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和尚と呼ばれた男

その人は、その髪型、そのたたずまいから〝和尚〟(おしょう)と呼ばれていた。「和尚さん」と呼ぶものもいたが、私は「和尚」と呼んでいた。
年の割に落ち着いているというか、諦観というか達観というか何事にも動じない雰囲気を身にまとっており、下の名前もどこか和尚ぽかった。

初めて会ったのは、14歳のとき。
中学三年の春のことだ。
私の家族は父の仕事の都合で、道東の大きめの街から小さめの街へ引っ越した。
その転校した中学の同じクラスに彼はいた。
背は私よりも若干低く、タイの少年僧のように痩せていた。
彼の辞書は「付和雷同ふわらいどう」の文字が黒く塗りつぶされていた。(注1)
和尚という人にふさわしい四字熟語をひとつ上げるとしたら「独立独歩どくりつどっぽ」になるのだろうか。
今風に言えば〝空気を読まない人〟だ。
一度、二人で、あるシンガーソングライターのコンサートを見に行ったが、会場総立ちのシーンにおいても彼は一人じっと席に座っていた。(注2)
同じ高校に進学し、同じ部活に入ったが、特別親しくなったということもなく、和尚はずっと和尚のままだった。

カラオケ大会。
私たちが入部したのは、科学系の部なのに宴会ばかりしている謎の部活だった。
宴会場は高校の理科実験室なので、さすがに酒は飲めなかったが、みんなジュースでハイになった。
先輩たちは懐メロにもほどがある、歌詞も見ずに歌えるのが不思議な昭和二十年代、三十年代の流行歌が得意だった。下級生はギター片手にニューミュージック、フォークソングを歌って対抗した。
学業優秀な同級生Hが誰も知らない洋楽を歌って微妙な空気になったあと、和尚がマイクを握った。
曲は、堀江淳ほりえじゅんの「メモリーグラス」――男性歌手にしてはキーの高い人だが、大丈夫なのか……。
和尚の美声が響いた。

「みずわりをくださぁァァァアアアア……」

たちまち声が裏返って理科実験室は爆笑につつまれた。
見事な出オチである。
今もこの曲を笑わずに聞くことができない。

大学受験。
同じ部活の五人で同じ大学を受験した。私と和尚もその中にいた。
列車は五人を乗せて北海道の東の端から西の端へ向かって走った。
釈迦しゃかてのひらのように果てしない北の大地を離れ、連絡船で本州へ渡った。青函トンネルはまだ津軽海峡の下を掘っている最中だった。
その大学は雪深い東北の街にあった。一次試験の結果、二次を受けられる適当な大学が道内にはなかったのだ。
高3の道民たちは、地元より田舎くさい東北の街を馬鹿にしたあげく、こんなところにある大学なんか受かっても行きたくないなと笑い合った。
結果、全員落ちた。
卒業旅行のような受験の旅だった。

浪人時代。
友人たちの八割は浪人生となった。
見回しても現役合格は数えるばかり。逆に一浪くらいしないと何か損した気分。社会の隅々までタイパ、コスパでガチガチの現代とは隔世の感だ。
私と和尚は地元を出て、札幌の同じ予備校の寮に入った。
札幌は東京の飛び地のような街。地下鉄すすきの駅で降りたはずが、いつの間にか新宿歌舞伎町を歩いていたとしてもあまり驚けない。
地元の街には本屋とレコード屋のほかに文化と呼べるものがなかった。
そんな若者が札幌に行くとどうなるか。
私と和尚は受験勉強などすっかり忘れて、大型書店や映画館に入り浸った。(注3)
名画座でフェリーニの『8 1/2』を見て、テレビで見ていたB級映画とのあまりの違いにめまいを覚えた。(注4)
書店で高橋源一郎たかはしげんいちろうの小説を立ち読みして、写真やマンガまで引用する自由な作風にショックを受けた。(注5)
前述の総立ちコンサートもこの時期のことだ。
ほかにも、道新ホールでまだ生きて動いていた開高健かいこうたけしの講演を聞いて感激したりしていたが、さすがに夏も過ぎると勉強を始めた。
予備校の優れたカリキュラムのおかげなのか、私の偏差値はたちまち38から55までアップした。(注6)
模試でずっと全滅だった志望校もぼちぼち合格ラインに乗っかり始めた。
私と違って高校在学中からまずまずの成績だった和尚も、さらに上を目指して励んでいた。
しかし、クリスマスは勉強を休み、和尚と二人でケーキをつまみにスパークリングワイン(たぶんノンアルコール)を飲んで大いに祝った。(注7)
寮は一人に一部屋。六畳あるかないかの広さに、ベッドと机と本棚が一つ。
和尚の個室の隅にはマンガ雑誌が大量に積み上げられていた。自分で買ったものもあったが、ほとんどは寮の誰かがゴミ置き場に捨てたものだった。
酔っぱらった和尚は、かたわらの少年ジャンプを一冊手に取ると、板でも割るようにバリっ!と折り曲げ二つに引き裂いた。
え、本てそんなに簡単に割れるものなのか⁉
酔った私も真似してやってみた。
バリっ!
マンガ雑誌はいとも簡単に、気持ちよく引き裂かれていた。私たちは笑いころげながら、バリバリと部屋にあった数十冊の雑誌を次々と引き裂いた。
酒がなくなるとコンビニまで買いに行き、部屋に戻ると何がおもしろいのかまた雑誌を引き裂いた。
気がつくと、和尚の個室は破り捨てられたマンガで足の踏み場もなく、坂口安吾さかぐちあんごの仕事部屋みたいになっていた。
和尚は床でマンガに埋もれていびきをかいている。
私も廊下をふらつきながら自分の部屋までたどり着くと、ベッドに倒れ込むようにして寝てしまった。
翌朝、激しい二日酔いのまま様子を見に行くと、部屋いっぱいに散乱したマンガの中に人が倒れている。
和尚は昨晩と同じ姿で寝息を立てていた。
受験勉強のストレスが溜まっていたとしか思えない狂乱の一夜であった。(注8)
その甲斐あってか翌春、和尚は関東の国立大学文系に、私は都内の私立大学文系に、二人とも無事に進学できた。

大学時代は和尚と会う機会はおのずと減った。
夏季休暇や正月に地元へ帰ると、だいたいの友人たちの顔を見ることができたが和尚は例外だった。実家を訪ねてもまず帰っていない。
大学生になろうが独立独歩は変わらない。
世の動き、人の動きに左右されない和尚であった。
そんな和尚が一度だけ、杉並区の私のアパートを訪ねてきたことがある。これからタカラヅカを見に行くから付き合えというのだ。
は? タカラヅカ? 和尚が? 何で? と思ったが、この頃、和尚は演劇やダンス、バレエ、文楽など舞台芸術に興味を持ち、宝塚歌劇団にも目が向いたようだった。
私たちは日比谷の東京宝塚劇場へ向かったのだが、客席は見渡す限り女性、女性、女性……その中にポツンと男二人組である。女の園へ迷い込んだ緊張感と予備知識ゼロでの観劇で、演目も何組の公演だったかも定かではない。
初めて見た宝塚のステージは、ただただキラキラしていた記憶しか残っていない。(注9)

あっという間に大学卒業。
私は就職活動もせず、当時はやりのフリーターになった。
モラトリアム人間にとっては好都合な時代の波が来たものだった。やがてバブルは崩壊し、波が垂直落下して乗っていた者たちを叩き潰すのだが、それはまだあとの話だった。
うわついた世間の空気など読まない和尚は、堅実な道を選んだ。公務員試験を受けて北海道へUターンしたのだ。
その後の時代の変化を考えても、公務員はベストの選択だったと思う。
ただその生活が和尚という人に合っていたかどうかはわからない。

和尚と再会したのは、社会人になって数年たってからだと思う。
古い仲間たちが集まる機会があった。そこにめずらしく和尚が現れた。
「誰?」
和尚と会うのは中学校以来の友人が言った。悪い冗談だが、言いたいことはわかる。
和尚は、太っていた。
もともとが痩せすぎだったのだが、浪人から大学を経てやっと標準体重に近づいたかな、からの大増量である。
お腹がぽこんと出ているのではなく、体全体が風船のように、和尚という入れ物の容量ぎりぎりまでふくらんでいた。
優しい仲間は、「太った」とは言わずに「大きくなった」と言った。
さすがの和尚も自覚はあるらしく、指摘されて苦笑いしていた。

当時、官公庁の不正経理、官官接待、裏金作りが社会問題となっていた。
「良くないことだ」渋い顔で和尚は言った。「だが、やむを得ない場合もある……」
現役公務員の苦しい告白だった。
巨大な組織の中では独立独歩というわけにもいかないのだろう。
それよりも彼の健康のほうが気になった。不摂生が招いた肥満なのかもしれないが、私は和尚が過剰なストレスから自分を守るためにまとった脂肪のバリアのように感じた。
仲間たちの心配する声に、和尚は職場のサークル活動で楽しくやっているから大丈夫だと笑っていた。
宴会がお開きとなり、また会おうと仲間たちと別れた和尚だったが、まだ飲み足りないと私の実家までついてきて二人で飲んだ。
もうかなり出来上がっていたので、何を話したのかはおぼろげだ。
確か、フランス革命は是か? 非か? というようなどうでもいい論戦をしていた気がする。
和尚と二人になるとだいたいこういう展開になるのだった。そして、だいたい私が負ける。
和尚は、あれは立派な市民革命だったという説。
私は、あんなもの、ギロチン祭りじゃないか説。
激論の末、この回は私が勝ったと思う。和尚は眠気に耐えられずに折れたのだろうが、私はあの予備校の一夜に戻ったようで、楽しかった。
和尚は朝方、タクシーで帰っていった。
和尚と会ったのは、それが最後だ。

いつも風のように現れ、去っていく和尚だったから、しばらく会わなくてもまったく気にならなかった。
和尚の死を知ったのは、葬儀が終わってから実に五年以上たってからのこと。
病による急死だったようで、地元もバタバタしていたのだろう。私にも当然連絡は行っているものと思い、誰も知らせてくれないまま時間が過ぎてしまったようだ。
あるとき、地元に帰って友人たちと飲んでいると、そういえば和尚が亡くなって何年だろう? という話になり、耳を疑った。
人の動向に無頓着な私も私だが、和尚も和尚だ。勝手に死ぬなよ、と叫びたかった。
だからなのか、私はまだ和尚の死を信じられずにいる。
今、和尚がふと目の前に現れても、いつもの和尚としか思わないだろう。

和尚はきっとどこかで生きている。
ライトノベル風に言うと――
異世界に転生して魔王と戦う勇者になる力を持ちつつも、独立独歩の和尚は和尚のままだった、という人生を送っている気がしてならない。(注10)




●注1 和尚が好きだったマンガ、魔夜峰央まやみねお『パタリロ!』風に言うなら「付和雷同のページは破り取られていた」となる。
●注2 総立ちは総立ちなのだが、観客が興奮して立ったのではなく、そのシンガーソングライターが総立ちコンサートというものをやってみたかったらしく「じゃあ、立ってください」とステージから会場に呼びかけて和尚以外は立ったのだった。ちなみに1985年、谷山浩子たにやまひろこの札幌での公演である。
●注3 同じ予備校の寮では、のちに講談師となる人物も浪人生活を送っていた。私は高校在学中、彼とは一度も話したことがなかったが、寮で仲良くなった。おそらく彼も文化に飢えていたのだろう。彼は大都会札幌で、私と和尚以上に舞い上がり、勉強していなかった。彼の個室には額縁に入ったアーティスティックなポスターが飾られ、ヘアースタイルは当時大人気だった藤井フミヤのチェッカーズカット、ファッションもパルコのバーゲンで買ったようなオシャレな服を着ていた。予備校デビューである。受験と関係あるのかないのか、彼の本棚に一冊の文庫本があったのが忘れられない。志賀直哉しがなおや暗夜行路あんやこうろ』。未読だったらしく彼は「そろそろ読まないとな」と言っていたが、彼の暗夜行路はすでに始まっていたのだ。その後、彼はすべての受験に失敗、長い放浪の旅の末、講談と出会い、人生の闇を切り開くのだった。彼、K田S陽は、スピードスケートで金メダリスト2名を育てたYコーチとともに同級生のヒーローである。
●注4 ネット配信はおろか、衛星放送もレンタルビデオさえない時代だった。地元に一館だけ残っていた二本立ての映画館も高校在学中に閉館していたと思う。だから映画と言えば、テレビで見るものしかない。午後のロードショーで『恐怖の蝋人形』を何回見ただろう。『ジャガーノート』と『黄金のランデブー』も見過ぎてどっちがどっちだかわからない。どっちも豪華客船が舞台で俳優も同じだしどっちでもいいのだろう。年末の年越しロードショーはだいたい藤田敏八ふじたとしや監督の青春映画。ほかに何かないのかよと言いたくなる。深夜にごくたまにヌーヴェルヴァーグなんか流してくれるとうれしかったなあ。『冒険者たち』とか。『ガラスの墓標』は、確かビートたけしも好きだと言っていた。とにかく映画と言えば、テレビの放送時間に合わせてぶつぶつにカットされたB級アクション、B級サスペンス、B級ドラキュラ、B級ゾンビ、B級巨大生物しか見たことがない少年がB級人間に成長するのは理の当然。映画だけではない。文化全般に飢えた青春だったよ。ああ。
●注5 筒井康隆つついやすたかは高校時代に読んで大ファンだったので、そうした手法に驚いたわけではなかった。純文学で、これやっていいんだ、という驚き。
●注6 当時、私たちの高校の卒業生の進路はおおよそ半数が進学、半数が就職だったが地元ではそこそこの学校として知られていた。私は入試の成績が全体で25番と好位置からスタートしたものの、下がりに下がり続けて卒業時は180番台。下から数えて何人目で、担任教師から進学は諦めろと言われていた。浪人するまで一度も勉強らしい勉強はしていないのだから仕方がない。入試で私のすぐ下、26番だった人は今でも友人だが、彼は努力に努力を重ねエリート街道を歩んでいる。
●注7 当時、浪人生が酒を飲んだり煙草を吸うのは社会的に許されていた。東大志望、医学部志望以外の浪人が贅沢で無意味で罪悪となった現代とは経済力も価値観も倫理観も異なる時代のことである。とはいえ、高校の部活の先輩Sが予備校のロビーで日本酒(たぶんノンアルコール)をラッパ飲みしていたのには驚愕した。高校でも先輩、予備校でも先輩。先輩Sは二浪中だった。博識で破天荒な先輩Sには高校在学中から多大な影響を受けていたので、いずれ書くかもしれない。
●注8 私は浪人時代、ストレス発散と体力維持のため、個室でバットの素振りをしていた。あるとき、予備校の寮の隣の空地で和尚と二人で野球をした。和尚が投げる球はナックルボールのような妙な変化球で打ちにくかったが、たまたま振り抜くと、風にも乗ってボールはびっくりするくらい飛んでいった。空地の高い金網をはるかに越えて道路を走行中の車にぶつかりそうになった。映画『就職戦線異状なし』で的場浩司まとばこうじ織田裕二おだゆうじから打ったホームランみたいだった。リトルリーグの二軍時代から今日まで、私の最高の一打はこの和尚から打ったものである。
●注9 実は和尚は女性の友人と観劇する予定だったのだが、先方の都合が悪くなり私にチケットが回ってきたというのが真相だった。
●注10 和尚がもし生きていたら、自分と同じように歳を取っていたら、こんな感じだろうかと想像して小説を書いたことがある。和尚にはミステリー小説の登場人物、独立独歩の釣具屋のオヤジを演じてもらった。傑作だと思うのだが、三回書き直してコンテストに応募したが三回とも箸にも棒にもかからなかった。我が国のミステリーの水準の高さを思い知ったのだが、和尚についてはよく書けていたんじゃないかなと思う。
私よりも和尚との付き合いが長く、和尚の命日には一人カラオケで和尚が好きだった中島みゆきを歌う友人に読んでもらいたかった。和尚ってこんな感じだったよな、と感想を聞きたかったのだが、その彼も世を去ってしまった。


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