月とプロテイン
9月も折り返しましたね。何というか、季節の変わり目で、わたしも本調子ではないですが。
受験生のみなさんも、勉強という意味では、全然ここからが本番と思いますが、だんだん陽も短くなり、心理的な負担は徐々に増してくるんですよね。わたしも18年前、浪人の年、意味もなく、夕方、予備校の周りをフラフラ散歩していました。
考えてみれば、確かに、月の光に癒されていた気もしますね。成績は上がらないし、身分のない状況で翌年の自分がどうなっているのかも定かでない。そんななかで、ある意味、自分が何者であるか、部分的には決定されてしまうような大きな挑戦をしなければならない。
ま、10代のうちからそういう機会が設けられることで、人間多少は成長するのかもしれませんが。
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あれから月日がたち、30代も後半に入っていますが、何か変わったんですかね、わたし自身は(苦笑)。ちょっと呆然としてしまう様な部分もありますが。
さて、今日は休みの日で、三島由紀夫の『太陽と鉄』を読み返していました。かなり意識的に、「月とプロテイン」というブログを書こうとは思っていたので、それが、この三島の晩年のエッセイを踏まえてのものだったんですね。太陽を月に反転させるのはさておき、「鉄」は半分冗談で「鉄分」と読み替え、「プロテイン」に置き換えてみてるわけです(笑)。
三島の『太陽と鉄』は、ある種、作家による〈身体論〉で、三島の場合は特に、言葉で生きてきた人間が、いかに肉体を再発見するか、みたいなテーマを論じるエッセイなんですね。ご存知の通り、三島は晩年にボディビルとかして肉体改造をし、で、鍛え上げた肉体に刃を向け、割腹自殺というしかたでこの世を去ってしまう。
三島のこのエッセイって、やっぱりすごく難しくて、改めて読み返してみて、全く共感できないというか、大学生の頃に読んだ時よりもさらによくわからなかったんですが(特に、最後の〈イカロス〉はちょっと…)、まあ、いずれにせよ、太陽の陽を浴びる肉体、みたいなものに焦点が当てられていくんですね。
この「太陽」というのも、〈夜〉というか、暗闇を知り尽くした三島だからこそ発見できたものということの様なんですが、う〜ん、やはりなかなかよくわからない。時代の問題もあり、セクシュアリティの問題もあり、いろいろとは思いますが。
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ただ、まあ、別にそこまで三島にこだわりがあるわけではないですし、むしろこのわからなさというか、決定的なズレみたいなことから出発してみると、少なくとも、わたし自身にとっての肉体は別に太陽の下にあるものでは全くないな、みたいな話になるわけです。
実はこの夏、知人の紹介もあり、さるジムでちょっと運動を始め、普通にどハマりしてしまったんですが(苦笑)、まあ、いわゆる「暗闇」と呼ばれる場所でのトレーニングなんですね。なんか、いきなり、詩も哲学も関係もなく、都会のサラリーマン生活を謳歌するみたいな感じで恐縮ですけど(笑)。
明らかに運動不足ではあったので、始めてよかったなと思うのはもちろんなんですが、それと同時に、あるいはそれ以上に、わたしなどでも「くびれ」が戻ってくるとちょっと嬉しい(笑)。同世代の女性・男性の気持ちが少しわかった気もいたします。
少なくとも、わたし自身の「くびれ」って、ごく一部の他者を除けば、自分しか見ないものなんですね。夜、鏡の前でちょっと嬉しい、みたいな(笑)。陽の光の下で割腹される三島のお腹とは全く違う位相にある「肉体」なわけです。でも、僕らにとって重要なのは結局、そういうからだなんじゃないかな、と。
誰にみせるわけでもないけれど、確かに自分のためにあって、努力すれば変えることができる数少ないもので、ほんの少し、自分自身の生に勇気を与えてくれるものーーわたしのからだ。
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そういう意味では、もうひとりの作家、村上春樹さんの身体論を思い出す部分もあって、『走ることについて語るときに僕の語ること』というマラソンに関するエッセイが独特なしかたで身体論を展開しているんですが、まあ、病弱な感じの三島に対し、春樹さんというのは「健康」というのを前面に出す小説家だと思うんですね。先行世代へのアンチテーゼ、ということもあるんでしょうが。割腹自殺に向かう三島の身体に対する、普通に生きるために健康を追求する春樹の身体、みたいな構図ですね。
それでちょっと思い出すのが、2つの「月」が浮かぶ世界を描いた『1Q84』の青豆さん。マーシャルアーツのコーチにして、暗殺者という裏の顔を持つ独特のヒロインなんですが、その青豆さんが、ある箇所で、潜伏中のマンションで、ひとり、トレーニングをするという場面があるんですね。個人的には、結構あそこが好きで。あの身体って、もちろん、暗殺者としての「自己研鑽」という意味合いもあるんでしょうが、むしろ僕らが「暗闇」で追求する身体と近いような、そんな感じもしてくるんですね。
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まあ、例によって取り留めもないものになってしまいましたが、ちょうどひと月くらい前に「ムーンライト・オペラディック」という詩篇を書いて、どうかな、と思ったんですけどね。結果的には、自分にとっては重い作品になったかな。すごい大袈裟に言えば、ちょっと自分にとって詩を書くことの意味合いが変わった気もするし、次のフェーズに向かっていくような予感もしてきています。
あれを書いて数日後に、みずがめ座の方向にスーパームーンが浮かんだのも、何かの予兆でしたでしょうか?
Have a nice moonlight!
栗脇
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