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体調不良は、潜在意識の表れ|カラダはなんでも知っている。

気がついたら最後に書いたnoteから1ヶ月。もうそんなに経ってたのかと驚いているのか、これでもまだ1ヶ月なのかと驚いているのか自分でもわからないけれど、この1ヶ月はなんだか自然とnoteから離れてしまっていた。

最初の半月は、noteの投稿とは別に、なんだかやりたいことが溢れに溢れてきた時期だった。そのためにの色んなインプットに意識が偏ったり、実際の行動に時間をかけていたことで、物理的にそして必然的に、noteを通して自分を振り返る時間が減っていたみたい。そしてそんな時期を過ごしながらもそろそろ今の自分を言葉にしていくことも再開したいなあと思い始めた矢先の5月の半ば、思いっきり体調を崩した。

ここ10年くらい風邪なんかひいたことない私たち夫婦が、2人揃って多分39度くらいの熱を出し(多分、というのも熱を測る必要がない我が家には体温計なんぞ置いてないので、料理用の温度計で測るという正確ではない測り方をしていたのである)頭痛やら吐き気やら喉の痛みやらで、文字通り死亡していた。しかも夫婦揃って体調を崩すということを今までしたことがなかったので、こんなにも不便で辛いものなのかと、この世の終わりを感じさせるくらいの絶望的な空気を、我が家ではムンムンと漂わせていたに違いない。

そんな1ヶ月を終えて(正確には、ほぼ終えて)、またこうして自分を振り返りたいという欲がやっとこさ出てきたのである。こんなにも長いこと寝込んでいると体力がなんともまあびっくりするほど落ちるもので、一食食べるだけで食べ終わる頃には息切れするくらいヘロヘロな状態ではあるけれど、心は早くいつもの生活に戻りたいのかなんなのか、ヘロヘロな体とは裏腹にやる気に満ち溢れていて自分自身が1番混乱している。

カラダを壊すことで気付かされることは、知ってはいたけれど改めてたくさんあるようだ。というのも、私個人的には everything happens for a reason(起こることには全て理由がある)だと思ってるので、カラダを壊すということは特に、どんな小さな変化だとしても本人にとって気づいていないけど気づいた方がいい何かメッセージが絶対あるように思えてならないのだ。

(スピリチュアル的なメッセージはこれも参考にしてみたり↓)

特にカラダを壊すことというのは、カラダを壊したことによって「何が出来なくなっているか」をしっかり見つめることが大事だという。動けなくなるところまで行くと相当だが、怪我をするとか、声が出ないとか、視界がぼやけるとか、なんだ気持ち悪いとか、そんな小さな反応でも、体はちゃんとメッセージを送ってくれている。頭ではその出来なくなっている何かを「した方がいい」「しないといけない」と思っていても、潜在意識的に「したくない」と思っていたらそれをしなくていい方向に物事は進んでしまうように感じる。いや、むしろ進んでくれているようにさえ思える。できなくなってしまったその瞬間は落ち込んだり焦ったり、罪悪感を感じたりするけれど、それ自体本当はしたくないことなので、結果できなくなってよかったなという流れが絶対起きてくるのだ。

公に書くのは念の為控えておくけれど、もちろん私が今回カラダを壊した理由もなんとなく想像はついてしまっている。しかも夫婦揃ってっていうのも意味がありそうだ。そして、やっぱりできなくなって結果「よかった」のである。もちろんできなくなって「困り」はしたが、そうなったからこそ生まれてくる新しいインスピレーションだったりアイデアが、結局うまーく人生を運んでいってくれるのを体感している。

体調不良には、感謝である。その最中はそれはもう言葉にできないくらい辛いのだけれど、でも乗り越えてしまった今思えるのは、体はやっぱりなんでも知っているんだなということ。体は結局、1番心と真っ直ぐに繋がっていて、内側をそのまんま映し出す鏡であるということ。自分の心に嘘をついていたり無理していたりすると、そのまんまが症状として現れる。壊れてしまった体を責めるのではなく、「何か」を一生懸命訴えてくれている体の声にしっかり耳を傾けて、教えてくれている体に感謝してあげる。もしかしたら治療するより何より、その声を聞いてあげるだけで、早くカラダは楽になってくれるのかもしれないね。

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