日記 2022/11/06-11/12

11/06(日)

できることをやるのは簡単だ。
やりたいことをやるのは少し難しい。
してあげられることをしてあげるのは本当は一番簡単なはずなのに僕には一番難しい。
してあげられることをいつもしていて、ときにはやりたいことをやり、できることはいつでもできるから後回し。
いつかそんなふうに働くことができたらいいのにと思う。

11/07(月)

嘘みたいな時間に会議が終わった。ほんと嘘みたいだ。明日は何時に出社できるだろう。
限られたリソースでできる限りの計画を立て、右と左に並走する案件を順繰りに扱う僕たちは、新たにやらなければならないことを受け入れる上司の首肯を横目に、なぜその引き換えとして別件の優先度を下げる交渉をこの場でしてくれないのかと訝る。
下の人間に仕事を振り、オーバーフローしつつあってもフォローできない。
ではいったいなにをマネジメントしようというのか。

11/08(火)

皆既月食は僕の生活になんの影響も及ぼさない。街なかのひとびとはビルの隙間に浮かび上がる地球の影に向かってスマホをかざし、連れとともにこの瞬間を共有することでこの記憶を深めようとでもいうのか。
月が食われる経過の絶妙さが僕たちに時間の慈愛と残酷さを窺わせる。つと、この明るい街から、仕事で疲れきった僕の眼にはまるで月がこのまま消え去るのではと思うくらいに薄く闇に溶けようとしているように見えていたのだが、じっとそのまましばらく見続けていたら、不思議と赤い月として甦ってきた。

11/09(水)

文章を書くこと、書いて推敲することとは、自分のまわりくどさとの闘いではないか。
そして書くことよりもずっと大事なはずのことに目を瞑り、例えば野菜の作り方ひとつ、料理の仕方さえ覚えることなく、本当に僕が考えてきたように考えを書くこと、書き留めることは優先すべきことなのだろうか。
それはまるで花鳥風月を忘れた会社人間から抜け出そうともがく、普段の僕とたいして違わないのではないか。

11/10(木)

現れては消える、分解、代謝、それらが生命的であることの証明なら、いつまでもなんだかんだと残して置きたがる僕たちの周縁、つまり形あるものたちはやはりいつまでもその存在することによる効果を発揮し続けるということだろう。僕の身体は一個の細胞のときにおそらくなにかの配列が違ったのかもしれないが、どちらにせよこうして形あるように見せている裡では60兆個の細胞が現れては消えて、平衡しているらしい。消えなければ生命ではないのだ。

11/11(金)

この土日は何をしよう。
ずっとしたかったことをしよう。
部屋の掃除。洗濯。これは毎週の話。
でもこの土日は埃も払おう。
燃えないごみを捨てられるようにまとめよう。
そして何より、月曜日からずっと望んでいたことをしよう。
誰とも話さず、一人で過ごそう。
適度に本を読もう。
散歩しよう。
お茶を飲もう。
できるだけ長く眠ろう。
そして少しでも元気を取り戻せたなら、カメラを持って生き物を探したい。

11/12(土)

そんなことで死ぬな。
大人になってみれば全然大した問題じゃない。
外から大人は簡単に言うけれど、死なない程度にしか悩まずに大人になれたひとの言葉を、彼(彼女)らは聞き入れるだろうか。
大人になればもっと大変なことはたくさんある?
だったら、やはり今のうちに死んだほうがいいのではないか。
いま死のうとしている若者に対して、彼(彼女)らの頃から数十年経った今でも同じように希んでいる僕は一緒に悩むこともできない。
ただ一人で生きていくしかないのだと、本音で語ることしかできない。

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