日記 2022/09/18-24

09/18(日)

台風が夏を持ち去ってくれたら、また鳥見の季節がやってくる。双眼鏡をカバンに入れて、ほとんど一日中食べものを探している鳥たちの、木の実や虫を食す姿、尾羽を振ったり、うんちをする瞬間、さえずりに備えよう。
きっとまた彼らはしかし僕にカメラを構える隙を与えないだろう。それでもいい。僕は素人のまま、写真に残すよりもまずその時間のなかにいたいのだから。

09/19(月)

毎日決まった量ではあるものの酒を呑んでいることに変わりはないので十分依存しているのだとは思うが、人間関係というどうしても自分ではコントロールできない、してはいけないものがあると、晴れやかな気持ちを目指して(全然方向が違うのだけれど)、つい手を伸ばしてしまう。
すべては何かを心配して気が重いのが原因だろう、こんなふうに休み返上で誰かの心配を打ち消してやるために資料を準備しているくらいだから。

09/20(火)

帰宅途中、左の視界がボヤけて波打つ。水の中にいるみたいだ。昔、視界のぜんぶが波打ったのを思い出した。眼科を受診して異常がなかったとき、ついに頭の中で血が流れるべきところではないところへ流れ込むときがやって来たのかと思ったが、CTとMRIを撮ってもやはり何の異常もなかった。あのときよりはマシだ。でもなにかが足りないことによる症状だとは思う。たぶんまた調べてもわからないのだろう。
いつも何かが足りないような気がして、ああこれだったのかと思い当たってもぜんぶ外す。

09/21(水)

組織活動が停滞するとき、ふとこの問題に対して解を持っているひとがいないことに気づく、すると次は協議のうえ、合意のもと、なんとか連携してとにかく回答を出そう、対応を決めようとする周囲に気づく、今度は対応した後、なぜこんなにも多くのリソースを要したのか疑問に思い、最後にあることに気づく。
なぜあのひとはあの時あの段になってあの立場にいるのに自分の責任において決断してくれなかったのだろう、そのせいで作業者はその渦中も、この後も振り回され続けるのだ、そうか、マネジメントとはただ決断してあげることだったのかと。

09/22(木)

明日というかすでに今日だが、雨が降っているようで、部屋には音楽が流れているので実際に目の前のカーテンを開けてみた訳ではないし雨音も聞こえないけど、お天気アプリが言うにはきっと降っているはずで、それもこの雨は今日一日降り続くようだから、自然と起きるまで寝て、除湿剤の水になったやつを替えて、いまこの瞬間の時間の流れ方みたいに自分の意識が先行しないような、空間のなかに浮いているような感覚で休もうと思う。
もし疲れが残っていないようなら、洗濯機を回して、たくさん本を読みたい。

09/23(金)

評価することにも評価されることにも疲れてしまった僕たちは、規則や管理や線形の世界がもたらす時短、効率、合理性、生産性に向けて類型化された思考様式からまず脱却しなければならない。
そのために植物や化石や海洋生物などの書物をあたることはひとつの小さなパラダイムシフトを誘起させるかもしれない。例えば植物に接ぎ木をすると、活着する。ヒトは生まれた時点で器官が揃っているが、植物は生長とともに器官を増やしていく。この価値観の違いに僕たちは感動し、癒されるのではないか。

09/24(土)

実はみんな何かを信じている。デフォルトか、与えられたものか、それとも選び抜いたものか。濃淡はあれど社会も組織も何かを信じている。目で見たもの、耳で聞いたものについて、どう考えるか、なにを信じるかは、自分にしか決めることはできない。自分の経験から身を守るために選び採用した考えによってひとは自己を確立させていく。そのプロセスには誰も介入できない。
これは自分を守るために許された人間だけの営み。

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