『日本現代美術私観』展をみて

休暇最後の日、現代美術をみてきました。今回は、高橋龍太郎さんという精神科医のコレクションを集めた『日本現代美術私観』展(@東京都現代美術館)へ。

学生時代に比べると、美術を見に行くことも少なくなったのですが、今年は少し時間ができ、2ヶ月に1度くらいは見に行くようになりました。まあ、昔ほど、パッションはないのですが…。

なので、みるべきものを網羅的にみにいくというような感じでは全くなく、そのときの自分のテーマみたいなのを追って、気が向いたものに足を運ぶ感じでしょうか。

で、今年は、東京都写真美術館の『記憶:リメンブランス』展、練馬美術館の『三島喜美代:未来への記憶』展と(少し前に探求していた)〈記憶〉というテーマに沿って、緩やかにつながりを作っていたのですが、ある意味では今回の『日本現代美術私観』も、このラインに位置付けることができるかな、と。

精神科医・高橋龍太郎さんのコレクションを公開したものだったのですが、日本の現代美術をかなり網羅的に集めたものだったんですね。もちろん、「私観」ですから、コレクター自身の〈視点〉や〈選択〉も大前提としてあるのでしょうが、単なる私的コレクションを超えて、現代日本に暮らす者ならばみておいて損はない作家が集められていたように思います(それこそ、草間彌生さんや奈良美智さんから、今日の作家まで)。

前半は、(私自身ちょっと苦手な)「幼女趣味」みたいなものが続いて若干食傷気味だったのですが(会田誠さん、とか)、後半はもう少し幾何学的というか、あまり人間的でない作品へとコレクションの傾向が移っており、最後の方のセクションは結構楽しめましたね(展覧会脇で上映されていたコレクターのインタビューでは、おおよそ東日本大地震の前後で、コレクトする作品の性質が少し変わった、とのことで、わたしとしては腑に落ちましたが…)。

その後半、ちょうど新しいセクションがはじまるところで、久しぶりに岡崎乾二郎さんの鮮やかなドローイングが目に入り、少し目が覚めたというか、ちょっと嬉しかったですね。(ショップでも、岡崎さんが病後、リハビリで書いていた絵の画集というのを今日の一冊にしました。恢復としてのアート…!)

ちなみに、本展覧会も〈記憶〉というラインに位置付けられると先ほど書いたのは、特に前半、「トラウマ」を描くような作品が多くみられたことからなんですね。〈記憶装置としての写真〉、〈記憶装置としての陶器〉、とみてきて、やはり、人間固有のそれとして、〈記憶装置としてのこころ〉という次元も無視できない。まさに、フロイトやデリダのテーマでもあります。コレクターが精神科医でもあり、こうした観点からの作品が目についたんですね。

まあ、みていて少ししんどくなるようなものもあったのですが、芸術理論のタームに「昇華」(sublimation)というものがあるように、こころのなかのモヤモヤというか、暗闇を、芸術作品という形にして外化するという回路は、人間の創造行為の重要な一面だと、やはり、思うわけです。

今回の展覧会では、それが割とはっきりと示された上で、しかし、後半はこうした人間的次元とは別の方向に作品群が向かっていくことが、個人的にもすごくしっくりきたのでした。

『記憶:リメンブランス』に続き村山悟郎さんがみれたのも嬉しかったですし、最近『DRAWING 点・線・面からチューブへ』(左右社)というご著書を読んでいた鈴木ヒラクさんの作品をみることができたのも個人的には収穫でした。同時代の作家はもうちょっと、追っていきたいですね。

まあ、しかし、トラウマ的記憶というのはどうしたものですかね…。こころに刻まれた、回帰してくる傷、のようなものなのでしょうが。真正面から取り組むだけではない、アプローチもありそうですよね…。

詩という観点からは、今回、吉本隆明を模写する吉増剛造さんの声の再生などもありましたが、特に詩には、また全然別のアプローチを可能にする潜在的回路があるような気もーーなんて生意気に考えたりもしました。

Have a nice (re)creation!
栗脇

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