『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【19尾目】【20尾目】【21尾目】
【19】
北海道保安局網走北見紋別地区保安官事務所は、入学生減少による統廃合で空き家となった私立高校の一室にあった。
校舎にはほかに、市内の各種団体、スポーツジム、絵画教室、貸会議室などが入っている。歩いて数分のところには、網走市役所、網走警察署もあった。
歴史のある古い校舎だが、栗尾根は丘の上の公立高校の出身なので、特に感慨はなかった。
栗尾根のオフィスは、元は高校の校長室だったという話だ。奥の扉の向こうは元の理事長室。理事長の椅子には保安官が座っていた。
三崎浦保安官はいつものようにデスクに足を乗せ、市議会や国や道からのペーパーに目を通しているのだろう。
時折、保安官の巨体を支える椅子が悲鳴を上げる以外、至って静かな職場だ。
ちょうど老人クラブの詩吟と卓球の時間らしく、講堂のほうから高々とした唸りとボールを打つ軽快な音が響いている。
栗尾根は、パソコンで提出書類の作成に追われていた。
提出先は、道や市や家庭裁判所など。同じ内容を表現を変えながら数種類、それぞれのフォーマットに合わせて作っていく。
川で濱口正夫を釣ってから、半月がすぎた。
釧路署との非友好的な協力関係、特殊警棒及び催涙スプレーの使用……書類の中ですべては正当なものであり必要な措置であったことを合理的かつ丁寧に説明したつもりだ。
保安官の散弾銃の使用も問題にはならないだろう。威嚇射撃なしの発砲だったが、そもそも北海道保安官法には威嚇射撃についての記述がない。
自慢じゃないが、歴代の保安官作文の書き手の中でも優秀なほうではないだろうか。
あとは保安官が目を通して、かの榎本武揚公がロシア領事館寄贈のマンモスの牙から彫らせたという印鑑を押せば完成だ。
作成した報告書に、フクロウ男は登場しない。
都合三度の阿寒湖探索は空振りに終わった。
手詰まりだった。何かヒントを求めて市立図書館で『渡辺淳一全集』をひもといてみようかとも思ったが、それも違う気がした。
フクロウ男の正体は?
奴の目的は?
解けない謎の塊を残したまま、事件は数ページの書類の中へ終息しつつある。
「栗尾根君、そろそろ頼むよ」
三崎浦保安官が、ドアから大きな丸顔を覗かせた。
髪を縛っていないので、オールドイングリッシュシープドッグのように前髪で目が隠れていた。これがきっついロッドで巻いたパーマなのか。
「了解です」
離陸の時刻が迫っている。
栗尾根は、事務所の戸締りをして校舎の中庭にある駐車場へ向かった。
本日は休日出勤。
保安官が「東京網走会」の総会と懇親会へ出席するため、これから東京国際空港へ発つのだが、生憎一番近い女満別空港発のチケットが取れなかった。それで釧路からの直行便に搭乗するため、栗尾根が運転して、たんちょう釧路空港まで保安官を送っていくのだ。
車は、事務所の公用車であるジープ・ラングラー。ジムニーの助手席は188センチ、111キロの保安官には狭かった。
「えー本日はお日柄もよく、ここにお集まりの紳士淑女のみなさまにおかれましては……」
後部座席から地獄のドアをこじ開けるような、しわがれた声が響いてきた。
「えー何だ、えープロレス出身のわたくしといたしましては、しょっぱい試合はまっぴらごめんですが、えーこの会場に吹いているアッ・フォー・ツックゥ(オホーツク)のしょっぱい潮風は大変心地いいものでして、えー何だ、えーわれらが故郷、アッ・パー・シェリ(網走)のエアーズロックであるところの帽子岩と、えー水平線まで埋め尽くす流氷の大海原が、今にも、えー目に浮かぶような、えー◇▲♨Ω●▽■でありまして、えー何だ……どうだ? ちょっと平凡だったか」
「平凡ですね。それと、エアーズロックのくだりは省いたほうがよろしいかと。保安官の政治的発言と受け取られる可能性があります」
エアーズロックはオーストラリアの先住民にとっては聖地「ウルル」、帽子岩はアイヌにとっては「カムイ・ワタラ」、神の岩だ。
北海道保安官も公僕である以上、不偏不党、公平中立であらねばならない。そこを踏まえた上での、力にはより大きな力で、法令にはより強い法令で、だった。
「紳士淑女という表現もいただけません。小学校でも男女の区別のない時代ですよ」
「そうなのか、栗尾根君」
「都民は言葉遣いに敏感ですから、誰かを呼ぶときも○○さんでお願いします。○○君も○○ちゃんもダメです」
「都会は面倒だな」
インディーズのプロレスラー時代も、2期務めた網走市議会議員時代も、マイクパフォーマンスや演説、議会での質問は苦手だったようで、保安官は挨拶の文言をひねり出すのに四苦八苦していた。
東京網走会の総会は、網走市長も出席する重要なイベント。
関東圏で暮らす網走ゆかりの人々のご機嫌を取るのも、保安官事務所の存続に関わる大切な仕事だ。
「保安官、あとでスマホに文案を送っておきましょうか」
「そうだな。短めでいいから、一つ問題のない奴を頼む。最近の事務所の活動なんかもちょっこっと入れてな」
別に挨拶などどうでもいいのだ。
網走と言えば、刑務所と保安官。パーティーの参加者は、珍しい現役保安官と一緒に写真を撮れば満足するだろう。
「栗尾根君。この際、君も銃の許可証を取ったらどうだい」
「はあ」
「またあんな危ない目に遭うかもしれないじゃないか。銃があると便利だぞ」
「そうですかね。扱いが難しそうですが」
「簡単さ。引鉄を引けば相手が吹っ飛ぶだけだから」
保安官補が猟銃の所持許可証を取ると、あとが大変だ。強制的に地元の猟友会に所属させられ、熊が出れば緊急出動。鹿が増えれば駆除活動。釣りに行く暇がなくなってしまう。
保安官の話を聞き流しているうちに、たんちょう釧路空港に到着した。
「じゃあ、留守を頼む。何かあったら連絡を」
空港の出入り口の前には、タンチョウヅルとシマフクロウのリアルで巨大なモニュメントがある。ちょうど、求愛ダンスをしているタンチョウヅルと並んで、外国人らしい観光客が記念撮影中だった。
シマフクロウのほうは、気配を消して静かに木に留まっている奴と、大きく羽を広げ捕まえた魚とともに飛び立とうとする奴の二羽がいた。森の哲学者にして、闇の狩人でもあるフクロウの二面性をよく表している。
シマフクロウの鋭い爪で、がしっと捕まえられている白い斑点のある魚はアメマス。これもリアルな造形だ。
栗尾根は、ふと空腹に気がついた。
昼飯が、まだだった。
ここですませてしまおうと、空港内へ入っていった。
ロビーには出航を待つ人々が行き交っていた。
釣人は竿が入った長い筒型のケースを抱えているのですぐわかる。短めのケースを抱えているのはカモ撃ちのハンターだろう。
栗尾根はエスカレーターに乗って、三階のレストランへ向かった。
ショーウィンドーの中から、豚丼が、海老フライ定食が、ザンギ(鶏唐揚げ)定食が、微笑んでいる。
空腹のせいか、全部うまそうに見えた。
「おっ」思わず声が出た。
スパカツがある。
栗尾根はレストランに入ると、迷わずスパカツを注文した。
熱い鉄板皿にスパゲッティ、その上にトンカツを載せ、ミートソースをこれでもかとたっぷりかけてジュージューいわせる、スパゲッティミートソースカツ載せ。
これが、釧路が誇るスパカツ。根室のエスカロップとともに極東B級グルメの双璧と呼ばれていた。
水を一口飲んでいると、もうスパカツがやって来た。
香ばしい匂いを振り撒きながら栗尾根の鼻先をかすめて、スパカツは向こうへ行ってしまった。
やけに早いと思ったら自分の番ではなかった。
店員は別の客のテーブルに熱々の皿を置いた。
「あっ」また声が出た。
フォークを手に、今まさにスパカツに挑もうとする男性と目が合った。
向こうも「おや?」と不思議そうな顔をしている。フォークが宙で止まっていた。
見覚えがある。
誰だっただろうか。
絶対どこかで会っている……。
「ああ、あの」向こうが先に思い出した。
「どうもどうも」
例のアメマスの川で出会った、フラピ世代のリバー・ランズ・スルー・イット氏だった。
「いやー、大変でしたね」とスルー・イット氏。
「ドラマでよくある、第一発見者って奴ですよね」
栗尾根は席を移動し、スルー・イット氏と向かい合った。サッポロクラシックのジョッキを片手に、スルー・イット氏はご機嫌だった。
「わたしのメンターの一人がね、言っていたんですよ。クリエイティブな仕事をしたかったら、何も考えずに二週間遊べってね」
イット氏は「テック系」の「スタートアップ」で役員を務めていたが「バイアウト」。次の事業も計画中だが、より「クリエイティブ」になるために、道東へ釣り旅行に来ていた。
栗尾根とは、旅の初日と最終日に出会ったことになる。
「日本でアントレプレナーが育たないのは、ダイバーシティの問題ではないと思うんですよ。多様性うんぬん以前の話。単純に休暇が足りないせいなんです」
イット氏は語る。
「今、コスパとかタイパがどうとか、言う人多いでしょう? アホかと。クリエイティブは、無駄と余裕から生まれるんですよ。うちの業界もアホばっかりで、本当嫌になりますよ」
ウォーターフォールでアジャイルな業界話については「はあ」としか言えなかった。
イット氏は自分の話に夢中で、栗尾根のカーキ色の制服とバッジには気がついていないようだ。確かにサファリスタイルの服装にも見えるし、ボーイスカウトと間違われることも多い。
「コンサルティングファームの高いセミナーを受講するくらいなら、北海道へ釣りに行けですよ。イノベーションに必要なのはバケーション。日本人はもっと休暇の効用を学ぶべきなんです」
「はあ」
「その点、フライフィッシングはリダンダンシー、冗長性の宝庫です。始まりから終わりまでイージリーにはいかないところがいいですね」とイット氏。
「1匹のトラウトを釣るために水生昆虫の生態を調べたり、キャスティングをマスターするためにスクールに参加したり、高いマテリアルを集めてフライタイイングにふけったり……まったくフライフィッシングという奴は金と暇を費やすにはベストのホビーですよ」
これは同意見だった。
イット氏は、スマホを取り出して、栗尾根に今回の釣行の成果を見せてくれた。
「これこれ。尺ヤマメです。なんと尺上が出たんですよ」
氏は、スマホで撮った画像を示しながら言った。
「北海道じゃ、かなり珍しいようですね。どうです? ほら、この見事な魚体」
「見事ですね」と栗尾根。
天然魚が中心で、放流魚の少ない道内では30センチを超えるヤマメは滅多に釣れない。
「この川は行く予定はなかったんですが、思い切って場所を変えて正解でした。変な話ですが、これもあなたのお陰ですよ。いや、死体のお陰かな」
「よかったですね」
次に示された画像は、胴の太い見事なニジマスを持った、
氏。誰かに撮ってもらったようだ。
「どうです? このレインボートラウト。いい型でしょう」
「素晴らしいですね」
「さすが、北海道。こんな、ですよ。こんな」
氏は、フォークを持ったまま両手を広げて釣った魚のサイズを再現した。
釣りの話をするときは両手を縛っておけ、と言ったのは開高健だった。両足も縛って川へ投げ込め、と言ったのは誰だったか。
屈斜路湖では婚姻色で頭とひれ以外は真っ赤に染まったヒメマスが爆釣だったという。
「ヒメマス釣りは意外とつまらないですね」
「そうですか」
「オスかメスかの違いだけでサイズはみんな一緒です」
画像の中の氏は、朝焼けのような魚を手に晴れ晴れとした笑顔だった。
「それと、今回の北海道はアメマスがさっぱりでしたね。それだけが心残りで……」
もう何も言う気がしなかった。
「そうだ。アメマスと言えば」
氏は、スマホを操りながら言った。
「アメマスが不調な理由は、これじゃないかと思うんですよ」
栗尾根の中に構えるものがあった。
ここでまた漁民犯行説なのであろうか。
氏が、探し出したスマホの画像を示した。
まさか、漁師がアメマスを駆除している決定的瞬間でも写したのだろうか。
画像は、路上から小川を撮影したものだ。
「大自然の驚異ですよ。この写真じゃわからないかな。そうだ。動画も撮ったんだ」
氏は、動画ファイルを再生して見せた。
小さな川の中で、二つの魚影が寄り添って泳ぐ姿が映っている。
「これ、アメマスの産卵シーンです」
オスらしき魚影がしきりにメスらしき魚影に擦り寄っている。産卵を促しているのだ。
「湖でヒメマスを釣っていたんですが、そこに流れ込んでいる川でアメマスがペアリングしているのを偶然見つけたんですよ。どうです? ちょっとエモーショナルでしょう」
氏は、得意げに言った。
「産卵が佳境に入って、アメマスは餌なんか食ってる場合じゃないんですよね、きっと」
栗尾根は黙って聞いていた。
「でも、C川は違うのかなあ。あそこは、やっぱり漁師が網で根こそぎに……」
突然、栗尾根の腕が伸びてスマホ奪い取っていた。
「ど、どうかしました?」驚く、イット氏。
「すいませんが」
栗尾根はスマホの画面に目を貼りつけたまま言った。
「これ、どこで撮りましたか?」
「屈斜路湖ですが。林道の入口あたりですけど……」
そこは栗尾根もよく知っていた。
林道のゲートの前に駐車スペースがあり、車が停まっていない日はないほどだった。付近に小川の流れ込みがあり、一帯がいいポイントなのだ。
栗尾根はもう一度、動画を再生した。
動画のラスト――2匹のアメマスを写していたカメラが小川から離れ、駐車スペースをぐるっと回って映像は終わる。
ちょっと前に戻って、再生。
映像をストップ。
林道の奥にキャンピングカーが見え、その前に腕組みをした人物の姿が映っていた。
拡大してみた。人物はグレーのジャケットに鹿撃ち帽をかぶり、髪は白くヒゲも白い。黒縁の丸眼鏡の下の表情までは見えない。
「あの、ここに映っている人って覚えていますか?」
栗尾根は、イット氏に尋ねた。
「ちょっと、知り合いに似ているもので」
「ああ、そのキャンピングカーの」と、スルー・イット氏。
「その人には、屈斜路湖で何回も会いましたよ。林道でしょう。オサッペ川インレット。ホテル裏。和琴半島。碁石浜にもいたなあ」
リバー・ランズ・スルー・イット氏は、屈斜路湖の雰囲気が気に入って何度か訪れたという。その度に白いキャブコンバージョンのキャンピングカーと、その前にたたずむ男性を見たというのだ。
「一度見たら、忘れませんよ。英国貴族じゃあるまいし、今どきネクタイ締めて釣りをする人はいませんからね」
あずましくない。まったくあずましくない。
渡辺淳一といえば阿寒湖ではなく、屈斜路湖――今の今まで気がつかなかったとは、鈍感力もいいところだ。
「自己満足もいいところですよ。スタイリッシュなファッションで極めた自分に酔っているのかなあ。いますよね? そういう人」
「ええ……」
「あ、これは失礼。あなたのお知り合いでしたね」
栗尾根も屈斜路湖岸で二泊していた。同じころ、白いキャンピングカーも湖のどこかにに停まっていたことになる。
こちらが気がつくまで、じっと待っていたのかもしれない。英国貴族並みの余裕と慎み深さだ。
「その人、まだあそこにいるんじゃないかなあ。あの格好で」
「いるでしょうね、たぶん」
いつの間に来たのか、栗尾根の前にもスパカツがあった。
栗尾根はフォークでカツを一切れ刺すと、ぱくっと食いついた。
【20】
屈斜路湖から、釣人がまた一人、帰ってきた。
まだ午後四時前だが、十月末の道東はあと半時間で日没を迎える。
暗闇で道具を片づける面倒を嫌って、釣人たちは明るいうちに次々と湖から引き揚げてくる。
ここは冬場に峠を越えるトラックのチェーン着脱場となる場所。通りの向こうには、テニスコートが見え、右手の奥には池とホテルがあった。ホテル裏のポイントへ入る釣人は、この着脱場に車を停めるのだ。
左へ100メートルほど進んだところに湖まで降りられる小道があり、湖岸には根元を頭にした龍にそっくりの大木がそびえていた。
すぐそばに龍神を祀った小さな祠もある。心ある釣人ならお参りしてから釣りを始めるのが礼儀というものだ。
砂湯とキャンプ場、乗馬にカヌー、露天の温泉がそろっている東岸から南岸にかけてに比べ、西岸から北岸へかけての湖水は寂しく訪れる人も少なかった。ホテルの宿泊客にとっては、雄大なカルデラ湖と原生林しか目に映らない贅沢な眺望なのかもしれない。
今日、フクロウ男はホテル裏のポイントには来ないようだ。何しろ世田谷区に渋谷区を足してもまだ余る湖だった。一人の人間をいざ探し出そうとするとなかなか出会えないものだ。
栗尾根は、チェーン着脱場からジムニーを発進させた。
木立の向こうに見え隠れする、そのホテルは、かつてある作家とある女優が、愛の逃避行を演じた舞台だった。
二人は追手の雑誌記者を振り切り、モーターボートで湖の対岸へ逃げ延びたというのだ。飽くまで噂だ。
二人とも、もう故人だった。
作家の小説はバブル期のわが国でよく売れ、経済発展を遂げた中国でも売れているという。
女優の霊魂はスイーツを彩るフルーツの丘で、蝶のように舞い蜂のように働いている。
次のチェックポイントは、2キロほど離れた林道。
林道の入口から、車が二台続けて出てきた。走り去るのを待って、ジムニーは静かに砂利道へ進入した。
手前のほうに停まっているランドクルーザーの後ろで一人、帰り支度をしている釣人がいた。
閉まっているゲートのそばに、もう一台停まっていた。
数時間前に偵察したときはなかった車だ。そのときはこの狭いスペースに、二十台以上も停まっていてまったく入り込む余地がなかった。
今は、この二台のみだ。
栗尾根は、夕暮れ間近のがらんした林道の入口近くにジムニーを停めた。
釧路ナンバーのランドクルーザーが国道へ去ると、白いキャンピングカーとジムニーの間を遮るものはなくなった。
栗尾根は後部座席から釣竿を抜き取ると、車外へ出た。
林道の奥で、白く四角い車体だけが浮かび上がって見える。
途中に小さな橋があり、幅1メートルほどの小川が流れていた。
リバー・ランズ・スルー・イット氏が、ペアリング中のアメマスを撮影した川だ。水玉模様のカップルはすでに共同作業を終えて湖へ帰ったのか、魚の姿は見えない。
白いキャンピングカーは無人だ。
トヨタ・カムロードに居住空間を載せたもので、所沢ナンバーのレンタカーだった。
カーテンがかかった窓の隙間から覗くと、備えつけの小さなテーブルの上に毛鉤作りの道具が並べられている。
万力に、作りかけの毛鉤が挟まったままだ。それが、ヤマアラシとマングースで巻いたコカゲロウかどうかまではわからない。
あまり覗いていると、車上荒らしと間違われてしまう。
栗尾根は釣竿を片手にクマザサが茂ったなだらかな斜面を湖岸まで降りていった。
紅葉越しの湖水に、杭のように突き刺さっている釣師の姿が小さく見えた。
日の入りまであと十数分だが、釣師は遠浅の湖水に立ち込んで熱心に竿を振っていた。
釣師は片手で竿を操っている。もう片方の手で釣糸を送り出しながら、竿を前後に振って距離を伸ばしていく。
フォームに乱れがない。釣糸が描くループにもぶれがない。
釣師は、今度は竿を両手で持って振り始めた。
よく見ると竿は片手投げにも、両手投げにも使えるスイッチロッドだ。クラシックな竹製ではなく、カーボン繊維の竿のようだ。
釣師は竿を前方へ振り出し、伸ばした釣糸を背後へは振らずに、横手の水面に折り畳むように着水させた。そこから、宙に半円を描いて大きく振りかぶり、力を溜めた竿で釣糸を沖へ向かって一気にしゅぱっ……と弾き飛ばした。
飛ばされた釣糸はなめらかにするりと30メートルほど伸びて湖面へ落ちた。
障害物があったりバックスペースが足りないときに便利な投法だった。背後のギャラリーの気配に気づいて投げ方を変えたのかもしれない。
指揮棒のように優雅に竿を振る、釣師のそばで、赤い魚が跳ねた。
見ていると、釣師の前でも、後ろでも、取り囲むようにして尾やひれが水面を割って出たり、波紋が起きている。
秋は愛の季節。
夕闇の中、魚たちの情熱で湖水は沸騰していた。
ヒメマスたちは生殖活動で忙しく、毛鉤には構っていられないようだ。
逆に、今ならアメマスのほうが釣れるかもしれない。一足先に子孫繁栄の大仕事を終え、川から湖へ戻ってきたアメマスたちは腹を空かせているはずだ。
陽が沈んだ。
道東の森と湖は、間もなく黒く輪郭のない世界に飲み込まれる。
リールを巻く音が鳴り始めた。
釣師は諦めたのか釣糸を巻き取ると、こちらを向いて歩き始めた。
黒曜石のような湖面を胴長靴で滑るように漕いで静かに岸まで戻ってきた。
「釣れませんね」
栗尾根は、釣師に声をかけた。
「リトリーブ(釣糸を手で引いて毛鉤を動かすこと)のスピードが少し早いように見えましたが」
釣師は何も言わずに、竿先にぶら下がった釣糸の先を見せた。
糸の先に、毛鉤がなかった。
これでは魚も食いつきようがない。
「キャスティングの練習です」低く渋い声で男性が言った。
「ゴルフの打ちっぱなしのようなものですよ」
和尚の証言通り、歳の割に骨格がしっかりとして肉付きがいい。年齢は六十四、五歳。
身長はやはり、和尚の見立てより低く、175、6センチ。
男性は、ツイードの鹿撃ち帽を脱いで一礼した。
真ん中分けの白く豊かな髪が、風になびいた。
頬から顎に繋がったヒゲも白く、首から上が宙に浮かんだように見える。
薄い偏光グラスの奥の目は、ちらちらとしか見えないが、鋭そうだ。
「栗尾根天士さん。あなたをお待ちしていました」
こいつが、フクロウ男だ。
【21】
湖面にさざ波が立っている。
沖から渡ってきた夜風に運ばれたのか、小型の羽虫が栗尾根の頬をかすめていった。
「ここでは何ですから、車で話しませんか」フクロウ男は言った。
「いい茶がありますよ。コーヒーもあります」
「いや、ここで結構です」栗尾根は言った。
「ご本はお返しします」
それからこれも、と二個の毛鉤も返した。
フクロウ男は手渡された『阿寒に果つ』をツイードのジャケットの懐に納めた。
毛鉤は帽子に刺した。
「このボールは、変化球でしたね。手こずりました」栗尾根は正直に告白した。
「すいません。ストレートに『失楽園』を選ぶべきでしたか。あの本棚には、こちらのほうが似合うかと思いましたが」
「愛と性と情のベストセラー作家には、とんと馴染みがなかったもので」
「わたくしに言わせるなら、渡辺淳一は生と死と湖の作家ですね」
「湖ですか」
「各地の湖について書かれた『みずうみ紀行』という秀逸なエッセイ集があります。渡辺によれば、この屈斜路湖は日本の湖の中で最も怪しく不気味な湖だそうです」
釣師は釣り以外で湖のことを考えたりしないものだが、作家は違うようだ。
「もう絶版ですが文庫にもなっていましたよ。タイトルが変わって、確か『湖畔幻想』でしたか。明るく穏やかな雰囲気の湖より、荒涼として暗く冷たい雰囲気の湖が、渡辺の好みだったようです。道内では屈斜路湖のほかには摩周湖、然別湖、支笏湖といったところでしょうか」
「なるほど。湖と関係が深い作家なんですね」
「湖だけではなく、池や川が作中によく出てきます。人間の生と死を水のイメージを使って表現していたようです。渡辺の『無影燈』が原作のドラマ『白い影』で、田宮二郎が支笏湖で自殺する外科医を演じていましたね。あなたの世代ですと、リメイク版で中居正広が演じていましたか。ご覧になられましたか?」
「いいえ」
「医師でもあった渡辺は、命というものが水とともにあることをいやでも意識していたでしょう。これは私見ですが、作中に海があまり出て来ないのは、母性のイメージが強いせいではないでしょうか」
すると、水の中から竿で、ぬるぬるした魚を抜き上げる、釣りのイメージは、さしずめ性の行為を表現してしまうのだろうか。
多趣味だったという渡辺淳一は、クラブ活動、ゴルフ、麻雀を少し控えて、釣りをすべきだった。
さぞかし官能的で破滅的な、釣り文学が生まれていたことだろう。
フクロウ男は、博識だった。
「阿寒町には、若き渡辺が勤務していた雄別炭鉱病院がありました。『白夜』と『廃礦にて』の舞台となった病院です。阿寒川の支流沿いに廃墟となって残っています。今ではすっかり心霊スポットですが」
「なるほど。道東は渡辺文学にとって重要な土地なんですね」
「そうなのです。夭折した帯広の歌人、中条ふみ子の生涯を描いた『冬の花火』という作品もあります」
フクロウ男の、偏光グラスの奥の光が、栗尾根が手に持っている釣竿へちらっと向けられた気がした。
「ところで」鎌をかけてみた。
「ほかの人はどうされました?」
「ご安心ください。チームはすでに解散しております」フクロウ男は言った。
「もうここにいるのは、わたくしだけです」
やはり、つけられていたようだ。
キャンピングカーは追跡には向かない。尾行用の車両と人員が複数いたに違いない。
「あなたに無断で調査活動を行っていたことをお詫びいたします」
フクロウ男は、また帽子を取って頭を下げた。
「今回の調査にマイクやカメラ、GPS発信機等の機器は使用しておりません。必要最低限の装備で対応させていただきました。それがあなたへのせめてもの敬意と誠意だと受け取っていただければ幸いです。保安官への通報の際、音声の加工はさせていただきましたが」
「目的は、これですよね」
栗尾根は、くたびれた布製の袋に入った釣竿を掲げて見せた。
「わたしが黒石毒蛇会から買ったのは、この竿です」
古い竿だった。
しかも、竿先が割れている。
そのことで売り主にクレームをつけたが無視された。価格は1万円。修理を頼んだ和尚にも断られ、部屋の壁に立てかけたまま埃をかぶっていた竿だ。
「そうです。その竿を譲っていただきたいのです」
フクロウ男は、単刀直入に言った。
「50万円ではいかがでしょうか」
竹竿は職人の手によって作られる。
作業は、竹を割って細い三角柱の竹ひごを削り出すことから始まる。それを六本束ねて六角形の竿に仕上げていくのだ。
バンブーロッドを一本作るのに、軽く数か月はかかるという。
安くても10万円、普通は20万円、高ければ天井知らず。
この竿は、たとえ折れていなくてもかなりのメンテナンスが必要だ。
名工の作とも思えないのだが、たった今50万円の値がつけられた。
「では、60万円ではいかがでしょうか」
栗尾根が返答する前に、竿の値段は10万円釣り上げられた。
「1万2千5百円でお譲りしますよ。あなたには二度も助けてもらいました。ただでお譲りしてもいいくらいです」
肉眼では、もう何も見えない。
栗尾根は、暗闇に向かって話していた。
「その前に、教えてください。あなたは誰ですか? この竿はあなたの竿ですか? それにしても50万、60万はちょっと高すぎます。口止め料込みなのでしたら、わたしには必要ありません」
「わたくしは、あなたが以前にいた世界の人間です、と言えばおわかりでしょう。名前はお教えできません。その竿の元の持ち主についても、お答えできかねます」
フクロウ男が黙った。
栗尾根もしゃべらない。
風と波の音だけになった。
「ただ、竿の価値についてはお伝えしなければフェアじゃありませんね。それは、リョーマの竿です」
「リョーマ?」
栗尾根は、思わず吹き出しそうになった。
「もしかして、坂本龍馬ですか?」
「はい。その竿は、坂本龍馬のフライロッドです」
フクロウ男は、真面目に言った。
「正確には、龍馬がグラバー邸の庭で振ったフライロッドです。おそらく、日本人が初めて触れた西洋の釣竿でしょう」
「それ、本当ですか? 申し訳ないが、非常に眉唾な感じがします」
「まだ公にはされておりませんが、龍馬直筆の書簡が見つかっております。土佐の家族に向けた書状を、郷土史家が新たに発掘したのです。その中にグラバーの庭で西洋の釣竿を振った、という記述があります。竿の長さ、形状から割り出した結果、その竿が、龍馬が振った竿だと判明しました。リールについては、まだ特定されておりません」
貿易商トーマス・ブレーク・グラバーが、毛鉤釣師だったことは知っている。
スコットランド出身で幕末に日本へやってきて薩長に武器を売っていた。その後、破産して三菱財閥に拾われ、高給をもらいながら日光の中禅寺湖や湯川で優雅に釣りを楽しみ、日本で死んだ。
一釣師の人生としては、上等な部類だろう。
和尚のライブラリーに福田和美著『日光鱒釣紳士物語』という本がある。
明治時代に日本でマス釣り、フライフィッシングがどのように始まったかが詳しく書かれていたが、グラバーが中禅寺湖で釣りをしていたのは、早くても明治二十年以降。彼が坂本龍馬と交流があったのは幕末。日光で釣りをする二十年以上も前だ。
武器商人が、激動の時代に釣りをしている暇があったのだろうか。
「グラバー商会があった長崎でグラバーが釣りをしていたという記録はありません。竿はグラバー商会が代理店をしていた香港のジャーディン・マセソン商会から贈られたものですね」
闇の中で、落ちついた低音をじっと聞いていると、人語を解すフクロウと対話しているような不思議な気分になってくる。
「一方の坂本龍馬ですが、激動の時代に釣りをしていました」
龍馬と釣り。
フクロウ男によると、日本初の新婚旅行と呼ばれるお龍との薩摩への旅で、龍馬は川釣りを楽しんでいたという。
「坂本夫妻が鹿児島県霧島市の塩浸温泉に滞在中、薩摩藩士・吉井友実の息子の吉井幸蔵が龍馬と何度か釣りに出かけています。毛鉤ではなく、餌釣りだったようですが、龍馬は魚に餌を取られてばかりで釣りの腕は今一つだったと、幸蔵から昔話を聞いた息子で歌人の吉井勇が書き残しております」
人望厚く、商才に長け、女性にモテて、剣術も射撃も名人級だったが、釣りはヘタクソな龍馬に、栗尾根は初めて親近感を覚えた。
「わたくしの依頼人は、その竿をグラバーの竿の一本として保管しておられました。それが、書簡の発見により坂本龍馬の竿になってしまったわけです。ご存知のとおり龍馬の人気は大変なものですので、竿の価値が一気に上がったというわけです」
えげれすのふらあいろっどを振ったで申候エヘンエヘン、みたいな奴か。その書簡とやらを見ないことには、何とも言えない話だった。
「わたくしの依頼人は、竿を手放すつもりでした。博物館か龍馬の記念館に寄贈しようと考えたのです。それで、最後に記念釣行を計画したのです。行き先は北海道。龍馬が蝦夷地開拓の夢を抱いていたことはご存知ですか?」
「いいえ」
帯広の銘菓・六花亭の紙袋や包装紙の挿絵を描いた画家が、坂本家の人だという話は聞いたことがある。あの北海道の草花の絵がそれだ。
「龍馬の海援隊は海運業とともに蝦夷地の開拓事業を進めようとしていたのですが、事故や事件が重なって、計画は立ち消えになってしまったのです。それでも龍馬は蝦夷地によほど魅力を感じていたのでしょう。京都で暗殺される直前まで開拓の可能性を探っていたようです」
「なるほど」
「依頼人は、その竿で龍馬が釣ることはなかった蝦夷地の魚を釣ってやろうと、ある場所へ出かけたのですが、そこで不運にも車上荒らしに遭遇してしまったのです」
ある場所とは、札幌と旭川の間に位置する新十津川町だった。
明治二十二年、奈良県吉野郡十津川郷が大水害に見舞われ、その被災民が新天地を求めて北海道へ渡り拓いた土地だ。
新十津川町に隣接する浦臼町には、何と坂本家の墓があり、龍馬の子孫が開拓に携わるなど関係が深いのだが、記念釣行にふさわしい釣場がなかった。
フクロウ男の依頼人は、札幌市内と浦臼町の二か所にある坂本家の墓に手を合わせたのち、龍馬に捧げる一匹の魚を釣り上げるべく、新十津川町の川へ向かった。ニジマスがよく釣れると聞いていたからだ。
「自らのミスが招いた結果に、依頼人は絶望的なショックを受けました。しかし、思い直したそうです。これは運命かもしれないと」
「運命?」
龍馬暗殺の容疑者は諸説あるが、実行犯が「十津川郷士」を名乗ったという話は有名だ。
しかし、龍馬の仇を討とうと陸奥陽之助(陸奥宗光)以下の海援隊が、龍馬に遺恨があったとされる紀州藩士・三浦休太郎(三浦安)を襲った「天満屋事件」では、海援隊側についた十津川郷士の中井庄五郎が、三浦の護衛を務めていた新撰組に斬られ命を落としている。
「龍馬と何かと縁のある十津川の名を継いだ新十津川で、竿が盗難、行方知れずになったのも、土佐を脱藩した龍馬の精神を受け継いだものと言えないだろうか。憧れの蝦夷地で自由を求めて竿が脱走を図ったのではないのか。依頼人は、そう感じたそうです」
依頼人は、龍馬に負けず劣らずポジティブな精神の持ち主なのだろう。それって、単なる不注意のせいだ。栗尾根は、思わず突っ込みそうになった。
幕末最大のミステリー「坂本龍馬暗殺事件」の真相は、いまだ歴史の闇の中だが、龍馬が夢見た地に同じ時代を生きた人々が新たな街を築いたことだけは間違いない。
「ついでに、これは余談ですが」とフクロウ男。
「坂本家の墓のある浦臼町と、石狩川をはさんだ西側には、渡辺淳一が生まれた上砂川町があります」
それは気がつかなかった。
「もう一つ。東京で栗尾根さんが事務所を開いていたビルと渡辺淳一の墓は直線で1キロも離れていませんよ。お気づきでしたか?」
「え、マジですか?」
「マジです」
渡辺淳一の本は、適当に選ばれたのではなかった。
だからどうした、という話ではあるが。
「わたくしは、龍馬の竿を追いかけて現在の持ち主である栗尾根さんまでたどりつきました」フクロウ男は言った。
「竿を秘密裡に取り戻したいという依頼人の希望を叶えるため、失礼ながらあなたの行動を見守らせていただくことにしました。何しろ、あなたは北海道の保安官補です。アプローチには慎重にならざるをえません」
警察に喧嘩を売ったり、半グレとチャンバラするのを見れば慎重にもなるだろう。
「このような極めて間接的な接触となってしまったことで気分を害されたとしたら、わたくしの不徳のいたすところです。お詫びいたします」
「リストから、わたしの名前が消えていました」
気になっていたことを訊いてみた。
「僭越ながら、こちらで用意したものと交換させていただきました」フクロウ男は言った。
「坂本龍馬の竿という日本の宝に、犯罪の履歴を残すわけにはいかない、というのも依頼人の希望なのです。オリジナルのリストはこちらで処分いたしました。データも残しておりません」
黒石毒蛇会の顧客だった点を持ち出され、警察から尋問を受けなくてすむのは助かる。
「あなたは窃盗団を逮捕した保安官補であり、それ以外ではありません。あなたの胸にとどめている限り、この件は、ここで終わります」
フクロウ男が、封筒を手渡してきた。六十枚では利かない厚さだった。
栗尾根は、そこから十枚だけ抜いて返した。
「それでは足りませんね」
フクロウ男は封筒から幾枚か紙幣を引き出した。
「どうかこれで新しい竿を買ってください」
ちょうど、和尚の店に気になる竿が入荷していた。バンブーロッドではなく、カーボンロッドのニューモデルなのだが、これならリールも新調できそうだ。
栗尾根は、フクロウ男に釣竿を渡した。
暗くてよく見えないが、フクロウ男は竿袋から釣竿を出して確認しているようだ。
闇の中で、取引は終った。
「でも、変な話ですよね」
栗尾根は二十枚ほどの万札を無造作にポケットに納めながら言った。
「龍馬がちょっと触っただけで、こんなオンボロ竿の値段が上がるなんて」
「わたくしは、あなたが竿のコレクターではなくてよかったと思いました」
「コレクター?」
医師の安達のことだ。腕は二本しかないのに、カシオの腕時計を四十個以上も集めている。
「英国の博物館から野鳥の剥製を盗み出し、観賞用のサーモン・フライの素材として売買していた人々の事件をご存知ですか?」
「いいえ」
毛鉤を額縁に入れて、切手やコインのように飾る人のことだろうか。
「この竿が、あの手の閉鎖的なコミュニティの人物に渡っていたなら、わたくしの仕事も困難を極めていたことでしょう」
カーク・ウォレス・ジョンソン著『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』が出版され、和尚の本棚に並ぶのは三年後のことになる。
「でも、その依頼人の方の、この竿で一匹釣っておきたかった、という気持ちはわかりますよ」栗尾根が言った。
「こんなことなら、和尚のケツを叩いて修理させるんだった」
「和尚?」
「釣具屋のオヤジですよ。チク・ザンのロッドビルダー」
「ああ、プロショップの。あの方にもご迷惑をおかけしました。わたくしを印象づけるにはどうしたらいいかと思いまして、あんな芝居じみた真似を」とフクロウ男。
「あなたが購入した竹竿のことを思い出していただきたかったのです」
これからこの竿は、しかるべき施設に寄贈され、数ある龍馬の「日本はじめて物語」の最新作として人々の目を引くことになるのだろう。ショーウィンドウに陳列され、二度と魚を釣ることはない。
「栗尾根さん。あなたも、窃盗団も気づいていませんでしたが、この竿はバンブーロッドではありませんよ」
「えっ」
「フライロッドに、インドや中国の竹が使われ始めるのは、1870年ごろからです。西洋に竹はありませんから」
「じゃあ、この竿の素材は?」
「緑心木。グリーンハートでしょう。水に強いので、橋や船によく使われた材木です」
バンブーロッドは、しなやかで繊細、竿の曲がり方にも独特の粘りがあって、大変いいものだと聞いていたのだが、実際持ってみると、重く、硬く、イメージとは全然違った。
それもそのはず、この竿は竹製じゃなかったのだ。
龍馬の竿は、自分とはどこまでも縁のない竿だった。
「わたくしは、依頼人ほど運命を信じるほうではありませんが、竿の現在の持ち主が、竿を盗んで売った人間の遺体を釣り上げるのを見て、鳥肌が立ちましたよ」フクロウ男は言った。
「この竿が、道東までやって来たことには、ある種の意思を感じざるをえません。道東は龍馬と縁が深い土地なのです。龍馬の甥の坂本直寛は北見で会社を興し、高知から網走まで開拓移民を輸送するなどの事業を行っております。また、龍馬家の家督を継いだ婿養子の坂本彌太郎は、釧路で坂本商会を興しておりますし、彌太郎の次男の坂本直行は十勝で画家として活躍しました」
坂本が多くて混乱する。
土佐、江戸、神戸、長崎、薩摩、京都……鉄道も車もない時代に袴にブーツを履いて駆け回っていた龍馬なら、この国の東の果ても見てみたかっただろうか。
「すべては、竿に宿った龍馬の魂のお導きでしょうか」栗尾根が言った。
「この竿にまつわる逸話として、よくできていると思います。でも、この話も、闇に葬られてしまうわけですね」
黙ってうなずいたのか、フクロウ男は答えない。
「どうやら話も尽きたようです。そろそろお別れしましょう」とフクロウ男。
「足下が危ないのでこれをお持ちください」
栗尾根は、小さなマグライトを手渡された。
「先にお帰りください。わたくしは、もう少し湖を見ています。普通の方よりは夜目が利きますので心配はご無用です」
「お訊きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「こういった釣りについての依頼は多いのですか」
「多くはありません」フクロウ男は言った。
「ただ、釣りの世界で起きたことは、釣師が解決すべきだと考える人が、ときどきご相談にいらっしゃいます」
「あの、最後に一つ」と栗尾根。
「野球をされていましたね。元高校球児ですか?」
ほっほっほっほっ、とフクロウ男が笑った。
「中学、高校、大学、ずっと野球漬けで。最後は社会人野球を数年やりましたかね。近ごろではバットではなく、こればかり振ってますが」
闇の中で、ひゅっ、ひゅっ、とスイッチロッドを振る音が聴こえた。
「窃盗団は、相当恐れていましたよ。あれは、石投げジジイだと」と栗尾根。
「奴らの証言から、足がついたりはしませんか?」
「わたくしは現場にたまたま通りがかった釣人です。今もただの釣人です」
「あと、最後にこれも。釣りは、例のブラピの映画から?」
「子供のころからですよ」低い笑い声が響いた。
「子供のころから、エースで、四番で、釣りキチです」
栗尾根は渡されたマグライトを点けて、湖岸から林道へ上がっていった。
マグライトをキャンピングカーのワイパーに引っかけると、闇に向かって目礼した。
ジムニーに乗り込み、林道から国道へ静かに走り出した。
***
美幌峠を通って、網走へ帰る道すがら、腹が鳴って仕方がなかった。
栗尾根は途中のスーパーで、モヤシとタマネギを買った。肉は常に冷凍庫の中に保存してあった。
自宅につくと、早速ジンギスカンの用意を始めた。といっても、野菜をザクザク切って、冷凍肉をレンジで解凍するだけだ。
肉は道民のソウルフード「松尾ジンギスカン」の味付マトン(羊の肩肉)。
クセが強くてあまり上等な肉とは言えないが、主役は漬けダレなので気にしなくていい。初心者には味付特上ラム(仔羊のモモ肉)がおススメだが、基本はこれだ。
栗尾根はバーベルのように黒くて重いジンギスカン鍋を、キッチンのコンロにかけた。
フライパンでもホットプレートでも肉は焼けるが、これは世界征服者の英霊を召喚する道民の儀式。魔法陣が刻まれた鉄の鍋は、欠かせない。
普通の卓上コンロに分厚いジンギスカン鍋を載せると熱でボンベが爆発することがあるらしい。かといって野外でも使える小型のプロパンガスボンベとジンギスカン専用コンロは、一人暮らしには重装備すぎる。
だから、栗尾根のジンギスカンはキッチンで立ったまま食うのだ。
切った野菜を鍋に入れ、その上から漬け汁ごと羊の肉を載せていく。
冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
サッポロ黒ラベル350mL。
何やかやで酒を飲むのは、本当に久しぶりだ。
栗尾根の部屋には、テレビがない。
ラジオをつけると、元気溌剌とした曲が流れていた。
この曲、確か、東京で室田蘭が歌っていた。ほかの地下アイドルとユニットを組んでカバーしていた曲だ。
本来の意味で、あずましくなかった。
何が、ふーふーだ。
いい肉肉肉って、皮肉か。
朝ムズメか。
焼けた肉を頬張り、ビールを腹へ流し込んだ。
肉質がハードなマトンは、しっかり噛まなければ羊の本質までたどりつけない。
もうもうと上がる煙がレンジフードファンからオホーツクの虚空へ吸い込まれていく。
一つの事件は終わった。
だが、まだ解決されていない謎がある。
あの川の巨大アメマスは、どこへ消えたのか。
毎年、同じ場所で大物が釣れるほうがおかしい、と言ったのは和尚だった。
魚の世界にも世代交代の周期があり、年を取った大きな魚は死んでしまい、川は小魚ばかりになることがある。
人の世は、少子化。
アメマスの川は、小魚化。
日本の夜明けは、ぅおぅおぅおぅおぅ
「いつになるやら、ようわからんぜよ」
ぃえぃえぃえぃえぃ、だが大アメマスの時代は、そのうちまた巡ってくるだろう。飽くまで仮説だ。
もし本当だとしたら、地球温暖化の影響も、漁師たちへの嫌疑も濡れ衣ということになる。
道東の秋と、アメマスの謎は、深まるばかりだ。
納竿(了)
釣具屋の主。和尚のモデルは、こちら⤴
私立探偵栗尾根。東京時代は、こちら⤵
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