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「好きかどうかわからない」で付き合った恋人たちの末路【後編】

月曜の23時30分、スマホが振動する。
等間隔の振動音が連続して、電話だと気づく。
納豆をかき混ぜる手を止める。
彼の名前が表示されている。
フリーハンドで電話に出る。

かけてきたくせにろくな話もしないで口どもる彼。
「なに」と尋ねても無言のまま。

重々しい空気をはらんだ彼の声に、勘のいい私は言われるより先になにが起こるか気づいてしまった。

ぼそぼそと話し始めた彼は「別れた方がいいと思ってる」と言った。

理由を尋ねると、彼はあらかじめ用意していたかのような言葉を並べた。

好きになりきれなかった。好きかどうかわからないのに付き合っていていいのだろうか。寂しさを埋めるために付き合っているような感覚に罪悪感がある。今後忙しくなっていくのを想像した時、時間を割いて会いたいと思わなかった。

ぽつりぽつりと放たれた別れの言葉は、私が予想していたよりもはるかに簡素で、疑問を抱く隙もないほど明快な単語で構成されていた。

どこまでも誠実な男だなと思った。
彼は嘘がつけない。それは他人に対してだけでなく自分に対しても同様で、自分の感情に素直でいることしかできない人だった。
不器用なやつ。そんなところが好きだったのだけど。

一通り話し終えた彼に、「わかった」と告げた。

食い下がる手段を知らなかった。
恋愛は、どちらか一方の感情がなくなった時点でその関係性は破綻するものだと思っていたから、受け入れることの他に方法を知らなかった。

別れ話は会話じゃない。一方的な宣言だ。宣言された側は拒否権を持たず、ただ受け入れることを強いられる。だから、「わかった」以外に言葉を持ち合わせていなかった。

その時、私はどう思ったかというと「そっかー」という感想を抱いていた。それは感情と呼べるのかわからないけれど、納得というべきか、来る時が来たと知ったような感覚。「私の未来はそっちの選択に進んだのか」と傍観するような気持ちだった。
そこに良いも悪いもなくて、感情にプラスもマイナスもなかった。落とした卵が割れた時の方が驚くんじゃないか思うくらい、感情が揺らがなかった。そんな自分を客観的に見て、「私、こんなにあっさりしてるんだ」と自ら驚いた。

私は別れたいとは思わなかったけれど、別れたくないとも思わなかったのだった。

電話を切った後もいつも通りに眠り、翌日はなんの変わりもなく仕事をしていた。
ただひとつ違ったのは、毎日きていた彼からのラインが今日はこないということだけ。


彼の幸福に彼女としての"私"は存在しなかった

別れてからはじめのうちは喪失感があったが、それもやがて消えていった。
3週間も経つと、あれはなんだったんだろうと思うことが多くなった。

あの日々はなんだったのかと考えると、幸福だったことは間違いない。
肩にもたれかかって眠るのも、ハグした時に感じる体温も、肌質も、匂いも、声音も、そのすべてが愛おしく、幸福だった。
幸福だった日々を思い出すと、ああ、もうあの幸せは感じられないのかと落ち込む。寂しくなる。ため息とともに心が溶けてなくなるような感覚がする。

すると次第に彼の言葉を思い出す。
「この時間が愛おしい」とか「自分の想いが強くなりすぎるんじゃないか」とか「一緒にいてくれてありがとう」とか。
あれは、全部嘘だったのかと疑う。誠実を信条にしている人間だから信頼できると判断したのに、嘘だったのなら私の信じたものはなんだったんだろうと思って、落ち込む。自分の審美眼には自信があったから、信じたものが信じられないことは自尊心を失うことに近かった。
疑心暗鬼になって、彼の未熟な部分を思い出したり、価値観の合わなかったことを振り返ったりしながら、最後には「クソ野郎だったじゃん」という結論に至り、「じゃあ別れてよかったじゃん」となる。横暴だ。そんな風に自分を納得させたくなんてないのに。


はじめから好きではなかったんだから、好きではないけど一緒にいるという状態が続いていただけだった。それに「付き合う」という名称を与えることに、彼は違和感があったのだろう。

彼を取り巻く環境はめまぐるしく変化していて、「私=たいして好きでもない人」に割く時間がもったいない、それよりもっと自分の人生に大切なことがある、と気づいたのだと思う。
その判断は彼の人生にとって正しく、彼は幸福な選択をしたのだった。

人は自分にとっての幸福を望んで生きている。彼の幸福に、私が侵入する余地はなかった。

彼の目の前を往来する女のうちのひとり。それが一瞬交わって、解けてまた離れていっただけのこと。


ひとりでは感じ得ない幸福が存在することを知る

考えてみれば、25年間ひとりの生活の方が長かったわけで、このあいだまでの生活に戻るだけの話。この2か月の方が異常だったと思えば、たいして問題はない。2か月くらい海外に行ったようなワクワク感で過ごしたのだと思えば、楽しかったな、で終わる感情。

そういえば、私が人を好きになることをやめたのは、他人に感情が左右されるのが面倒くさいと思ったからだった。それは自分を守るためでもあって、他人にいちいち振り回されていたら身がもたないと思ったから。

でも、彼と付き合って思ったのは、他人に感情を左右されるのも悪くないなということ。

確かに面倒くさいんだけど、他人から与えられる喜びってある。相手を大切に思うこと、愛おしいという感情は、ひとりで生きていては感じ得なかったことだと思う。

人は人と関わって生きている。人から受けたことに一喜一憂して、反対に自分が与えたことが誰かを一喜一憂させて、それを見てこちらが嬉しくなったり悲しくなったりする。感情は相互作用。自己完結するものではない。

彼と出会って、ひとりでは感じられない幸福が存在することを知った。
人に支えられ、あるいは支えて、共に人生が豊かになるように生きていくことが、どれほど安心をもたらし、日々の美しさに気づかせてくれるのかということを知った。

人が別れを繰り返しながら、それでも付き合うことをやめない理由がわかった気がする。人と付き合うのは、そこに幸福が存在するからだ。


愛されなかったとしても、愛することに価値がある

しかし、この虚しさがぬぐい切れないのはなぜだろうと考えるにつけ、結局、私は愛されなかったのだという事実が残った。

もう、私は人から愛されることなどないと思った。そのことに少なからず傷ついて、悲しくなった。

私は愛した。でも、愛されなかった。
愛したからといって、必ずしも愛されるわけではない。
だから、愛さないのだろうか。否、それでも愛するんだ。

見返りを求めているわけではない。
ただ一方的に愛を注ぐ。その反応がなかったとしても、それは決して無駄ではない。私が愛しているということだけで、ほとんど完ぺきだった。

彼を愛していた。私には愛する人がいたんだ。それだけで人生が豊かだった。私の愛があふれているというだけで、生きていることに価値があった。

人を愛したい。愛する人と出会いたい。愛情をたくさん注いで、人生を豊かにするんだ。私は人を愛し、愛する人と生きることを選ぶ。

私が求めるのは、愛されることよりも愛することだった。
そしてどうせ愛するなら、安心して愛せる人がいい。せめて愛することを拒まないでいてくれる人がいい。私の愛を受け入れて。そんな人をこれから探そう。


彼には感謝しかない。
あんな幸福が存在するということを教えてくれた彼には感謝しかない。
別れることになったけれど、彼との時間には確かに幸福が存在していた。そう私が感じられただけで十分だった。

彼の貴重な人生の時間を、私の貴重な人生の時間と共有して、同じ空間でなにかが通じ合っていたと実感できたそのことが、はてしなく嬉しく、有難く、美しい。


2月の終わり。梅の花が蕾をつけ始めた頃、私たちは別れた。
「好きかどうかわからない」で始まったにしては、あまりにも多くのことを学んだ。

彼は付き合う時、私が初めて人と付き合うことを受けて「もう二度と誰とも付き合いたくないと思わないようにしてあげたい」と言ってくれた。

別れて今、私はまた人を愛したいと思えている。


あなたが気遣ってくれたように、また人と付き合いたいと思えているから大丈夫だよ。

ありがとう。

あなたの未来に幸あれ!


<次回はそんな元彼と8か月ぶりに再開した先日のできごとについて書きたいと思います>

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