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救済が死にしかなくてもいい

 漫画でもアニメでもゲームでも、死によってしか救われないような不憫なキャラクターが好きだ。最終的に「殺してくれ……」とか言い出すような。どう足掻いても報われないタイプの。

 そんな自分の性質を恥じた。自分も含め現実の人間にはもっと救いがなければならない。救いのない人生を好む悪趣味、人の不幸を喜ぶ下劣。

 でも本当にそうだろうかと疑い始める。みんなが幸せであるほうが良い、努力は報われたほが良いけれども、それは即ち死にしか希望を見出せない人生の否定になるだろうか。

 お年寄りが集まるような場所では、早く死にたいという声が頻繁に聞こえてくる。身体は弱って衰えていく一方で、健康体に戻る見込みはない。顔見知りは一人また一人と鬼籍に入り、馴染みのない人ばかりのこの世よりもあの世の人々に親しみを感じる。自分の順番が回ってくることを待ち望むのは自然な感情だ。

 死期の迫った人は「お迎え」を経験することがあるという。機能低下した脳が見せる幻だとしても、死後の世界で親しい人と再び一緒にいられるようになる安堵感を得られるというのは、いつか必ず死ぬようにプログラムされている人間に備わる能力ではないだろうか。そうして死を望むようになるのは決して不幸なことではないと思う。

 不可避の死が間近に迫っていなくても、死を究極の救済と捉えても良いのではないか。どんな人にも絶対に死は訪れる。つまりいずれ絶対に救済される。どれだけ人に迷惑をかけようと、どれだけ間違いを犯そうと、100%の確率で救われる。揺るぎない希望を未来に見出すことができる。

 焦る必要はない。時が来さえすれば自ずと救いは訪れる。救われるために徳を積む必要さえない。生きている時間は完全な自由だ。かつて愛した者たちは、早く来いなんてきっと言わない。時間が存在しない場所で、気楽に気長に待っている。僕らが生きたいように生きるのを、声の届かない遠いところから見守っている。

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