『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【13尾目】【14尾目】【15尾目】【16尾目】
【13】
電話が鳴っている。
栗尾根が目を覚ますと、真っ暗な部屋の中、スマホが胸の上で煌々とともっていた。
「あ、クリオネ~。いるなら早く出ろよ。あんたさ、葬式来なかったでしょう? 濱口さんの」
「うん。行かなかった」
「大変だったよ。警官が二十人も来て厳戒態勢。どこの組の親分が死んだのかって思ったよ。一般参列は三人だけ。あたしと姉と支配人の和田さん。でもさ、遺族が誰もいないってどうなってんの?」
「まあ、家庭の事情って奴だな」
「すんげぇ貧乏くさい葬式なんだけど、最後は警官隊に見送られて、いやーあれは異様だった」
体を起こそうとすると、頭にズキンと来た。
「あんた、警察と何かあったの? 警官たちが保安官補がどうのこうのって言ってたけど」
後頭部を触ると瘤ができていた。
左のこめかみのあたりも痛む。
「でさ、葬式に出て思い出したんだけど。濱口さんのこと」
髪の一部が頭皮にベタっとくっついている。
てのひらに嫌なヌメリが残った。
血。
「あの人、うちらの車見て言ったのよ。これじゃ一発で盗まれるって。一応、ハンドルロックもしてるんだよ。でも、全然ダメなんだと。こんなの簡単に外せるんだと。特にハイエースは人気が高いとか、得意そうにしゃべるんだよ」
「興味深いな」
「泥棒のチームで役割が決まっていたりとか、手口の話とかが妙にリアルなんだよ。何か怪しくない?」
「確かに怪しいな」
「でしょう? あたしの勘だとあの人、自動車泥棒やってたことあるね。どう思う?」
「調べてみる必要があるかもな」
「調べて、調べて。川で溺れたって言ってたけど、実は昔の泥棒仲間にやられたとか。よくあるじゃん。口封じで殺される奴。安っぽい刑事ドラマでさ」
ほぼ正解だろう。
そのドラマの中で事件を追っていた保安官補が撲殺されかけたわけだ。
「どう、参考になった? クリオネ~、何か元気ないな。どっか、悪いんじゃないの?」
「うん。頭がな。ちょっと割れたような感じなんだ」
「何だ、二日酔いか。クリオネだけに頭がバッカルコーンかよ。酒はほどほどにしとけよ。じゃあな」
電話を切ると、栗尾根はスマホで部屋の中を照らしてみた。
網走の自宅にいるような気でいたがそんなわけはなかった。
見れば、ボロボロに風化した板張りの狭い部屋だ。
見覚えがある。
ここは、あの大鋸屑小屋の中だった。
栗尾根の体は半ばまで大鋸屑の山に埋まっていた。
死体を隠したつもりにしては半端な埋め方だった。
しかもスマホは手が届くところに置かれていた。
栗尾根は山からはい出すと、板壁に手をかけて立ち上がった。
衣服についた大鋸屑を払うと、不意に寒気が襲ってきた。夜を迎えた廃牧場周辺の気温は著しく低下していた。
大鋸屑の中はヘビが卵を産みつけるだけあって暖かだった。外に倒れたまま気を失っていれば、低体温症になっていたかもしれない。
栗尾根はシャツとズボンのポケットをあらためた。
令状。写真。リスト。鍵束も鑑札もある。
財布も運転免許証もあった。
身につけていたもので盗られたものはなさそうだ。
後頭部を押さえたまま小屋から出ると、スマホのライトを頼りに車に向かって歩き出した。
ジムニーは無事だった。
窓も割られていなければ、パンクもしていない。
アルファードは消えていた。
しかし、あの黒石毒蛇会、意外と紳士的な集団なのだろうか。
そんなわけないか。
誰か別の人間が介抱してくれたと考えるほうが自然だ。
【14】
「……栗尾根、終わったよ」
天の声が聴こえる。
「栗尾根。おい、寝てるのかい?」
インターフォンの声だった。
目を覚ますと、白い筒形のマシンから自分の体が抜け出そうとしていた。
薄いブルーの白衣を着た、細身で長髪の医師が部屋へ入ってきた。
MRI(核磁気共鳴画像法)検査が終わったのだ。
「頭の傷は、打撲だね。骨折はない」
処置室に連れていかれ、画像を見ながら診察が始まった。診療時間外で看護師、事務員たちは帰ったあとだ。
「脳波は異常なし。血腫、梗塞なし。萎縮もない。栗尾根は、アルコールは飲まないほう?」
「飲むよ。三崎浦さんほどではないが」
保安官はザルというか特大の底が抜けたバケツだった。
「この指は何本に見える?」
「3本」
「そういえば、栗尾根は目がよかったよね。今も2・0以上あるのかい?」
「東京へ行ってから悪くなった。シリウスのAとBは、もう肉眼では無理だな」
「河原で滑って転んだんだよね」
安達医師は栗尾根の頭に包帯を巻きながら言った。
「でも、それはちょっと理屈に合わないな」
「うっ」栗尾根は、顔をしかめた。
包帯が少し傷に触った。
「というと?」
「頭頂部。後頭部。左側頭部。頭部を三か所も、同時に打つ転び方が想像できない」
「三回転んだ。実際よく滑る川なんだ」
「傷口は、鈍器で複数回、殴られたって言ってるけど」
「鈍器で複数回か。物騒な話だな」
「これ、子供か女性なら、100パーセント届け出なけりゃならない傷だよ」
包帯を巻き終えて安達が栗尾根の顔を覗き込んだ。
「保安官補が喧嘩はしないか。公務中の暴力沙汰かな?」
「まあ、そんなところだ」
「警察には?」
「道警さんと一悶着あったあとなんだ。知られるとまた変な介入をされかねない」
「上司には報告するよね」
「保安官は熊には強いが、事件の捜査は素人だ」栗尾根は片目をつぶって言った。
ウインクしたのではなく痛みで閉じたのだ。
「というわけで、君も黙っていてくれ。診断書もいらない」
「ちょっと待ってくれよ」安達が天を仰いだ。
「医師にも倫理規定があるのは知ってるよね」
「友人として頼む」
「悪いけど、栗尾根を友達だと思ったことは一度もないな」安達は笑った。
「じゃあ、中学校のあまり親しくなかった同級生として」
「闇診療がバレたら悪徳保安官補に脅されたって言うけど、いいかな」
「それでいい」
安達は一週間分の痛み止めを渡してくれた。
「できれば二十四時間、明日一杯安静にしていてもらいたいんだが……無理そうだね」安達が白衣を脱ぎながら言った。
白衣の下は縁起のいい黒地に白いドクロのTシャツ。
車の運転はさすがに止められた。
栗尾根は「あだち脳神経外科クリニック」の駐車場で運転代行業者の到着を待った。
ジムニーの車内ミラーに治療後の自分が映っている。
頭にすっぽりかぶせられたネット包帯のせいで、スピードスケートの選手みたいになっている。
港に近い市街地から、丘の上にある住宅街まで運転代行業者に送ってもらった。
栗尾根は集合住宅の自分の部屋へ入ると、万年床にうつぶせに倒れ込んだ。
仰向けだと後頭部がひどく痛むのだった。
うつぶせでも額が痛むが多少はましだ。
しばらくじっとしてると、痛み止めが効いてきたのか横向きに寝ることができた。
部屋が二つにキッチン、バス、トイレの殺風景な住居は、死んだ濱口の寮とほぼ同じ間取りだった。
栗尾根が寝ている六畳のほうが主な生活空間で、襖で仕切られた四畳は釣りの部屋。
車に積んだままになっている釣具以外はそこにある。
栗尾根は目を閉じたまま、隣の部屋を思い浮かべた。
釣竿はロケット砲のような円筒形のケースに入れて部屋の隅に立てかけてあった。
リールは雑多な小物類と一緒にクリアボックスの中だ。
毛鉤巻き用の小さなテーブルに山積みにされた、鳥の羽。獣の毛。人工的な素材。
もう使わなくなった道具は、まとめて押し入れに放り込んである。
この中に、おそらく黒石毒蛇会がさばいた盗品がまぎれ込んでいるのだろう。
ぼんやりとした頭の中で、釣具の記憶は、薄れていった。
替わりに、過去に釣った魚と、逃げられた魚の記憶が、ぐるぐると回り出した。
【15】
道東、網走の丘に朝が来ている。
栗尾根は天気予報を確認しながら、使えそうなものを防水バッグに詰め込んだ。
準備は整った。栗尾根はジムニーのキーを握ると、みそぱんをかじりながら朝日の中へ飛び出していった。
黒石毒蛇会は、まだ近くにいる。
新聞の地方欄か、テレビのニュースをチェックして、自分たちに捜査が及ぶ危険はないと安心しているだろう。
濱口が隠した財宝を求めてうろついているに違いない。
彼らが釣具を回収して札幌へ逃げ込んだら、保安官事務所の管轄ではなくなる。
その前に、確保する必要がある。
頭を触ってみた。傷みはかなり引いたが、腫れは残っている。
サケバットの衝撃を思い出して身震いした。
また襲われるかもしれないが、そのときはそのときだ。
国道240号で南下。
阿寒湖をかすめて釧路方面へ走った。
国道から道東自動車道へ入る。
釧路から帯広、夕張を経由して千歳まで続く高速道路である。この道を通って道央から道東へ、金と裏切りと死が運ばれてきた。
ジムニーの行く先は、あの川だった。
濱口の事故死で慌てた毒蛇会は、あの川の付近をまだ調べていないのではないか。
ビジネスに熱心な彼らは獲物を求めて戻ってくる。
釣師の勘だった。
網走から約二時間半で川についた。
この川沿いに道路が整備され、鉄道まで走っていたのは炭鉱のためだ。
炭鉱夫とその家族が暮らしていた集落は、ほとんどが取り壊され樹木と藪に戻っていた。
集落から離れた家屋の中には、朽ちるままに放置されているものもある。
濱口がお宝を隠すとすればそこだろう。
栗尾根は、以前に釣場を実地調査したときのメモが書き込まれた国土地理院の古い地形図を広げて狙いを定めた。
集落の跡からさらに奥へ入る枝道を見つけた。
笹に覆われもう道ではなくなっていた。
獣道を歩くのは慣れている。藪を漕いで進むと視界が開け、潰れかけた屋根が見えてきた。
栗尾根は胸ポケットから写真を取り出して、目の前の廃屋と見比べた。違うようだ。
一応、部屋の中も調べるが、釣具は出なかった。
車に戻って、また川沿いの道を進んでいく。
時折、路肩や駐車可能なスペースに停まっている車があった。平日だが、諦めの悪い釣人たちが今日も川に入っているようだ。
落葉だらけの山道の途中で車を停め、消えかけた道の奥に家屋が見えないか目を凝らしていると、スマホが鳴った。
「お尋ねの札幌ナンバー、引っかかりましたわ」
阿寒駐在所の山平巡査部長だ。
記憶していた毒蛇会のトヨタ・アルファードのナンバーを照会してもらったのだ。
「車種とナンバーが、運輸局の登録と合いませんわ。こいつは、プレートが偽物か、盗難車の可能性が高いですな」
アイドル探偵の推理があたった。釣具だけではなく車も盗んでいたようだ。
「それから釣具の窃盗グループの件ですが、こっちは残念ながらありませんな。そういった話は」
栗尾根は山平と話しながら降り積もった落葉を踏みしめて歩き出した。
「札幌黒コブラ団でしたっけ?」
「毒蛇会ですね。黒石毒蛇会」
「ああ、それそれ。組織犯罪に詳しい者にも訊きましたが、まだ耳には入っていないようですね。そこと抗争中の、小樽の何でしたっけ?」
「銭函ボブキャッツ」
「売れない漫才コンビみたいですな。そっちも聞いたことがないそうです。まだ結成されて間もない準暴か、半グレ未満の窃盗団でしょうかね」
藪の向こうにまだ道が続いていた。
奥に何かありそうだ。
「栗尾根さん、気をつけてくださいよ。その連中を発見しても接触は避けて、危なくなる前にどうか警察を頼ってください」
「ありがとうございます。気をつけます」
襲われた話は、山平にもしていなかった。
栗尾根は電話を切った。
目の前には、祠のようなものが転がっていた。
捨てられた犬小屋だった。
【16】
午後になって風向きが変わり、生暖かい南風が吹いてきた。
予報はあたった。
雨も混じり出した。
栗尾根は、釣り用の防水ジャケットを着込んで、廃墟探しを続けた。
雨も風もどんどん強くなって、とうとう横殴りになってきた。
油断していると、横風にあおられてジムニーが対向車線へ流れていく。
待避所に停車しデンプンせんべいをぱりぱり食べながら、数台のトラックやトレーラーをやりすごした。
風雨が弱まったのを見て、再び車のエンジンをかけた。
雑草が生い茂った小さな空地を見つけ、栗尾根はジムニーを停めた。
ここは道なのだろうか。
地図で確かめると点線で記されている。旧道のようだ。
栗尾根は車を降りて、藪の中へ分け入った。
小型四輪駆動のジムニーなら行けないことはないが、奥で方向転換できないとバックで戻るのが大変だ。
右手の木々の間に、赤錆びた軽トラックが乗り捨てられていた。車体は樹木に囲まれていて、あたかも上空からそこへ投げ入れられたかのようだ。
蜘蛛の巣を払いながら進むと、道は藪に浸食されて先細っていった。
風雨がまた強くなってきた。
山葡萄の太い弦が電線のように揺れている。
キャンペーンハットに落ちる大粒の雨が、腫れて敏感になっている頭部につんつんと響いてきた。
遠くで雷が鳴った。
雨混じりの向かい風に手を翳しながら進んだ。
足元を確かめながら歩かないと、道から外れてしまいそうだ。
突然、視界の左側が開けた。
そこだけ、広場のように藪が薄くなっている。
集落の跡だった。
家屋はなく、数軒分の土台だけが残されている。
積み上げられ捨て置かれた廃材の上に土砂が積もり、その上にも低い樹木が茂っていた。
地図では、点線の旧道はここらで途切れていた。
防風林のように並んだ白樺の向こうに、まだ立っている小屋が見えた。
「……ひでぇ降りになってきた……」
「……この小屋、雨漏りしすぎ。これじゃあ、雨宿りになんねえべや……」
小屋は、濱口の写真にあった家畜小屋風の廃屋によく似ているが、確かめるまでもないようだ。
見つけた。
彼らだ。
「……グダグダ言ってんじゃねえぞ。とっとと終わらせようや……」
忘れもしないサケバットを振り回すビジネスリーダーのドスの利いた声も聞こえた。
平行四辺形にひしゃげてしまった小屋の中で、三人が雨宿りをしている。
小屋の後ろに黒い車も停まっていた。地形図にも載っていない、別のルートがあったようだ。
壊れかけた小屋に、スコップが立てかけてある。
スコップの横に置かれた大きなトートバッグから、プチプチに包まれたお宝がはみ出ていた。
発掘作業は、雨で中断中だ。
栗尾根は藪にしゃがみ込んで小さくなると、スマホを取り出した。
110番にかけようとしたが、電波の圏外だった。
この激しい風雨のせいかもしれない。
保安官からの着信がある。全然気がつかなかったが、事後報告でいいだろう。
栗尾根は、肩にかけていた防水バッグを開けた。
帽子を脱いで、代わりにヘルメットをかぶった。山岳渓流用のものだが、平野の川が多い道東ではほとんど出番はなかった。
こちらの準備は整ったが三人のうちの一人、デカいケンジが小屋の陰で立小便を始めてしまった。
今出るのは、あずましくない。
栗尾根は、もう一度スマホを取り出した。電波は来ているが、弱い。すぐにまた圏外になった。
ケンジが肩を震わせて長い立小便が終わった。
「おーい、黒石毒蛇会」栗尾根は叫んだ。
かなり大声で叫んだつもりだったが、小屋の中までは届かないようだ。吹きつける強い風で壁の板がカッタン、パッタンと激しく鳴っている。
「おーい、ブラック・ストーン・コブラ!」
談笑する声が止んだ。
二人、雨の広場に出てきた。
「あ? また、おまえか」
悪そうなリーダーが、驚いている。
「こんなところまで、何てしつこい奴だ……」
「さっさと小樽に帰れよ、この野郎」
こいつは、テッペイ。やはり覚えられない顔だ。
「何度言ったらわかる? わたしは、網走の保安官補だ」
栗尾根は保安官令状を取り出した。雨で湿気って気をつけないと破れてしまいそうだ。
「北海道保安官法に基づき、君たちを逮捕する。容疑は、保安官補への公務執行妨害と脅迫、傷害だ。おとなしく従いなさい。従わない場合は、北海道保安官法に基づき、実力で従わせるのでそのつもりで」
「うるせえよ。小樽が」
テッペイが立てかけてあったスコップを持って近づいてきた。
「ぶっ叩いて、穴に埋めんぞ」
栗尾根は防水バッグから右手を出すと、テッペイに向かって噴射した。スプレー缶のノズルから赤い煙が飛び出した。
テッペイが、咳込みながらうずくまった。
「目が……目が痛ぇ」
熊除けスプレーを人間に対して使ってはいけない。このように大変危険なのだ。
一人、片づいた。
栗尾根は、強烈な唐辛子のガスを吸い込まないようにその場から離れた。
「この野郎。何しやがった」
悪そうなリーダーが腰に手を回して何か探っている。例の赤いサケバットだろう。
栗尾根はリーダーがバットを構える前にスプレーを噴射したが、途中でガスが切れてしまった。
赤い煙を避けて、リーダーは素早く退いていた。
「ケンジ!」リーダーが叫んだ。
「おう」ケンジは、まだ小屋の中にいた。
「何やってんだ。早くこっちへ来い」
栗尾根がリーダーとにらみ合っていると、黒いアルファードからもう一人、傘を差してコーチジャケットをはおった男が降りてきた。
「こいつ、誰?」
こっちのセリフだった。初めて見る男だ。
四人目がいたのだ。
「モトヤさん。これ、どうなってるの?」
「ショータ、こいつが小樽のくそ野郎だ」とリーダー。
「気をつけろよ。その辺に、石投げジジイも隠れているかもしれない」
悪そうなリーダーはモトヤで、初登場の男はショータのようだが、石投げジジイって?
「えっ、また石? やだよ。あれ痛えもん」
ショータと呼ばれた男は、ビクビクしながらあたりを見回している。
髪を金色に染め、この中では一番顔が整っているが、顎が若干長いようだ。額に絆創膏を貼っている。
よく見れば、リーダーも左目の上あたりが赤く腫れており、悪さが増していた。
「痛ぇよ……マジ、痛ぇ。小樽の、くそ野郎め……」
咳込みながらテッペイがつぶやいている。涙と雨でぐしょぐしょになって木の根元に寄りかかっていた。
戦意喪失らしい。そのまま喪失していてもらいたいところだ。
「ケンジ、雨宿りは終わりだ。こっちへ来い。くそ野郎をぶっ潰すぞ」リーダーが叫んだ。
「おう。ちょっと、待って」
ケンジは、雨がっぱのボタンを留めようとしていたが、巨体のため結局留められないようだった。諦めて雨がっぱの裾を風雨になびかせて、表へ出てきた。
落ちていたスコップをひょいと拾い上げると、ゆっくりとした足取りでこちらへ歩いてくる。
包囲網が狭まる前に、栗尾根が動いた。
空になった熊除けスプレーをショータに向かって投げつけた。
ショータは傘で防ごうとしたが、スプレー缶はコーチジャケットの胸に命中。
ショータがひるんだ瞬間を逃さず、栗尾根は前進した。
防水バッグに突っ込んだ右腕を抜き出しざま横に払った。バシーンっという手応えとともに、ショータの手から傘が飛んだ。
栗尾根が手にしているのはアルミ製の登山用ストック。
トレッキングポールともいう。振り出し式で最大一二〇センチの長さになるが、縮めたままなら全長五〇センチの棍棒となる。
釣場で急流を渡ったり湖水へ立ち込むときに使う杖だが、釣り専用のものは割高なので登山用の安物を使っていた。
「この野郎、ふざけやがって」
悪そうなリーダーが、サケバットを振り上げて突っ込んできた。
栗尾根は、その鼻先へストックを突き出して牽制する。
「この野郎……」
リーダーは、なおもフェイントをかけて突っ込もうとするが、栗尾根が動じないのを見てまた距離を取った。
背後で水たまりを蹴る音がした。
振り返ると、畳んだ傘を振りかぶってショータがダッシュしてくる。
金髪を振り乱して、叩いてきた。
雨傘は、栗尾根の手前で空を切った。
動体視力は高速で泳ぎ回る魚たちに鍛えられている。
勢い余ったショータの足元が、濡れた草でずるる、っと滑った。雨の日に、そんな先の尖った革靴なんか履いてくるからだ。
栗尾根は腕をスッ、と伸ばしてショータのみぞおちのあたりを強く突いた。
ストックの先端のゴムキャップが腹に食い込みショータはウッ、と呻いてそのまましゃがみ込んでしまった。
長ものの扱いには慣れている。
釣師を甘く見ないことだ。
三平の兄貴分、あの鮎川魚紳も、確かKC11巻あたりで釣竿を剣のように振るってチンピラどもをぶちのめした。
「ショータ。大丈夫? 痛そうだけど……」ケンジが言った。
小屋から外には出たが、スコップを持って雨に打たれるまま立ち尽くしている。
普段から指示が出るまで勝手に動くなとしつけられているのだろうか。
「ケンジ。やっちまえ。スコップでそいつをぶっ叩いてやれ」
「おう」
電源がオンになったケンジが動き始めた。
スコップを片手で軽々と団扇でも扇ぐように、ぶーん、ぶーんと振り回した。
「挟み撃ちだ。逃がすなよ」
「おう」
ケンジが振り回すスコップが雨粒をパシパシと弾き飛ばし、栗尾根の防水・透湿ジャケットにあたった。
リーダーもサケバットで威嚇しながら、じりじりと距離を詰めてきた。
「……ちきしょう……この野郎……」
木の根元でのびていたテッペイが復活した。片目を押さえてこちらへ歩いてきた。
「……小樽め……」
右手に光らせているのは、ナイフだった。刃渡り7、8センチほどだが、初めて見る凶器らしい凶器だ。
「テッペイ、そいつの後ろへ回れ」リーダーが指示を飛ばした。
「くそ野郎……さっきはよくも……」
腹にクリーンヒットを浴びせたショータも復活してしまった。どこから拾ってきたのか、赤錆びてボロボロのクワのような農具を手にしている。
栗尾根は、四人に囲まれてしまった。
「よし。いいぞ。ケンジ。やれ。ぶっ潰せ」とリーダー。
「やっちゃっていいの?」とケンジ。
やっちまえ、やっちまえと背後でナイフとクワを構えている二人もはやし立てた。
ケンジが振り回す先の尖ったスコップが唸りを上げて、栗尾根の顔前を横切った。
雨混じりの鋭い風が頬をかすめたが、こう囲まれていてはあとずさることもできない。
また顔面近くへスコップが飛んで来た。栗尾根は防御しようと、ストックを突き出した。
どうしたというのだろう。
リーダーが、爆笑中だ。
サケバットでてのひらを叩きながら、猿のように歯をむいて笑っている。
彼には栗尾根の様子がひどく滑稽に映っているようだ。
栗尾根は叩かれた衝撃で痺れている右手を見た。
あれ、ない。
構えているはずのストックがなくなっている。
ストックは栗尾根の手から離れて、くるくる回転しながら白樺林のほうへ弾き飛ばされていた。
「おい。とどめだ。誰がやる?」
爆笑がやっと収まったリーダーが言った。
「おれがやる」
ナイフの刃を光らせながらテッペイが言った。
「毒ガスのお返しをしないと気がすまねえよ。この小樽が」
ナイフを構えるテッペイに、栗尾根は防水バッグをかざした。手元にはもうこれしか残っていない。
雨音が一層激しくなった。
四人の姿も霞むほどの雨になった。
栗尾根の額から顎にかけて雨なのか汗なのか、わからない流れができている。
頭上の雨空が光った。
ドーンっと雷が鳴った。
「おい、殺すなよ。ケツに刺してやれ。ケツに。ブスっと」
リーダーが楽しそうに言った。
雷に興奮しているのか、どこからか野獣の唸り声も響いてきた。
「テッペイ。刺せ、刺せ、刺しちまえ」
「逃げても無駄だぞ。この小樽が」
豪雨のカーテンの払い除け、テッペイが向かってきた。
「やれ。やっちまえ」
すぐそばで、ダーンっと耳をつんざく大きな音がした。
間合いを詰めてきたテッペイが突然、前のめりに倒れ込んだ。右足の太腿を押さえてのた打ち回っている。
何が起きたのか。
まさか、雷が直撃したのか。
また野獣の声がした。
落雷だと思い、とっさに姿勢を低くしていた栗尾根は、立ち上がった。
落葉に塗れてもがいているテッペイに近づくと、落ちていたナイフを回収した。
ほかの三人は、何が起きたのかまだわかっていないようだ。
栗尾根は、背後の森に目を向けた。
雨に濡れた枯れた松の下に、黒い大きなものが立っている。
熊だ。
「ギョー」
「ジュー」
「ゴォー」
豪雨の中で、熊が吠えていた。
「ジュー」
「ザァー」
ひとしきり吠えると、黒いマウンテンパーカーを着た熊はこちらへ歩いてきた。
「凶器集合準備罪!」熊が言い直した。
「おまえら、全員逮捕だ」
さっきから叫んでいたようだが、雨音と活舌の悪さでとても人間の声には聞こえなかった。
森の中からのっそり現れたのは、肩まで伸びたパーマをちょんまげに結った熊のような大男。
手にしている散弾銃は、レミントンM870。
「危ないところだったな、栗尾根君」
オホーツク総合振興局の北海道保安官、三崎浦蓮一郎だった。
「凶器準備集合罪です。保安官」
主に凶器を準備していたのは栗尾根のほうなので適用は難しいだろう。
「どうして、ここへ?」
「通報があった」
三崎浦保安官は、唖然とするリーダーとただ立っているケンジの間を通って栗尾根のほうへ歩いてきた。
ショータもクワを振り上げたまま時間が止まっていた。
「出先でよかったよ、栗尾根君。津別で熊が出たというから出動したら誤報だった。オンネトーでも見物して帰ろうと思っていたら、この急展開だ」
「通報? 誰からですか?」
「それが、わからないんだな。声は機械のような音声に加工されていた。でもうちの所員が山奥で決闘しているなんて告げられたら、確かめないわけにはいかないじゃないか」
あたりがざわざわし始めた。
誰? このおっさん。
やべぇ。銃だ。
おい、銃持ってるぞ。
「しかし、栗尾根君。君の報告とは、ずいぶん話が違うようだな」
保安官はキャンペーンハットを脱いで、つばに溜まった雨をシャッと払い、おもむろにかぶり直すと若者たちに目を向けた。
「これが札幌のブジデス・バーサン(ビジネス・パーソン)なのかい? ぼくには愚連隊にしか見えないんだが」
「彼らは、道東まで濱口正夫を追いかけてきた窃盗団のメンバーです。容疑は濱口に対する傷害致死、保安官補に対する暴行、公務執行妨害、諸々です」
「栗尾根君。公務執行妨害は余計だろう。たとえどんな状況であろうと公務を執行するのが北海道保安官というものだよ」
「失礼しました。力にはより大きな力で、でしたね」
「そうだ」と保安官。
「お、おい。マジかよ。そんなゾンビを撃つような銃で人を撃つのかよ……」
リーダーがわれに返って言った。
「おっさん、ちょっと、おかしいんじゃねえの」
「おっさんとは何だ。保安官と呼べ。大声で二度も警告したのに、おまえらがやめないから発砲したまでだ。それから、これはゴム弾だから心配ない。ちょっとばかし痛いだけだ」
「痛ぇよ。脚、痛ぇ……」
撃たれたショータは、まだ太腿を押さえて倒れたままだ。
本来は暴動鎮圧に用いられるゴム弾だが、道東では主に畑地に侵入した熊を追い払うために使っていた。あたり所が悪ければ、痛いだけではすまない。
「栗尾根君。確認だが、令状の提示はすんでいるのかい?」
「もちろんです」
保安官は、若者たちに向かって言った。
「いいか、聞け。そして、理解しろ。われわれ保安官事務所は、最大限の実力を発揮して、おまえらを制圧できる立場にある」
「実力? 制圧? おい、何言ってんだ。何言ってんだ、このおっさん……」
リーダーは、どうしてもこの現実を認めたくないようだ。
「おまえら、まだ抵抗する気があるのか? うん? どうなんだ?」と保安官。
「そうか。抵抗するか。栗尾根君、これを頼む」
栗尾根は渡された散弾銃を持ったまま後ろへ下がった。栗尾根には銃の所持許可がないので、これは違法行為にあたるのだが、保安官特権により引鉄を引かなければ問題はない。
「おまえら、もう刃物は持っていないだろうな? 持っているなら、今のうちに出しておくんだ。急に出されると、危ないからな。おまえらが」
リーダーがまた笑い出した。爆笑ではなく、もう笑うしかないときの笑いのようだ。
「さあ」
保安官が、立ち上がった熊のように両手を広げた。
「来い」
「ケンジ!」気を取り直したリーダーが叫ぶ。
「おう。何?」
「やるぞ、やっちまうぞ。こいつら、二人ともやっちまってから、車で札幌へ帰るぞ。おい。わかったか?」
「おう。わかった」
ケンジは理解したことを示すように頭にかざしていたスコップを元気よく振り上げた。
「やった、やっと札幌へ帰れる。道東、もう飽きたよ。何もないんだもん」
リーダーが保安官へ向かって行く。
サケバットを構え、フェイントをかけながら保安官に近寄ると、顔のあたりへ殴りかかった。
保安官が、軽いバックステップでそれをかわした。
勢いのまま、リーダーはさらに殴りかかった。
保安官は、太く長い脚で低い蹴りを飛ばした。
ブーツの爪先が、リーダーの膝にあたった。
バランスを崩したリーダーの顔面に向かって、踏み出した保安官の長い右手が飛んだ。
バシンっと、高い音が響き渡った。
雨が一瞬、止んだ気がした。
リーダーは、虚ろな目で頭をぐらぐらさせながらも何とか立っていた。
が、遂によろけて頭から小屋へぶつかって倒れた。
見事な張り手だ。
栗尾根は、リーダーの手を離れて地面に転がったサケバットを素早く回収した。
「おう。この野郎!」
ケンジが血相を変えて、保安官へ向かっていく。
目の前でリーダーがやられて、さすがにケンジの巨体にも血液が上り切ったようだ。
ケンジはスコップを振り回して、保安官に襲いかかった。
身長はほぼ同じ。体重はケンジのほうがありそうだ。
スコップが保安官の肩にぶつかる鈍い音がした。
構わずに保安官は、ケンジの懐へ飛び込んだ。
スコップを払い除けると、スウェットのパンツからはみ出したケンジの太い腹に、両腕を回して、抱え込んだ。
「お、おう、おう……」
二人の体が重なって、一本の巨木になった。
「お、う……うっ」
保安官は爪先が宙に浮いたケンジの体を、さらに締め上げている。
太い幹が裂けるように、ケンジの体が反り返っていく。
「きゃ、きゃあ、きゃはあ……」
かわいい悲鳴を最後に、ケンジは静かになった。
保安官が巨体を離すと、ケンジはふにゃり、とその場に座り込んだ。
背骨が折れたのだろうか。手加減はしているはずだ。
保安官が、今度はショータのほうを向いた。
すっかり存在を忘れていたが、錆びたクワを持ったままショータは同じ場所に立っている。
保安官が、一歩近寄ると、ショータはクワを放り出して首を横に振った。
ケンジは正座したまま気を失っているようだ。
栗尾根はケンジが履いている靴が、ラバーソールのウェーディングシューズであることに気づいた。川で見つかった胴長靴のタイツとセットの靴かもしれない。ケンジの大足にぴったりとフィットしていた。
小屋にぶつかったまま動かなかったリーダーが、不意に起き上がった。
しきりに頭をぶるぶる振っている。
脳震盪を起こしていたようだ。
その場にへたり込んでいるケンジの姿を見て、はっと状況に気づいたようだ。
リーダーがふらつきながら白樺林のほうへ走り出した。
「あ、保安官。逃げますよ、あいつ」
「本当だ」と保安官。
「おい、止まれ。おい。栗尾根君、奴の名前は?」
「ええと、あれ? 何だったかな」ど忘れしてしまった。
「ええと、ド根性ノ助、ではないよな、ええと……」
保安官は、栗尾根の手からレミントンを取り上げた。
「おい、止まれ。ド根性のドスケベ。変な名前だな。撃つぞ!」
保安官は銃のフォアエンドをスライドさせ、先ほど撃ったゴム弾の空薬莢を弾き飛ばした。
「おい、止まれ。警告はしたぞ」
保安官が、銃を構えた。
「できれば、人間は撃ちたくないんだよな」
「確かにそうですね」栗尾根は、両手で耳を閉じた。
「タマ・モ・イナイ。イッパ・ナンボ・シッ・テッ・カッ。高いんだよ。コノ・ム・ダン」
「え、何ですか? 高い?」
「弾が、もったいない。一発、なんぼ(いくら)か、知ってるかい? 高いんだよ、このゴム弾」
ダーンっと地響きのような轟音が鳴り、雨音がまた途切れた。
白樺林の手前で万歳した格好のリーダーの後ろ姿が、ぴょーん、と跳ね上がり、ばたりっ、と倒れた。
ホールドアップしたようにも見えたが、ちょっと遅かった。
【17尾目】【18尾目】
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