疾風のミホ

1、不惑

世代考察も7回目。6年ごとですから、36歳まで書いてきました。前回の記事はこちらからどうぞ↓。

いよいよここから折り返し、という気分で書いております。もちろん108歳まで書くこともできなくはないかもしれませんが、予定では72歳までにしようと思っています。つまり36歳は半分。ここから一区切りの後半戦です。

キーワードは「不惑」。ふわくと読みます。…説明不要でしょうか? しかし、このキーワードこそが、四十歳前後つまりアラフォーを惑いに惑わせる魔力を持っているように、私には思えるのです。

まずはこちらを。そもそも不惑とは、儒学の偉い先生、孔子が言い出したこと。四十(しじゅう)になれば「まどわず」。自分の信じた道を突き進む、というイメージの言葉ですね。が、こんな説をご存知ですか↓?

…なんと、「不惑」ではなくて「不或」、ふわくじゃないんじゃないか?という説があるそうです。孔子の時代には、「惑う」という字がそもそも無かったんじゃないか、といいます。不或とは「くぎらず」の意味。四十歳にもなれば自信が出て、迷いがなくなるのかもしれない。でも、新しい領域にも挑戦すべきだ。そのような意味ではないのか?とのことです。

従来の「不惑」ですと「まどわず」。この説の「不或」ならば「くぎらず」。前者なら、自分の信じた道を突き進む。後者なら、新しい道にも挑戦する。え、どっちなんですか!?

私の考察の結果を言います。これ、「どっちもある」んじゃないか?

それを、今回の記事の軸にしていこうと思います。

2、四十にして惑わない人

まず従来の「まどわず」。惑わないほうから考えていきます。

四十肩という言葉をご存知ですか? 肩が痛い。そう言えば、俺ももう四十歳だし、歳のせいもあるのかな? というイメージです。でも、三十肩とは言いません。二十肩も十肩もない。対して、五十肩という言葉は、幅広く使われています。四十歳は身体の曲がり角とも言えるのです↓。

三十歳代なら、まだ無理は効いたかもしれない。でも、四十歳になると身体のケアをしていかないと、その後の人生に響いてきます。「抜け毛」「肥満」「加齢臭」「肌荒れ」「夜中頻繁にトイレに起きる」「何となくだるい」…。この世代あたりから、徐々に身体が変わってくる方も多い。

つまり、身体能力が落ち、生物的にできることが減ってくるのです。前回の記事で取り上げた、精子や卵子の老化もその1つです。そんな中で、十代の時のように「あれもこれも」と選んで度が過ぎると、文字通り身体に危険が及びます。バイキング料理で言えば、焼肉食べて寿司食べて、カレーも行っちゃって締めはケーキ、というルートに躊躇するのです。となると、自分の選んだ選択肢を突き進むことになります。まさに決断です。

この「決断」という熟語は、言い得て妙ですね。「決めて断つ」。つまり、たくさんの選択肢の中から選んで、他の選択肢を斬り捨てているのです。

例えば「結婚」は、重婚が認められていません(アラブの石油王なら別かもしれませんが)。たくさんの候補から、1人を選ぶのです。「出産」は、新しい命とそれに伴う幸せを生み出す反面、多くの自由時間と可能性を狭めることにもなります。子どもを産むという選択肢は、子どもを産まない選択肢を捨てることです。「住宅ローン」を組んだら、焦げ付かせるわけにはいきませんね。常に支払いのための稼ぎが必要となります。そのために、捨てることが必要となる。子育てなら、子どもの学校を選ぶ。同時に2つの学校に通わせるのは難しいでしょう。「進学先」を1つに絞らなければならない。「断捨離」という言葉がブームになりましたが、パートナーと離れる決断である「離婚」も、そのうちの1つかもしれません。

何かを決めれば、何かを断つ。そして、自分が決めた選択肢を、より良いものにしていくために疾走する。これしかない。この意味において、四十歳はまさに惑わず、不惑なのです。

3、四十にして惑う人

一方で、惑うほうも考えていきましょう。「不或」の「くぎらず」です。変わっていく、新しいことに挑戦する、それで惑う、というのは本当か。

四十歳になったからと言って、何かがいきなり変わるわけではありませんよね。日常の連続です。例えばサラリーマンなら、通勤電車に乗って会社に着いて仕事をして帰る。例えば専業主婦なら、弁当と朝食を作って子どもと夫を送り出して、家事をしてワイドショーを見てヨガ体操をやって、子どもを迎えて夕食を作る。例えば独身のフリーランサーなら、メールをチェックして今日のやるべきことをやり、肩を回してほぐしながら、気分転換に散歩とコーヒータイム、納品を済まして確認の連絡をする。

…変わらぬ日常ではないですか? むしろ安定しているのでは?

ですが、その中にも、徐々に変化が出てきます。それも、理不尽なカテゴリーに属するものです。

まず、親の「介護」の問題が、この世代あたりからちらつくことが多い。四十歳ということは、もし25歳の時の子どもならば親は65歳。30歳なら70歳。35歳なら75歳。さすがに無理は効かなくなる。認知症の疑いも出てくる。突然、親が「入院」することもあるかもしれない。老人ホームを決めなければいけないかも。「葬式」ということも、ありうる。そうなると「相続」「空き家問題」にもなるかもしれない。心の準備をしておかないと、これまでに経験のない事態が迫っていることが多いです。

「エンディングノート」を自主的に書いてくれる「終活意識高い系親」なら良いのですが、そうでなければ「俺に死ねというのか!?」と逆鱗に触れるかもしれません。うまく書いてもらう方法は、こちらをご参考に↓。

次に「子育て」に関する理不尽なこと。小学校ならPTA。進学なら学校に関する諸々。部活に入ったらボランティア。これまでに経験の無かったことが押し寄せてきます。なんで有休をとってまで、ベルマークをわざわざ学校に集まって切らなければいけないの? なんで寄付金をこんなに取られるの? なんで野球部の親は土日も削って試合についていって応援とお茶出しと運転までしなきゃいけないの? いわゆる「同調圧力」「今までこれでやってきたんだからやってください」の世界は、まだまだ根強い。自分自身のことだけなら自分だけの選択ですが、子どもを「人質に取られている」状態だと、なかなか反対もできず、戸惑うことも多くなる。

仕事においても「惑うこと」が増えるかもしれません。それまでは1プレーヤーだった人も、島耕作のように「管理職」になることもある。となると、これまで「仕事をする人」だったのが、「仕事をさせる人」に変わる。しかも相手は自分とは世代が違う。自分で走るのではなく、手綱を持って「走らせる」ことが必要になるのです。「中間管理職」ともなれば、これまた世代の違う上の人たちのことも聞いてあげなければいけない。橋渡し。板挟み。プレイングマネージャーにも限界はあります↓。

この記事でも書きましたが、たとえ「一人親方」のフリーランサー、個人事業主であっても、徐々に仕事の流儀を変えていく必要があります。なぜなら、身体的に無理が効かなくなるから。となると、アシスタントを使うなり、外注するなり、分担するなり、何とかして負担を減らす方策を考えなければいけない。無理して身体を壊すと、心理的にも経済的にも危険です。

また、二十代三十代なら許されていたことも、四十歳になると許されないことも出てくる。「もう四十歳ならこれくらいはできるよね」の圧力です。それに備えるためには、組織で働くにしても、一人で働くにしても、アップデートを怠ることはできない。ですが、日常の連続の中でアップデートをするというのは、言うほど簡単ではない。それでもなくても、人はやりやすい方向に流れるもの。自分自身の「意識改革」が常に必要ではないか。

こう考えていくと、四十歳は不惑と言っても、むしろ「惑う」方が多いのではないかとも思えるのです。

4、まどいの本気

いかがでしたでしょうか? もし、ここまで考えて、孔子が四十歳を「不惑」あるいは「不或」と言ったのであれば、やはり先生はすごい!ですね。不惑のキーワードが、逆に人を惑わせている。

ドラゴンクエストで言えばマヌーサ(幻惑)の魔法ですね。ちなみに、マヌーサがかかっている状態でザラキ(即死)の魔法をかけると必ず効くそうです。ドラクエ2のラスボスにも効くそうです。惑っていてフラフラな四十歳の人に死のワードを浴びせると、「マヌーサザラキ」で死に至ることがありますので、どうぞお気を付けください…↓。

…それはさておき、漫画を2つご紹介します。

まずは「惑わない四十歳」から。青野春秋さんの『俺はまだ本気出していないだけ』です↓。

40歳で会社を辞めて、漫画家を目指す男の話です。タイトルからして「エモい」ですね。夢追い人のイタイ日常を描くギャグマンガと思いきや、最終巻で号泣するかもしれませんのでご注意を…。

一方、「惑う四十歳」の漫画はこちらです↓。

そのものズバリのタイトル、小坂俊史さんの『まどいのよそじ』です。オムニバスショート、つまり短編集の形をとっていますので読みやすいです。自分視点では必然のことも、客観的には笑いと切なさにあふれています。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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