あった。ここです。保安官法の第十四条」
「何ですか? お話はもう終わったと思いますが」
 佐々木係長は面倒そうに小冊子へ顔を近づけた。
 よく見えないのか、今度は顔を離し、眼鏡も外してしまった。
 まだそんな年にも見えないが、若年性の老害なのだろうか。訂正、老眼だ。
 そこには、北海道保安官法の全文が細かい字で記されている。

第十四條
保安官及ビ保安官代理ハ当該管轄支庁ニ隣接スル支庁ニ於テ当該管轄区支庁ト同等ノ保安行為ヲ行フ権限ヲ有ス

北海道保安官法 明治三十二年法律第〇〇〇号

「これが、何か?」
 佐々木係長が、眼鏡をかけ直した。
「警察については一言も書かれておりませんが」
「ほら、同等の、とあるでしょう。管轄区の警察の協力がなければ〈同等ノ保安行為〉にはならないと思いますが」
「今度は、屁理屈ですか」
「いや、真面目に言っています。釧路総合振興局は、オホーツク総合振興局に〈隣接スル支庁〉ですから、まさにこの条項にあてはまります」
「それは、あなたの勝手な解釈……」
 佐々木係長はそこまで言って、口ごもった。
 自分も恣意的な法解釈を得意とする組織の一味であることを思い出したのか。
「とにかくこの件は持ち帰らせていただきます。結論が出るまであなたに協力はできません」
 佐々木係長の厳命により、それっきり栗尾根はそこらに転がっているサケの死骸のように警官たちから避けられ無視された。
            ***
 栗尾根は、広いパーキングの端に停めたスズキ・ジムニーの中で「みそぱん」をかじっていた。地元網走で製造されている菓子パンだが、同じ会社の「デンプンせんべい」とともに車内に常備して釣場で腹が減ると食べていた。
 ここは、死体発見現場からほど近い道東自動車道のインターチェンジ。
 時折、観光バスや大型トレーラー、牛を積んだトラックがトイレを求めて入ってくるほかに動くものはない。
 午後六時。
 閑散とした高速道路の駐車場へ、晩秋の冷気が潮のように満ちてきた。
 茜に染まっていた山々がいつに間にか艶消しの紺で塗り潰され、もうその輪郭も定かではない。
 鳥の声と虫の声を混ぜ込んだ闇に沈みゆくジムニーが突然、輝いた。
 車内で栗尾根がスマホを取り出したのだ。
 そろそろ頃合かと思い、警察へ電話をかけると釧路署から管轄区内の駐在所へ回されてしまった。
「ああ、栗尾根さん。先ほどは、どうも……」
 スマホから、のんびりした声が響いてきた。
「この度、保安官事務所様への連絡係に就任した阿寒駐在所の山平です」
 釧路署の結論が出た。
 合同捜査ではなく、保安官事務所への情報提供のみ、という形になった。
 情報は阿寒駐在所を介して知ることができる。どうも釧路とは直接話ができないシステムのようだ。
「では、メモの用意はいいですか? ゆっくり行きますよ」
 山平が捜査資料を読み上げていく。
「遺体の氏名は、濱口正夫さん。濱はサンズイの下が貝になった面倒くさいほうの。ええ。正夫は、正しい夫。年齢は二十二歳。本籍、江別市野幌屯田町えべつしのっぽろとんでんちょう……」
 濱口は、昨年の暮れから川上郡弟子屈町の川湯温泉のホテルに勤務していた。その後の調べで鉄橋から数百メートル離れた路上に濱口のホンダ・フィットが乗り捨てられているのが見つかった。
「ところが、先週から無断欠勤が続いておりまして、寮に荷物を残したまま消えたそうですわ。はい」
 検死もすんでいた。死因は溺死。肺に川の水が詰まっていた。後頭部、右脇腹、右上腕、右肘、腰部に打撲傷。右の肋骨一本にひびが入っていた。
 濱口正夫は、鉄橋から川を覗き込んでいて足を滑らせた。浅瀬の岩盤の上に落ちて上半身を強打、流れに巻き込まれて溺死、というのが釧路署の見解だった。
「飛び降りた可能性もゼロではありませんが、勤務先で特に悩んでいた様子もなかったとのことで。はい」
 風光明媚で一瞬で死ねる名所がいくつもある道東で、中途半端な高さから飛び降りて苦しみながら死ぬ必要もない。
「それで、濱口さんは釣りが趣味でしたか?」栗尾根が尋ねた。
「確認していないようです。肝腎な点なんですがね」
 釣具と一緒に沈んでいたから調べるまでもない、ということか。
「佐々木の言を借りれば、こうですわ」山平が続けた。
「例のウェーディングシューズですか。濱口さんは、それを履いて車を運転、釣場までやって来た。運悪く釣具一式抱えて橋から落ちた。なぜかシューズだけがドンブラコッコと海まで流れていった」 
「カモがネギとエノキをしょって鍋に飛び込むような話ですね」栗尾根は率直な感想を述べた。
 素足の濱口はおそらくサンダルかスニーカーを履いていたのだろう。捜索範囲を広げれば見つかるだろうが、道警にはその気はないようだ。
「車には、ほかに釣具の類はなかったんでしょうか?」
「中にあったのは、ティッシュペーパーの箱とペットボトル。あとは工具箱。それだけですね」
 あずましくなかった。釣人の車に、竿やリールやその他道具を納めるケースがないのはいかにも不自然だ。
 栗尾根は鉄橋の上に見えた人影を思い出した。
「ほう。フクロウみたいな男の影ですか。それは興味深い。あの立小便には、そんな裏があったんですな」
「一瞬のことだったので見間違えかもしれません」
 だが、落下してきた毛鉤は現実だ。これは伏せておくことにした。
 濱口が鉄橋から落ちて溺れたのは確かなようだ。
 しかし、ほかに何者かがいたのではないか。
 濱口はそいつに追い詰められ、足を滑らせたか、突き落とされた。
 川の中にあった釣り道具は、偽装工作。
 竿もベストも胴長靴も、濱口が溺れたあとで投げ込まれた。
「まあ、すべては想像ですが」と栗尾根。
「いや、わたしもそんな気がしてきましたよ。そういえば、栗尾根さんは東京で探偵業を営んでおられたとか」
「バレてましたか。探偵社に二年ほど籍を置いていただけですよ」
 佐々木係長が、関係部署に問い合わせて身元を調べていたという。特に知られて困る弱みもないはずだった。
「お手並み拝見ですわ。ここはぜひ事件の線で捜査をお願いします。警察官が言うのもなんですがね」
 浮気調査と身辺調査が中心だった探偵の経験と探偵学校で習った知識が、現実の殺人事件に通用するだろうか。それは自分でも興味があった。
「栗尾根さん。わたしにできることがあれば、何なりとおっしゃってください」と山平。
「まあ、立場上できないことのほうが多いかもしれませんが、できることはこっそりとやりますんで」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、早速調べていただきたいことが一つ……」

シマフクロウアメマス(たんちょう釧路空港のモニュメント)



【5尾目】【6尾目】【7尾目】

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