栗脇永翔

詩と哲学のあいだ

栗脇永翔

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最近の記事

逸身喜一郎『ラテン文学を読む』より

「ルクレーティウスの『事物の本性について』は、本書「はじめに」でも少し言及したが、万物の生成やエピクーロスの原子論を詩であらわしている。こうしたいわば「学問詩」とでもいうべき流れがギリシャ以来続いているのである。「はじめに」で分類の恣意性をたとえて岩波文庫を引いたが、今後、かりに翻訳されたならどれも岩波文庫の青帯に入りそうな作品の系譜である。従来、これらは「教訓詩」と呼ばれてきたが(これは英語のdidactic poetryの翻訳語である)、取り扱われている題材は人生の教訓に

    • 友野典男『行動経済学』より

      「行動経済学にとって心理学、特に認知心理学からの影響は計り知れないが、現実の人間行動を対象とせず経済人だけを扱っている標準的経済学は、当然ながら心理学的分析とは縁が遠かった。  しかし、そのような傾向は標準的経済学が確立された比較的最近のことであり、経済学はもともと心理学とはなじみ深いものであった。経済学が確立した18世紀には心理学はまだ科学としては独立したものではなく、当時の経済学者は心理学者を兼業していたとみなすことができる。  アダム・スミスは『国富論』(1776)の中

      • 山鳥重/辻幸夫『心とことばの脳科学』より

        「山鳥:そこで、この反省意識ですが、これは心という現象すべてを貫く構成原理のようなものだと考えられます。もっともあいまいな程度からもっとも鮮明な程度までさまざまなかたちで心という現象を可能にする働きです。もっとも低い段階では「あ、痛い」といった、有害刺激によって引き起こされる痛みへの気づきのようなものがあります。もっとも高い段階ではデカルトの「すべてを疑っている自分というものだけが確実に存在する」という気づきまで、連続してさまざまな意識段階が存在します。このうち、低い段階のも

        • ホラーティウス『詩論』より

          「詩人が狙うのは、役に立つか、よろこばせるか、あるいは人生のたのしみにもなれば益にもなるものを語るか、のいずれかである。  どのような忠告をあたえるのであれ、簡潔でなければならない。すみやかに語られる言葉は、心がすなおに受けいれ忠実に守るだろう。余分なものはなんであれ、いっぱいになった心のなかに入らず、そこから流れ出す。」 アリストテレース『詩学』・ホラーティウス『詩論』松本仁助/岡道男訳、岩波文庫、1997年、249ページ。

        逸身喜一郎『ラテン文学を読む』より

          From POETRY by Bernard O'Donoghue

          "Shelley's Romantic claim for the transcendent authority of poetry can be widely paralleled in other eras ever since the classical past. The most authoritative classical predecessor in raising the question is the Latin poet Horace who said

          From POETRY by Bernard O'Donoghue

          『認知心理学』より

          「認知行動療法(cognitive behavioral therapy; CBT)とは、クライアントの抱える心理社会的な問題や精神医学的な問題に、おもに認知と行動の両面からアプローチする体系的な心理療法である。認知行動療法の最大の目的は、クライアントの自助(セルフヘルプ)を手助けすることである。よく使われるたとえは「認知行動療法は、飢えた旅人に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」というものである。つまりセラピストがクライアントの問題を解決するのではなく、クライアントが

          『認知心理学』より

          日本行動療法

          いつかこのタイトルを使おうと思っていたんですが、ついに使ってしまいました。柄谷行人さんの『日本精神分析』を表層的には踏まえているんですけどね。さて、どんな文章になるか? ふと思い出したんですが、中高生の頃、最初に興味をもった学問って心理学だったと思うんですね。ただ、もちろん、学問的でもなんでもなくて。漫画とかで出てくる「催眠術」とかが面白くて、『図解 心理学』みたいな本を最寄り駅の本屋で買ったことを唐突に思い出しました。 で、おそらくそのときに、フロイトの「精神分析」とい

          日本行動療法

          出口顕『声と文字の人類学』より

          「古代ギリシアのポリスにはムネーモネス(mnemones:記憶する人、備忘係)という役職があった。前五世紀のクレタ島の都市国家ゴルテュンでは、ムネーモネスは法の審議過程に深く関わり、過去の案件の証人として裁判員の傍らに控えていた。彼の役割は法廷の議事進行や訴訟手続きを記憶しておくことであり、それらについては書かれた記憶は残っていなかったのだ。  これに関連する職にいたのがクレタ島のスペンシソース(Spensithos)という名前の書記であり、前500年頃にその職は名誉ある職と

          出口顕『声と文字の人類学』より

          ヘンリー・ステーテン『ウィトゲンシュタインとデリダ』より

          「ところで、自由なイデア性としての意味という見方の妥当性は、一定の限界内では否定すべくもないし、デリダもそれを否定したことは一度としてない。彼は、その最も初期の著作から、或るテクストが著者以外の人の意識によって「蘇生」させられる可能性の「根拠」として、「意味の同一性」の必要性を常に認めてきた。しかし、デリダにとって、記号の実質に対するそのイデア的同一性の支配は制限されたものであり、それ自身、この同一性が本質的に多様なトークンのうちで展開されねばならないという必然性によって構成

          ヘンリー・ステーテン『ウィトゲンシュタインとデリダ』より

          語学の後に何が来るのか?

          少し間が開いてしまいました。というより、半分、3月で区切りをつけてもいいかなとも思っていたんですけどね。まあ、いきなりログが絶えるのもあれなので、少し報告しておきます。 4月から、さる英語の会社に就職しまして、楽しくやっております。最初なので覚えなければいけないことも沢山あり、大変は大変なんですけどね。色々な意味で知らない世界ですので、刺激的です。 この歳になって就職となると、実質的には私よりも若い方々が管理職で活躍されていたりもし、私なんかが入ってくると研修なども面倒く

          語学の後に何が来るのか?

          今井むつみ/野島久雄『人が学ぶということ』より

          「それでは人間はどうしてくずし字やくせ字が理解できるのか? それは人間の場合には単に文字のパターンを「再認」しているのではなく、背景知識を使ってトップダウンにここはこういう文脈だからこういうことばがこなくてはならないはずだ、だからここの文字はこの文字でなければならないはずだ、というような推論を行っているからなのである。現在の文字認識システムは人間よりもずっと高速の処理ができるが、人間のようにトップダウンに「ここに来る文字は文脈から考えてこの文字でなければならないはずだ」という

          今井むつみ/野島久雄『人が学ぶということ』より

          熊野純彦『ヘーゲル』より

          「たとえば、海は海である。また、空気は空気であり、月は月である。そうかたりだすときひとが主張しているのは、ひとつひとつの主語の同一性ではない。言明されているのは、それぞれの主語が他の対象とはことなっていること、同一性のうちにやどる差異の次元にほかならない(『エンチクロペディー』第117節補遺)。他のものからのことなりが、それぞれがおなじものであることの条件となる。差異こそが、同一性のなりたちを裏うちしている(『大論理学』)。「対立するものの一方は必然的に統一それ自身である」。

          熊野純彦『ヘーゲル』より

          必要に会いに行く/無為のドイツ語

          ということで、今年は職場の移動があるので、数日休みが出来ました。この一年半くらい、ほとんど連休というのがなかったんですよね。手持ち無沙汰になる感じもするんですが、こういうときだからこそ考えることもある。 夏から秋にかけて両親が二人入院することがあって、もうどうしようもないので放っておいた部分もあったんですが(苦笑)、久しぶりに会いに行ったりもしています。会いに行くだけで喜んでくれるのは親くらいですからね、多少こういう時間が持てたのはよかったかな、と思います。 英語で、me

          必要に会いに行く/無為のドイツ語

          麻生健『ドイツ言語哲学の諸相』より

          「例えば、子供が言語を習得する場合、子供は単に語彙を増やしたり、記憶したり、さらにそれらを再び機械的に反復できるようになるだけでなく、もちろんそういうこともあるが、基本的なことは、これらを通じて子供の中に〈言語能力〉が成長することである。この点は、先に触れたチョムスキーの場合とも異なるし、ましてアメリカ構造主義の場合のような、試行錯誤による〈言語能力〉の形成とも異なっている。しかもフンボルトは、もちろんこの能力を生得的なものとは考えないし、ましてそれは、言語を人間形成とは別個

          麻生健『ドイツ言語哲学の諸相』より

          ハイデガー「形而上学としての存在の歴史 草案」より

          「本質から言って、現在化(repraesentatio)は反省(reflexio)に基礎づけられている。それゆえ対象性そのものの本質は、「私は何かを思惟する」としての思惟、すなわち反省としての思惟の本質が認識され、明確にそれとして遂行されるときに、はじめて開示される。」 マルティン・ハイデガー『ニーチェ Ⅲ』薗田宗人訳、白水社、1977年、239ページ。

          ハイデガー「形而上学としての存在の歴史 草案」より

          飯田隆『言語哲学大全』より

          「デカルトを始めとする近代の哲学者たちにとって、概念の明瞭化に至る道は、個々人の心の内省によって見いだされるとされる、観念(idée, idea, Vorstellung)の明晰化・判明化にあった。「明晰かつ判明な観念」の獲得は、デカルトからカントに至るまでの哲学者たちにとって、概念を解明するためのもっとも重要な手段であり続けた。たしかに、観念を他人に伝達するためには、言語を用いざるをえない。だが、言語は、観念を表現するための手段に過ぎない。言語を不注意に用いることは、せっか

          飯田隆『言語哲学大全』より