東大英語の詩学

10月になりましたね。少しは秋めいてきましたでしょうか?

わたしはですね、少し油断してしまい、数日間テレワークを余儀なくされたのですが、体調は回復してきています。全快したらですね、ぜひ、メキシコのコロナビールで(苦笑)、快気祝いしようと思います。フォローしてくださった関係各位には感謝申し上げます。

さて、そうこうするうちに、フランス方面からは刊行情報がでてきて、昨年度のフィリップ・ベックさんのコロックの論集が刷り上がったとのこと。

ちっちゃすぎてよくわからないと思うんですが(笑)、(上記イメージ左側の)裏表紙にしっかりHisato Kuriwakiと名前が刻まれています。こういうとき、日本人研究者というのは大体、スペルを間違えられるというのが相場ではあるんですが(苦笑)、今回はきちんと残ってありがたいですね。

「フィリップ・ベックの詩学」と副題がついていますけど、わたし自身の論考は「詩的教育のために」という、ベックさんの詩・詩学における「教育」ないしは「教訓」というものを再考するというものでした。まあ、消化不良な感じも多いんですけどね…。一旦区切りはついたかな、というそういう感じです。

ちなみに、ベックさんの代表作のひとつに『オペラディック』という詩集があるんですね。先日の拙作「ムーンライト・オペラディック」というのは、実は、これへの返歌でもあったんです。

ということで、強引に東大英語に繋ぎますけど(笑)。いま、わたし自身が海外の詩人の仕事を追ったり、自分でも詩作をしてみたりしているのって、やっぱり大学に行ったからというのが大きいんですよね。高校生の頃から文学青年で密かに詩を書き溜めていた、とかでは全くないです、わたしの場合は(笑)。

わたしの場合はたまたまフランス語でしたけど、結局、学びたての外国語で読めるのって、最初は短い「詩」くらいなんです。授業でも、初級・中級の購読では詩が使われることも多い。そんな中で、ランボーとか、ボードレールとか、マラルメとか、いわゆるフランスの近代詩を知るようになり、発見していくわけですね。自分の場合は、特に、これらの詩人の影響を受けながらまさにご自身でも詩を書いている松浦寿輝先生なんかがフランス語を教えていたので、なんというか、「ひとはときに詩を書くこともある」という現実は大学で覚えたことなんですね(笑)。

まあ、「別世界だな…」と思われる方も多いでしょうし、いまではわたし自身ちょっとそう思いますが、しかし、仮に東大とか受けようみたいなひとがいらっしゃったら、やはり無縁ではいられませんよ、詩も!(笑)

東大英語、今年誰が作っているのかまでは知りませんが、おそらく、教養学部の英語部会というのがなんらかのしかたで関わっているのは疑いないでしょう(https://webpark1183.sakura.ne.jp/organization.html)。

スタッフをみると、(わたし自身TAを務めていたこともある)シェイクスピアの大家・河合祥一郎先生を始め、イギリスのロマン主義の大石和欣先生、T. S. エリオットの三原芳秋先生、とごく普通に詩や文学を世界的水準で研究している方々が名を連ねている。まあ、高校生向けの試験ですからね、内容面で文学性を問うことは難しいし、なんとなく、言語学系の先生の方が入試においては力を持ってそうな気もしますけど(笑)、何らかのしかたで文学ネタ、詩ネタを隠し入れてくる可能性はなくはないんですね。

例えば、2007年の第1問をみてみましょう。

伝家の宝刀、要約問題ですね。3段落くらいの短い英文を日本語で「要約」するという問題なんですが、実は、主題が「詩の意味」(meaning of a poem)なんですね。

「わたしたちは、通常、詩の意味を作者によって作り出され、固定されたものと考えているーー」みたいな冒頭で始まります。「通常」(usually)と書いてありますので、当然ここですでに、「これは「枕」で、主張はひっくり返されるな」と読めてないといけない。で、実際、「しかしーー」(However)とつながり、「詩の意味を作るのは読者の側なのだ」という方向に議論が進んでいきます。ここまでが一段落。

英検2級ならばここで終わりなんでしょうが、東大英語はもう少し先にいきます。2段落目、ここもさらに「しかしーー」とhoweverが導入され、「意味の源泉を読者の側に置きすぎるのも問題含みだ」とさらに予防線がひかれます。problematic「問題含み」なんていうのは、キーワードですよね。わたし自身、受験生のときに覚えた気がします。

で最後、最終段落に結論が委ねられますが、「では、意味を決める力を本当に有するのは誰なのか?」という問いかけで始まりーーここでのauthority「力」なんていうのも、単語帳で「当局」と覚えているだけではダメなんですね。ひとつひとつ丁寧に、語のコアイメージをつかまないといけないーー、「詩の意味や価値がどちらか一方だけの統制化に置かれると考えるとしたら、それは間違っているだろう」というような一文で締められることになります。

なので、何度もひっくり返されるんですよね(butやhoweverがきたら集中力を上げる!)。①詩の意味は、通常、作者によって決められると考えられている→②しかし、詩の意味を決めるのは読者である→③しかし、詩の意味決めるのは読者だけであると考えるのも問題だ→④詩の意味について、作者か読者、どちらか一方が決定する力を有していると考えるのは間違っている。

まあ、議論が行ったり来たりするので、この「しかしーー」をあまり大袈裟でなく処理するコツとかが日本語の要約では結構大事だったりもするんですけどね…。東大入試は、全科目、筆記が多いので、一種の「あざとさ」も必要になったりします。

まあ、なので、一回分みただけじゃ何も言えませんが、東大英語の長文が見据える射程というのは、本質的にはかなり広いものと思いますね。大学卒業して、いまだからわかりますが、今回の文章なんて、いわゆる20世紀の文学理論の歴史みたいなものをさりげなく踏まえた文章なんです(例えば、「受容理論」とか、そういうものです)。

もちろん、英語の試験ですから、英語力を養えばクリアできるようにはできています。でも、これは如何ともし難く、作成者の教養がハンパないのは事実なんです(苦笑)。まあ、ちょっと、普通じゃないひとたちが作っている試験と思った方がいいと思います。宇宙人が作ってるくらいに思った方が…(笑)。

まあ、なので、東大に行くべきひとっていうのは、一応は、こうした余白の部分にも興味をもてるひとだと思いますね。仮に詩など読んだことがなくても、世界にはこうした営みがあり、それを人生かけて研究しているひとたちもいる、いま俺は、そういうひとたちが作った試験を解いているんだ…みたいなね(笑)。

いや、だから、普通に考えてとてもスリリングですよ。東大受験って。まあ、難しいですけど、それを楽しめるくらいの知的余裕が出てくると、光が射してくるかなーーなんてね。

Have a nice reading!
栗脇

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