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50を過ぎてからの転職

僕は大学の建築学科を卒業し、その後30年に渡って建築設計事務所で仕事をしてきました。その間でも数回転職をしていますが、54歳の時に設計事務所から建築コンサルタントの会社に転職しています。技術系の仕事で、なおかつ特殊なキャリアプランニングをしてきたので、あまり参考にはならないかもしれませんが、その経過を紹介してみます。


真建築設計事務所

大学を卒業して最初に就職したのは、大学で非常勤講師をしていた岩井要先生の主催する真建築設計事務所でした。岩井先生はお父さんと弟さんがプロテスタントの牧師をしており、当人は日本のキリスト教建築の権威として設計事務所の運営をしていました。ここは所長を含めて所員は全員で6名という小さな設計事務所でした。そこに僕は新人設計スタッフとして加わりました。

この設計事務所は規模が小さかったので、プロジェクトをまとめる段になるとスタッフ全員でブレーンストーミングをして設計図の改善を図っていきました。そういう場で、自分の描いた図面に対して先輩方のチェックがかかり、完成度を増していきます。こうして図面を全て手書きで作成し、それに対して多くの打ち合わせを重ねたことが、僕の設計業務にとって基本的なトレーニングになっていると思います。
例えば下の常盤台バプテスト教会堂の礼拝堂の展開図は、僕が書いています。全ての展開面の図面を起こし、その開口の納まり、プロポーション、スピーカーの取り付け詳細、照明計画等々全てにわたって図面化し確認をしていきました。

常盤台バプテスト教会

中国語の勉強を始める

そうして日本で設計事務所での仕事を始める中で、今後の自分のキャリアプランニングをどうしようと考えたときに、"建築技術+中国語"という考えが浮かんできました。当時はアジアの四小龍+大龍という言い方を巷でよく聞きました。これはアジアの4つの経済新興国(シンガポール/香港/韓国/台湾)と中国のことです。このうち韓国以外は全て華人の経済圏です。そして中国を最終的な市場として考えるならば、四小龍のうち中国語を学ぶ環境として台湾が最もふさわしいと考えました。

そして28歳の時に半年間の台湾への語学留学をしました。この時は岩井所長には半年の休職を願い出てそれを許してもらい、なおかつその間給料の半分を払ってもらいました。小さな事務所でこのようなお願いをするのは非常に無茶なことだったと、今では思いますが、岩井所長はそれを快諾してくれただけでなく、金銭的な援助もしてくれました。そのことに対して、今でも感謝の念に堪えません。

林鎮鯤建築師事務所

しかし、留学から帰ってくると、真建築設計事務所が業務を終了するというので、今の家内の提案で台湾の設計事務所で働くことにしました。台湾では4社の面接を受け、林鎮鯤建築師事務所で働くことにしました。

この設計事務所では当初は企画部というところで、資料を調べたり設計の相談に乗ったりしていましたが、後には設計部に移り直接設計図書を作成し、クライアントの打ち合わせにも出るようになりました。

林鎮鯤建築師事務所では主に大規模な集合住宅の設計を担当しました。台湾での集合住宅というのは、非常に戸数の多いもので、低層/高層に関わらず百戸を超える規模の計画を行うことになります。台湾の建築設計事務所の主要業務でもあります。この設計事務所では4年半勤めました。そしてその間に中国語で建築設計業務を行うことができるようになりました。

綠野山莊

丹下都市建築設計事務所

その後、家内と日本に引っ越すということに決めて、日本での就職先を探すことになりました。その時点で34歳、日本と台湾での設計事務所経験を有し、中国語でのコミュニケーション能力もあるということで、丹下都市建築設計事務所への就職が決まりました。

この事務所では、台湾と中国の設計業務を継続的に行っており、僕の様な人間の活躍する機会がいろいろありました。基本的に台湾の業務を行うチームに配属され、たくさんの台湾の案件に携わりました。台湾ドーム/台中市干城規劃案/太子建設辦公大樓、これらは計画案で終わったものです。しかし、それらの後に台北で実際に建てることになる案件が出てきました。統一國際大樓(オフィスビル)/宏盛帝寶(高層住宅)/新光信義傑仕堡(サービスアパートメント)の3つのプロジェクトです。

統一國際大樓

これは台湾の統一企業グループの本社ビルとして計画されたものです。国際コンペで最優秀となり、基本設計/実施設計/現場監理を担当しました。現在、建物の低層部には誠品書店の旗艦店が入居しています。

宏盛帝寶

これは、計画時には台北で最も高級な高層住宅案件として実現したものです。丹下事務所には特命で設計が依頼されています。このプロジェクトでは基本設計と、監理時の外観設計の確認をしています。

新光信義傑仕堡

この建物は台湾の新光企業グループの企画した、台北信義地区での最高級サービスアパートメントプロジェクトです。ここでは基本設計/実施設計/工事監理を担当しました。

丹下都市建築設計事務所では、これらのプロジェクトに主要な担当者として係ることができました。実現した3つのプロジェクトは、ほぼ同時に施工が進むことになり、僕は現場の様々な調整/確認をする技術者として台湾に派遣されました。毎日これらの工事に関する打ち合わせがひっきりなしに行われ、台北のリエゾンオフィスと3つの現場を走り回る日々が続きました。

これらの工事に関わることができたのも素晴らしい経験でしたが、もう一つ忘れられない出来事があります。現場監理業務の途中で東京本社の都合で日本に呼び戻されることになったのですが、その際、二社のクライアントから丹下事務所宛てに嘆願書が出されたのです。僕が中途半端な段階で台湾の現場を離れるのは工事に支障が出る。もう暫く台湾に残してほしいというお願いでした。そのような依頼があったので、僕はさらに半年期間を延長して台湾での業務を続けることになりました。
それまで、僕はただただ一生懸命に設計者としての業務をやっていただけで、それが他人の目にどう映っていたのかは知りませんでした。しかし、そのようなレターが出されたということから、自分のやっていたことは日本の設計事務所だけではなく、台湾の事業主サイドでも評価されていたのだという自信を持つことができました。

佐藤総合計画

しかし、丹下都市建築設計事務所では人員削減を行うということになり、僕は次の仕事にあたりました。この時は大学の先輩の勤めている佐藤総合計画の門をたたきました。ここの先輩が中国広州でのコンベンションセンター/天津オリンピックセンターなどの業務を担当していたことを知っていたので、僕の中国語の能力が役に立たないかと相談したのです。そして、この先輩の元で働くことになりました。当初アルバイトからスタートし、契約社員、最後は正社員となりました。
ここでは、この先輩の元、多くの中国のコンペ案件と実際に実現するプロジェクトに係ることになりました。

瀋陽オリンピックセンター

これは北京ピックの際のサッカー競技会場の一つです。この様なビッグプロジェクトにコンペ段階から参加し、この形を作り出す現場に直接参画し、そして瀋陽の工事現場にも足しげく通うことになりました。中国側のローカル事務所は上海市設計院。工事現場では中国の国情から監理業務に深く関わることはできませんでしたが、中国のプロジェクトでは最も印象に残っているものです。

深圳湾体育センター

佐藤総合計画では、上記の深圳のスタジアムのほかに天津のオリンピックスタジアムも設計しています。そのような実績から深圳市のスタジアムも設計することになりました。
曲面を用いた大屋根の下に、スタジアム/アリーナ/プールを統合するというデザインを実現しています。このプロジェクトにはコンペの設計段階に関わりました。この形のオリジナルのスタディ模型は僕が自分の手で作っています。

台中水湳國際會議展覽中心

このプロジェクトには、コンペで入賞した後の実施設計段階から加わりました。佐藤総合計画では久しぶりの台湾での案件ということで、この複雑な形状をどのように実現するかという具体的な検討、台湾のローカル事務所との調整、台中市へのプレゼンテーションなどを担当しました。
台湾側設計事務所との協議は、僕の最も得意とするところなので、実施設計のマネージングを一手に引き受けていました。

設計事務所から建設コンサルタント会社に転職する

しかし、佐藤総合計画での海外設計業務は、次第に先細りになっていきました。そもそも、海外での設計業務というのは設計費用が非常に安いものになります。設計費というのは建設工事費用にリンクしていますので、建設工事単価の低い国での設計費というのはそもそも安いものです。さらにその海外の事業主の側でも日本の設計事務所に業務を委託するのは非常に高くつくので、業務スコープをどんどん絞っていくことになりました。加えて、尖閣諸島の事件以降、中国から日本に対する設計のオファーは減る一方でした。

この様な状態で、佐藤総合計画内で僕の立場は一所員のままでした。そもそも海外案件が少ないので日本国内のプロジェクトに配置されました。それはそれなりにやりがいのある仕事でしたが、社内では僕の海外業務のキャリアは必要ないと判断されていたわけです。それは会社の売り上げへの貢献を考えると仕方ありません。ですので、同じ世代の同僚が設計部門で主要な役割を得ているのに対して、自分は一設計担当者でしかないという状態が続きました。

この時点で僕は50歳を過ぎていましたが、会社として僕に対する評価がそのようであるなら、この際職場を代えてみようと考えました。たまたま、大学の友人がフロンティアコンストラクション&パートナーズという建設コンサルタント会社の海外事業部門で働いていて、折に触れ相談を受けていたのでこの会社に転職の打診をしたところ、是非来てくれということになりました。

フロンティアコンストラクション&パートナーズ

この会社では入社の当初から台湾の日系ディベロッパーに派遣されました。会社ではこのディベロッパーの様々な建設技術サポートの業務を行っており、その海外現地法人の住宅事業の技術サポートを行うという業務に携わることになりました。合わせて、関連するホテルの台北での一号店も施工のフェーズに入っており、この現場のサポートも行うことになりました。

ここで行っている建設コンサルタントの業務については、別項で詳しく説明しているので、そちらをご覧ください。

自己のキャリアは、会社に依存しない

僕はこの様に仕事をしてきたので、自分の仕事のキャリアは会社に依存しないという風に考えています。会社の都合で転職を余儀なくされたことが2度もあります。会社に雇ってもらうというよりも、自分の培った能力を十分に生かしてくれる職場であれば、どこで仕事をしても構わないと考えています。

また、そんな風に職場を移るためには、社内に埋没するのではなく、社外の人間ともチャンネルを持って関係を作っておくことが必要だと考えています。それは同業他社であっても、全く関係のない業種の人でも構わないと思います。仕事のチャンスというのはどこにあるのか分かりません。どのような関係から仕事に結びつくのかは、未来のことなので分かりません。

そして、自分の思惑通りにはキャリアが進むことはなくても、能力さえあれば自分に相応しい職場と仕事は見つかるだろうと考えています。

僕は、54歳になってから転職した職場で、最も自分の能力を発揮することができていると感じています。そして、それをクライアントにも、台湾側の人たちにも評価してもらえているというのは、同じくらいの世代で仕事をしている友人/知人と比べても、とても得難い状況なのだろうと考えています。
この歳になっても、社会に必要とされているという実感を持てるというのは、とても幸せなことです。

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