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喪失をこれ以上知りたくない
ずっとペットロスを拗らせていた。今ではマシになったと言えるものの、乗り越えたと言えるようなものではない。死者の思い出を笑って話せる日が来るとはなかなか想像できない。
ずっとずっと悲嘆している。人格の形成過程で悲嘆を中核に取り込んでしまった。
八歳の時、三歳の頃から一緒に育った犬が目の前で野犬に噛まれ、手術も虚しく数日後に死んだ。次に来た犬は家の前に撒かれていた毒餌を食べて死んだ。生後一年にもなっていなかった。
種族は違えど兄弟のように育った。姉であり、妹であり、娘でもあった。信頼というものを犬から学んだ。寄り添う温もりを教わった。
動物たちと並んで僕にとって大切な存在は祖母だ。祖母は会う度に僕を抱き締めて大好きと言ってくれた。犬と猫と祖母がいたから僕は愛を知らずに育たずに済んだ。相手の好意を確信できる関係は幸福だった。祖母は長生きして八十代半ばで死んだ。
喪失は降り積もる。目を逸らしてもなくなりはしない。思い出すことが減っても決して消えたわけではない。分厚い喪失の層の天辺に新たな喪失が落ちてきて、衝撃で雪崩が起こり、僕は押し潰される。
長く生きるほど死者の列は長く伸び、堆積した悲嘆は重くなる。背負いきれなくなるのはいつだろう。
出会いは別れの始まり、愛は悲嘆の始まり。時は止まらない。幸せな時間は過去になる。
愛するものたちを失い尽くした後、自分だけ生き延びる意味は何だろう。
人生の目的が喜びを得ることならば、未来に希望はない。喜びは過去になってしまった。あの輝かしい日々に勝る喜びがこれから訪れるなどあり得るだろうか。愛しい死者たちの列に加わる日を待ち望む甘美な悲しみを払拭するほどの楽しみがあるだろうか。
僕が生き延びて喪失を経験するということは、愛するものたちが僕を失う痛みを味わわずに済んだということでもある。愛するものを悲しみから守った名誉の傷だ。
でもやっぱり僕は弱いから、遺される側ではなく遺して逝く側になる幸せを享受したいと願わずにいられない。自分よりも先まで生きるものを愛する幸せが羨ましい。
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