アロマちゃん🌹

アロマテラピー教室La Rose Rose主宰 AEAJ認定アロマテラピーインストラク…

アロマちゃん🌹

アロマテラピー教室La Rose Rose主宰 AEAJ認定アロマテラピーインストラクターの奥山ひとみです♪ あだ名はアロマちゃん 若手二ツ目落語家さんを応援する新小岩落語会の広報を担当。 時々レストランで接客のアルバイトもしております🥰

最近の記事

上京

父と離れて暮らして3年が過ぎた頃 兄は結婚をして家を出た その後、私は母と2人暮らしをしていた 何とか平穏に過ごしていたのだけれど、とうとう父に住んでいる場所がバレる日が来た 母と離婚をしてから1度も顔を合わせる事もなかったのに どうやら私の乗っている車を尾行していたらしい アパートから外に出たとき、なんと道端に父親が立っていた 私は驚いてアパートの部屋に戻って扉を閉め鍵をかけた 何度かチャイムを鳴らされたけど、絶対に開ける訳にはいかない ストーカーに家を突

    • 石材屋

      母の実家は小平霊園の石材屋 石材屋の仕事はお墓の工事から埋葬、管理、手入れ、埋葬や法事の際の飲食の会場の提供、お花やお線香の販売など 曾祖父からの家業なので祖父で2代目の会社だった 祖父母が結婚したときに小平駅北口の小平霊園通りに自宅兼店舗を構えた 私の生まれた家でもあるので、初めて嗅いだ香りは日本香堂の毎日香の香りだったりする!笑 幼い頃からお参りに来たお客様にお茶を出したり、お花やお線香を売ったりよく店の手伝いをしていた 繁盛期はお盆お彼岸、お正月が最も忙しく

      • 女の子と学歴

        どうせお嫁にいくんだから女の子に学歴はいらない 母は祖母から教えられ、私も母からそう言われ育ってきた とても古い教育方針 男女平等が当たり前の現代ならまったくの時代錯誤 とんでもなく男女差別甚だしい考え方だ 祖父母はどちらも実家が石材屋を営んでいた 学歴がなくとも家業を継げば良いから必要ないと考えていて、子どもには学校の勉強なんてできなくてもいいとよく言っていた 祖母は高校中退で19歳で祖父の元に嫁いだから、学歴コンプレックスもあったのかもしれないなぁと思ったこ

        • 第二の人生

          両親の離婚のあとは母と兄と仙台の宮城野区に引っ越した 3DKの小さなアパート それでもちゃんと帰れて夜も眠れる家があるのは嬉しかった 喧嘩する両親を目にすることもなく、父に怒りを覚えることもない 相変わらず母の仕事は東京だったので、さらに不在がちに 兄もほとんど家にはいなかったため、私はぽつんと1人家に残されてしまったので東京の祖母の石材屋でバイトする事が多くなった 20歳にして第二の人生を歩みだしたけど、将来の夢や希望はまだ見つからない

          解放

          私が20歳になる歳に両親の離婚が決まった 生まれたときから家族として機能していなかった家庭 これからは父から暴言を浴びせられることも暴力を受けることもなくなると考えるととても嬉しかった ひとつだけ残念に思っていることは自分の成人式に振り袖を着ることもなく、写真も撮らなかったこと 両親の離婚のことで年明けからゴタゴタしていたので、家庭内には私の成人をお祝いしようという空気が一切なく誰も関心がなかったと思う 振り袖は母方の祖母が買ってくれたものがあったけど、袖を通すこと

          高校卒業?

          学校に行ったり行かなかったり 気がついたらほぼ不登校のまま高校3年の3学期になっていた 同級生は進学とか就職とか車の免許を取りに行ったりとかバタバタと忙しそうにしていたと思う 担任の先生にもあなたは本当に卒業したいと思ってるの?なんて詰め寄られたりしていて 担任は家庭科の先生で、私が家庭科の授業や国語の授業の成績だけやたら良いことを知っていた 好きな科目はそんなに勉強しなくてもできるけど、嫌いな科目についてはまったく興味を示さずやらないそんな生徒だった 1番の問題

          兄妹

          知らなかった人はびっくりすると思うけど、私には1歳違いの兄がいる 生まれてから3歳くらいまでは頻繁に引っ越しを繰り返していたのと、近所に同じ歳の子供もいなくて遊び相手は兄だった おままごととお人形遊びが好きだった私 それに兄がつき合ってくれる訳ではなく、遊ぶときは兄に合わせて戦隊モノのごっこ遊びをしていたと思う 今更ながら意外と人に気を使う子供だったんだと気がつく!笑 今年45歳になる兄とは、お互いの住所や電話番号を知ることもなくもう10年以上疎遠になっている 兄

          術後

          先週の火曜日の母の手術からもうすぐ1週間 筋力が弱らないように手術翌日にはもう歩く練習をしているそう 退院できる日もきっと早いと思う もう何度目なのか忘れてしまったくらい回数を重ねた母の入院&手術 もう慣れっこになってしまっているせいか、病院から術後や入院中の説明とかもあまり無く時間が過ぎていく 近隣の上福岡や朝霞は今週末お祭りがあったけど、さすがに母の入院中にお祭りを楽しむことは不謹慎なので、なるべく誰かに会うことなく静かに過ごしています 同世代の人は大体結婚を

          恋のはなし

          うちの高校は女子高だったので、誰かの紹介ではないかぎり男子と遊ぶことはなかった あれは高2の春🌸 偶然クラスメイトの子の知り合いということで、うちの高校からも近い彼の家に遊びに行ったときに初めて出逢った 180cmの長身で明るくよく喋る人で、いろいろな話しているうちに2人とも同じ誕生日だということが発覚して意気投合! 付き合うまでにほとんど時間はかからなかったと思う 私は相変わらず学校は行ったり行かなかったりだったけど 学校に行った日は放課後、彼が自転車で迎えにき

          不良ばっかり

          進学についていろいろとモメた結果、担任の先生の勧めで仙台市内の私立高校に進学する事になった 宮城県の中でもいろいろな意味で問題児ばかりが集まるということで有名な女子高 クラスメイトにはレディースの総長という子もいて、全校集会や学校行事なんてときには先生達が異常にピリピリしていた レディースの総長に私がいじめられていたかというとそうではなくて、普通に仲良くしていました 一緒に悪いことはしてないけど、お互い家庭が複雑ということもありなんとなく居心地が良くて気が合ったのかも

          将来のために

          中3になっても相変わらず不登校の私 行きたい高校なんてないし、2学期になっても志望校も決まらず 将来のために高校だけは出ておいたほうがいい なんて周りの大人に散々いわれていたけど、生まれたときから家庭崩壊している環境に育った私にとって将来なんてないものだとずっと思っていた たま~に学校にも行っていたけど行けば行ったで私の想いとは裏腹に、高校受験のためにとクラスメイトはがむしゃらに勉強をしていて、かなりの温度差を感じた 本当に行く高校学校で将来は決まるの??? 何で

          受験に響く???

          私が学生時代を送ったのは1990年代 まだこの頃は両親が揃っていないと家庭に問題があるとみなされて受験に響くといわれていた 母は昭和初期の古い考えを持った両親に育てられていたため、妻は黙って夫に従うものだと育てられていた 働かないし妻子に暴力も振るう父と子供のためと我慢して離婚をすることはなかった 家族で食卓を囲もうと思っても口論になって最後まで食事をすることができない家庭 母は実家の仕事で家にいないし、父は昼まで寝て家事はせずパチンコへ行って深夜に帰ってくる日々

          受験に響く???

          落語との出逢い

          私と落語との出逢いは2022年1月 フジテレビ系列ハライチの澤部さん司会のなりゆき街道旅にイケメン落語家として人気の瀧川鯉斗師匠が、浅草の旅でゲスト出演されていたことがきっかけです 前から落語を聴いてみたいとは思っていたのですが、どこでどうやって聴いたらいいのかよくわからなかった 番組終了後に鯉斗師匠について検索したら何と翌月2月に渋谷で独演会があるということを知りました! これはどうしても行きたいと思い早速チケットを予約しました 元暴走族総長ということをクローズア

          手術

          母の瘢痕腹壁ヘルニアの手術が無事成功しました! 前回は結構時間がかかった印象があったのですが今回は医学が進歩しているのか??? 思ったよりも早く4時間かからないくらいで終了しました 3箇所腹壁を剥がして補強するための人工物のメッシュを入れたそうです この手術はもうすでに3回目なので術後の先生の説明もシンプルでした 術後いろいろな検査や処置があるため面会には時間がかかりそうだったので、看護師さんに持ってきた母の荷物をお願いしてこの日は家に帰りました 翌日の午後に面会に

          救いの手

          中学生になってからは母はほとんど東京の実家にいて不在の時間は以前よりも増えた 相変わらず両親の不仲は続いている 私は小学校6年生から剣道を習っていたので中学の部活は迷わず剣道部に入った 運動神経が悪くて剣道も下手だったけど3年生の女子の優しい先輩達といる時間は楽しかったし、家庭のことも忘れられた 家にいない時間が増えることは私にとって救いだった 大きな事件が起こったのは中2のとき いつものように父と母が喧嘩をしてバッグと靴を玄関から放り出されて母が追い出された

          留守番

          小学校に入ってからは父方の祖母の送金では足りず、母は少しの間近所のスーパーの今で言うフードコートのようなところで働いていました パートを辞めたその後は、お盆お彼岸の繁盛期と週末中心に自分の実家の小平霊園の石材屋を仙台から東京と往復しながら手伝っていました 母と東京の祖母の関係も昔から良いとは言えなかったけど、この話はまた今度できればします 自宅には働かない父と兄と私だけ 相変わらず父のパチンコグセは直らず帰りは決まって深夜だった 深夜に帰ってきて飯食うか?と買ってき