暮らしは営み、そして伝統。
以前夫婦で半年間ほど、我が家の愛する軽自動車で日本一周の旅をしていた。とは言っても、私たちは旅がしたかったのではなく、「日本の伝統を撮る旅」という名目で日本中の伝統工芸をメインに撮影して歩くために、旅という手段を選んだ。(元々夫が写真家なのもあり、夫婦で撮影業を生業としていたので「撮る」という行為が我々にはぴったりだった)
私たち夫婦は以前から伝統的なものに心惹かれやすい。コロナ禍になったこともあり、たまたま見かけたネットのニュースで、「このままでは日本の伝統文化はほとんど続かなくなってしまう」という話を目にし、「伝統を残すには今しかない!」と、沖縄を飛び出て、北は青森から南は鹿児島まで軽自動車で縦断した。伝統といってもこのご時世、ほとんどのイベントは中止。青森ではねぶた祭りもやっていない。伝統舞踊やイベントのための伝統品に、触れることは残念ながらできなかった。
そんなこともあり、私たちは「工芸品」に的をしぼり探した。全国には本当にさまざまな工芸品がある。そしてこの工芸品たちを通して、旅を通して私たちが気付かされたのは、全ては人々の暮らし、つまりは日常の営みに還るということだった。
工芸品の先には人々の暮らしがあった
ネットや資料を使って私たちは訪れる県ごとの工芸品を当たっていく私たち。伝統工芸品として正式に登録されているものから、その土地の人から聞いた話をもとに訪れた場所で偶然出会える、伝統として登録されているわけではないけれどその地域では誰の生活にも根付くものがあったり。
全ての場所でカメラを回せたわけではないから全部を記録に残せてはいないけれど、工芸館などに置いてあるものから、一般の民家に置いてある地域特有のものまで、本当にたくさんのものに触れていく中で、その工芸品が姿形を変えながらもこうして人の生活に馴染んでいるのを見れば見るほど、なんだか伝統品というものが本当に愛おしくなっていったのである。
ほとんどの工芸品は、その地域、土地の人々の「暮らし」の中から生まれているということが肌感覚でわかるほど伝わってきた。人々は、その土地に当たり前のようにある原料をもとに、廃棄物をほとんど出すことなく、日々の生活で必要な道具を作ってきた。そしてそれがその土地の伝統として語り継がれていることが、そのモノを伝統たらしめていたのである。
その土地で栽培される藍をもとに藍染がはじまり、その土地で取れるウルシから漆塗りが広がり、近くの川辺から見つかる土を使って鋳物が作られ、その土地で栽培される葛を使って織られる葛布が残る。そしてそれらは何よりも、その土地で暮らすその土地の人々の生活にいちばん馴染んでいた。商業用に作られたのではない、本当にリアルな生活に根付くものたち。生まれては消え、また何代も後に再生され、その時代に合わせてまた姿形を変えながらも、しっかり残ってきたものたち。
工芸品に触れるということは、その土地の人々の暮らしに触れることそのもの。わたしたちはその暮らしに触れながらも、大切なことに気付かされた。
「私たちが撮りたかった、残したかったものは工芸品そのものではない。
その工芸品のある『暮らし』であり『営み』だ」
伝統は残すものじゃなく、変化するもの
実は私たち、この「伝統を撮る旅」の目的を途中で変更している。当初は、私たちが伝統を撮ることで(そして微力ながらインターネットを使って発信することで)伝統が続く何か力になれたら嬉しい、または後継者を繋ぐような動きができたらいいなあなんてやわなことを思っていた。
旅にいく前に、「これから伝統がなくなるかもしれない、後継者がいなくて危機だ!」なんていうメディアの記事を読んだもんだから、私たちも急いでこの問題解決の力にならなきゃと、急いで旅に出たような気さえする。
そんな私たちの危機感満載の焦りや「伝統は残すもんだ」「たくさん売って広げるべきだ」という一般的には当たり前かのように思える考えは、出会う人出会う人にあれやこれやと打ち消された。
出会う人たちから私たちが受け取ったのは、こういう言葉たちがほとんどだった。コロナだから伝統がなくなるわけじゃない。(もちろん全てがそうじゃないとは言えないけれど)伝統というのはその土地の自然から恵みを頂いて作っているものだから、自然となくなるものはなくなるし、続くものは続く。人間様がどうにかできることじゃないんだよ、と。
「伝統を残すために何かしなきゃ!」なんていう私たちのおこがましい考えは、こうしてなくなっていった。私たちは何かを「伝えるため」に撮るんじゃない「ただ残すため」だけに撮るのみなんだと。
わたしにできることなんて何もない。ただ自分自身を暮らすだけ。
この旅を通して、自分の暮らしというものを改めて振り返ることが増えたのも、わたしにとってはとても大きい。本屋に行けば、暮らしのエッセイや雑誌の並ぶコーナーに真っ直ぐ行くほど「暮らし」というものにはもともと目がなかったけれども、こうしてたくさんのさらにリアルな暮らしに触れることで、暮らしというものが、日常の営みのことであり、伝統と呼ばれるものと同意義なのだと知り、さらに興味深いものへとなっていった。
伝統のためにわたしができることなんて、本当に何もない。むしろ何もしてはいけない。そう思った。しっかりと自然の流れを感じて、伝統を知ること、触れること。そして、自分自身の生活に取り入れられるものは取り入れてみる。ただ本当にそれだけ。少しばかりだけれどこの旅から連れて帰ってこれたモノたちは、とてもわたしの暮らしを豊かにしてくれている。
ひとつひとつにその土地の人の暮らしが詰まっていて、その暮らしの空気感を自分の暮らしの中にも感じられることが嬉しい。そして何より、わたしはわたしをしっかり暮らすこと。当たり前に頂いている恵みを大切に、その瞬間を味わうこと。
その今の暮らしの当たり前が、いつか伝統と呼ばれるものになるかもしれない。いつかの大きな歴史として刻まれているかもしれない。今目の前にあるものがどんなものであれ、今ある暮らしをただ感じ切ることが、きっと何よりもわたしをわたしたらしめてくれるのだと思う。
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伝統を撮る旅については、夫婦でstand.fmでも話してます。
よかったら聴いてみてくださいね。
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