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『読みたいことを、書けばいい。』というパンドラの箱

田中泰延さんの『読みたいことを、書けばいい。』を読んだ。

最初は本屋でニヤニヤしながら立ち読みして、その2週間後くらいに買ってニヤニヤしながら再読して、その後、ツイッターで田中さんにウザ絡みするようになってまた読んだ。
3回目、腰を据えてじっくり読み、QRコードのリンク先の記事もすべて読み、それ以外の田中さんのインタビューや対談も読んだ。
そして私は戦慄した。

「おいおい、本気かよ」、と。

戸惑ったのは、私の読後感とツイッターに溢れる『読み書け』への称賛のズレだ。なお、『読み書け』は面倒なので今思いついた略称だ。「読みかけ」どころかもう5回も読んでいる。

ツイッター上には例えばこんな声がある。

「書く勇気が湧いてくる」
「noteを更新するモチベが上がった」
「自己表現&承認欲求を欲する人たちに勇気と安堵をもたらしている」

え?
私はといえば、この本を読んでからnoteの更新が滞っている。インフルエンザで1週間寝込んだせいもあるが、そもそもインフルに罹患したのも「この本について何か書くべきだろうか」と迷いつつ、付箋を貼りながら再々々々読して免疫力が落ちたせいだ。

1月28日の朝、熱が下がり、5度目の読了を経て、「やはり、書くしかないか……」とラップトップの前に向かってこれを書き始めた。
4000字書いたところで、夕あり朝ありき是はじめの日なり。
1月29日、6500字まで書くと、夕あり朝ありき是二日なり。
1月30日、8000字を超え、夕あり朝ありき是三日なり。
1月31日、1万字を優に超え、4日目にしてようやくアップにこぎつけた。
the Creator は3日で大陸隆起と種子植物誕生まで作業を進め、4日目に太陽と月をサクッと作っている。微妙に順番が間違っている。光合成は後付けか。
私だって3~4日あれば確定申告を8割がた終わらせられたはずだ。
どうしてくれる。確定申告、どうしましょう。 

「着ぐるみ」の下から山本夏彦翁

『カメ止め』もとへ『読み書け』を読んでいる間、ある人物の顔がずっと浮かんでいた。

この顔ではない。左の人でもないゅ。

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この顔だ。敬愛するコラムニスト、山本夏彦翁だ。
読んでいる間、私は何度も夏彦翁に「お前はそれでも書くのか」と問われている気持ちになった。TV画面上で遠近法を狂わせる田中さんの巨体は実は着ぐるみで、その下には夏彦翁が入っているはずだ。

ニヤニヤさせる筆運びのオブラートとキャッチーなタイトルに包まれているが、『読み書け』は恐ろしい本だ。
「これから書く人」はブライトサイドに目が向くかもしれない。
だが、「もう書いている人」にとっては「パンドラの箱」だ。

ところで私はゴリラではない。
本業が新聞記者で、なぜか経済青春小説という珍妙な本を出し、noteに心に移り行くよしなし事を垂れ流す人間だ。ホモサピだ。
書いてばかりいる人だ。
お給料や印税を頂戴し、たまに無料なのにnoteで投げ銭をいただくこともある(ご厚意は「国境なき医師団」に横流しします)
一応、「プロの書き手」と言って差し支えないだろう。どの世界も、プロだってピンキリでございます。

ネットには称賛の声が溢れている。最近読んだ何かの本にも「もう誰かが書いていることは書かなくていい」という趣旨のことが書いてあった気がする。書名は忘れた。ググってみてほしい。
だから私は、恐ろしい側面にフォーカスして書く。ダークサイドのフォースにルーカスする。

「述ベテ作ラズ」という呪縛

『読み書け』の最も恐ろしい部分はここだ。

「文章を書くのが好き」という人がよくわからない。わたしにとっては世界で一番イヤなことだからだ。
(第2章 承認欲求を満たすのに「書く」は割りに合わない、p105)

一番好きな「カレーライスを食べる」から数えて1863番目ぐらいが「書くこと」らしいので、ベストからワーストまで田中さんの人生は1900ぐらいしかスペクトラムがないことが分かる。
無論、ポイントはそこではない。
これは田中さんの本音だろう。何度も、何度も、「書くのは苦しい」と吐露している。こんな上手い、こんな面白い文章が書ける人が、である。
なぜ苦しいのか。
それは田中さんが「妥協しない書き手」だからだ。
妥協するくらいなら書かなければいいと思っているのだ。

夏彦翁、曰く。

洋の東西を問わず教育は古典を教えることに尽きる。西洋ではギリシャラテンわが国では四書五経、老荘儒仏に人間の知恵は出つくしている。
(中略)
私たちが何を考え何を言っても、古人を出ることはできない。それらの悉くを学んだ上でさらに考えたことが考えであり、さらに発見したことが発見である。尋常の人にそんなことはできないから、「学ブニ如カザルナリ」また「述ベテ作ラズ」と古人は言ったのである。
(『戦前という時代』山本夏彦)

『読み書け」にも「それ、夏目漱石が百何十年も前にほとんどやっている」と極太ゴシックで大書してある。「巨人の肩に乗る」の節の締めの文句はこうだ。

巨人の肩に乗る、というのは「ここまでは議論の余地がありませんね。ここからその先の話をしますけど」という姿勢なのだ。
(第3章 どう書くのか 
 p179)

「巨人の肩に乗る」。これがどれほど苦しいか。
巨人は屈んであなたを肩に乗せて、「よっこいしょ」と立ち上がってくれはしない。
あなたは巨人の肩まで自力でよじ登らなければならない。
しかも、どの方面だろうが、巨人は by definitionで、でかい。

よじ登るには、例えば田中さんの手法に従えば、国会図書館あるいは大宅文庫まで行って一次資料に当たらなければならない。
古典を一通り、読まなければならない。
既存の批評にも目配りしなければならない。

ここまでやって、肩まで登ったとしよう。
だが、登ったのが超巨人なら、頭の大きさはあなたの身長を遥かに凌ぐ。
肩まで登っても、視線は巨人の方がまだ高いのだ。

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ニュートンは登っただけじゃなく、肩の上に櫓を立てて『プリンキピア・マテマティカ」に到達したのだ。おそらく建築基準法違反だし、危険極まりない。だんじりより死ぬ確率は高い。
『読み書け』は、そんな危険行為を「前提」として求めている。
自殺幇助か違法建築教唆で告訴されて然るべきだ。

そんな「前提」が、どれだけ危険か。
『読み書け』は、グレーのページにうっかり実用的なノウハウが書いてある。「文章術コラム③書くために読むといい本」に列挙された推薦図書リストを見れば、田中さんが「書くのが嫌い」な理由が分かる。
こういう読書をして、妥協しないで書こうとすれば、「学ブニ如カザルナリ」「述ベテ作ラズ」という言葉が頭から離れないに違いない。

なぜ断言できるかというと、私もそうだからだ。
noteを書くとき、いつも頭をよぎるのは、
「これはもう誰かが書いているだろう」
「俺はこれをもうどこかで読んだ」

という思いだ。
それでも私は書いている。
なぜなら私は「妥協する書き手」だからだ。
私はnoteの投稿の9割9分5厘6毛を「妥協している」と自覚して書いている。

「わたしが言いたいことを書いている人がいない。じゃあ、自分が書くしかない」
読み手として読みたいものを書くというのは、ここが出発点なのだ。(中略)自分のオリジナリティのある文章を書くことはたいへん難しい時代になった。

だが、「いまさら書かなくていいことは書く必要がない」という事実はある意味、ラクなことだ。特段の新しいものの見方も疑問もなく、読み手でかまわないなら、読み手でいよう。どこかで読んだ内容を苦労して文章にしてもだれも読まないし、自分も楽しくない。
(第2章 だれに書くのか p103)

本気か。
ここまでハードルを上げるのか。
この部分も、私の脳内で夏彦翁の言葉と重なって響いた。

私は別世界につれていってもらいたいのである。知らない話を聞きたいのである。何か発見がなければ読んだ気がしないのである。作者は何か発見があって、それを語るために文が上手でなければならぬと私は思っている。
(『恋に似たもの』山本夏彦)

この境地で「自分が読みたいもの」を書くのが、どれほどキツいか。

繰り返す。『読み書け』という本は、

「妥協して書くぐらいならROMってろ」

と言っている。ROMは Read Only Member、R.E.MはRemember Every Momentだ。バンド名が Cans of Pissだったら hall of fame 入りしていただろうか。人間万事タイトルだ。

R.E.MよりROMの話だ。
「ある意味、ラクなことだ」とは「書くに及ばず」という宣告だ。
「歩道橋で詩集を売ろう」と言うフレーズでクスクス笑っている場合じゃない。
ネットには、私の妥協に満ちたnoteを含め、歩道橋行き推奨のコンテンツが氾濫している。全員が詩集を売ろうとしたら、日本全国の歩道橋は詩人であふれ、通行不能になる。誰も通れないから、詩集も売れない。そもそも誰かが通っても9割9分5厘6毛、売れない詩集なのに。

どうしろというのか。どうしましょう。

最も難しい「随筆」

『読み書け』は、ライターという生業と、その主戦場である随筆について書かれた本だ。
ライターは、「事象」を書くジャーナリストや研究者、あるいは「心象」を描く作家・詩人と峻別され、随筆は「事象と心象のあわい」を切り取るものと定義される。

私は本業が記者で、初めて出した本『おカネの教室』は、変化球だが、小説だ。そしてnoteで随筆を書いている。
新聞記事、小説、随筆の中で、「書くだけ」なら、一番楽なのは新聞記事だ。
『読み書け』の筆法をなぞれば、事象を「型」にはめるだけだ。心象を差し挟む余地がないから迷いもない。取材できた時点、ネタが取れた時点で、ほぼ仕事は終わる。四半世紀もやってれば脊髄反射で書ける。

次に楽なのは、実は小説だ。書き始めてしまえば、と言う前提付きだが。
『読み書け』で田中さんが知人の小説家の話を紹介されているように、脳内で上映される映画を文字起こしすれば良い。
的確な語彙や文体を選ぶのには苦労するし、新聞記事のようにno brainer で書けるわけではない。
でも、脳内常設の「劇場」を選んでスポットライトを向け、成り行きを書きとめていけば良い。出来上がったものが面白いか、小説として新しいかは別の問題だ。
大変なのは、上映機が錆びつかないように執筆のペースを保つことと、商品として仕上げる推敲だろう。村上春樹のいう「トンカチ仕事」である。これも実は楽しい。

つまり、書く部分だけ抜き出せば、一番難しいのは随筆なのだ。
「妥協しない書き手」として臨むとき、随筆は恐ろしく難しい。

例えば私が新潮社フォーサイトに連載しているこのマンガコラム。

20回近い連載で「妥協なき地平」で書けたものはこのあたりぐらいだ。

他の原稿も手を抜いているわけではない。だが、月2回程度のペースで毎回このレベルにもっていく筆力が私にはない。
noteの投稿でも、自分が本当に満足できるものは数本しかない。こちらもいくつか挙げておく。

そして、『読み書け』にある通り、そんな渾身の投稿でも、ほとんど読まれない。
私が宇多田ヒカルではないからだ。
SLAM DUNKのコラムは転載された各種ポータルサイト・ニュースサイトの累計ビューが恐らく数十万に達しただろう。下手すると、もう1桁上かもしれない。
だが、noteオリジナルの原稿は多くて数万ビュー、大体は千数百から5000ビュー程度だ。これでもnoteの中では割と読まれている方だろう。

書くのが一番大変なのに、ほとんど読まれない。
それが随筆だ。

noteにあふれる投稿は、創作を別にすれば随筆とノウハウものが大半だろう。後者は良い。世の中には常に目新しいノウハウがある。
だが、随筆はそうは行かない。人生の喜怒哀楽のほぼ全て、つまり心象の類型はほとんど古典に出尽くしているからだ。

私の場合、「個人的経験をベースに心象を深掘りして普遍的読み物にする」という形で、自分を含む読者にとって多少の時間を割いてもらえるコンテンツを書いている(つもりだ)。
だが、「これは本当に自分が書く必要があったのか」と突き詰めて、自信をもってイエスと言えるものは稀だ。

汝、「売文」するなかれ

『読み書け』の恐ろしさは「巨人の肩に乗る」という要求水準の高さだけではない。
最も恐ろしいのは、別の部分だ。

掲載されているQRコードのリンクの中で、最重要の記事は糸井重里さんとのこの対談だ。

田中さんはこの中で、こんなことを言っている。

ただ、僕の中では相変わらず、書くことに対して、お金ではなく、「おもしろい」とか「全部読んだよ」とか、「この結論は納得した」といった声が報酬になっています。
それが報酬だと、家族はたまったもんじゃないでしょうけど(笑)。

この発言は、糸井さんの以下の指摘と呼応している。

糸井
2つの方向があって、書いたりすることで食っていけるようにするっていうのが、いわゆるプロの発想。
それから、食うことと関わりなく自由に書くという、そっちを目指すっていう方向と、2種類に分かれますよね。

 田中
そうですね。

糸井
僕はそれについてはずっと考えてきたんだと思うんですね。
で、僕はアマチュアなんですよ。
つまり、書いて食おうと思ったときに、自分がいる立場がつまらなくなるような気がしたんです。

糸井さんは「職人芸ではなく、旦那芸でありたい」という絶妙のフレーズで真意を補っている。それが「軽さ」を維持する、「読み手として書く」というスタンスを守るための足場になるのだ、と。
これだけでは真意が掴めない方はリンク先全文を読むのをお勧めする。『読み書け』という本が生まれた発端がこのインタビューにあるのがよくわかる。
私がリフレーズするとこうなる。

「汝、売文するなかれ」

『読み書け』にこんな言葉がある。

難しいのは、反響には「けなす」だけではなく「ほめる」もある点だ。だが、ほめてくれる人に、「また次もほめられよう」と思って書くと、だんだん自分がおもしろくなくなってくる。いずれにせよ、評価の奴隷になった時点で、書くことがいやになってしまう。
(第2章 誰に書くか p115)

ここでまた、着ぐるみの中の夏彦翁が語りかけてくる。

印刷された言葉には金が支払われる。新聞雑誌なら原稿料をくれる。テレビラジオなら出演料をくれる。すなわち私たちが接するのはすべて売買された言葉で、売買されない言葉を見聞する機会は全くない。言葉は売買されるとどうなるか。売るものは買ってくれるものに迎合するようになる。
(『恋に似たもの』山本夏彦)

「依頼されなければ原稿は書かない」という田中さんは、プロだ。
『読み書け』の指示に馬鹿正直に従えば、あなたは何冊も購入した上で転売もできず、ダイヤモンド社に印税の引き上げ嘆願メールを送る羽目になる。
田中さんにも生活があるのだ。

だが、田中さんはおそらく、

『書いて食う』と看板を掲げないで書いて食う

という、セビリアの理髪師みたいなタイトロープを渡ろうとしている。誰が田中さんの髭を剃っているのか、考えると夜も寝られない。
上の命題は「書いているうちに、結果的に食えてしまえば良い」と言い換えても良い。
もっと踏み込めば、「書いて、それで食えなくたって、人生なんとでもなる」と見定めている。
さらに踏み込めば、「言葉・言論は売り物ではなく、本来はすべての著作物はパブリックドメインであるべきだ」という思想がほの見える。生活がなければ。

『読み書け』の最終盤にはこんな言葉ある。

あなたが書いたものは、あなた自身が読むとき、たった1日だけ、あなたを孤独から救ってくれる。自分は、何かに触れた。心が動いた。そのことを過不足なく、なんとか、書けた。自分の寂しい世界を一瞬、追い越した。何度も読み返す。しかし、何度読んでも文字列は変わらない。そしたら、また書くときだ。
(「おわりに いつ書くのか。どこで書くのか。」p258)

言語という貨幣を使いつつ、銭勘定を横に置いて、自分を救済するために書く。
そんな肚の座り方をされたら、売文業者は商売上がったりである。
気楽な兼業作家の私でも、noteを書く手が止まるのだ。
専業のライターがまともに向き合ったら、呼吸が止まるだろう。皆さん、息してますか。

そんなことを考えていたら、今日(1月29日)、ツイッターに田中さんのこんな言葉が流れてきた。

『読みたいことを書けばいい』という書名なので、中身をお読みでない方に
よく誤解されるのですが
「自由に好き勝手に自分の気持ちを書けばいい」
のではないのです。
「読みたいこと」とは究極の不自由です。
なぜなら、本屋で金出して買いたいものが
「自分が読みたいこと」のはずだからです。

これに続くツイートがこれだ。

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この人は確信犯だ。
私はこのツイートにこう応じた。

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ネタではなく、本当にコレを書いているところだったのだ。

この書名で「勘違い」されるという部分についても、夏彦翁の言葉を引こう。
田中さんは「こんなに売れるとは思わなかった」とあちこちで発言している。それはこういうことだろう。

私の読者は選ばれた読者で、選ばれた読者ならそんなにいるはずがないから、私の本が多く売れることを欲しない傾向がある。
(『かいつまんで言う』山本夏彦)

では、なぜこんなに売れているのだろう。

人間万事タイトルだ。
(『冷暖房ナシ』山本夏彦)

そう、タイトルに引かれて人は『読み書け』を手に取っている。
さすがベテランコピーライターだ。表紙のフォントもフォントに素晴らしい。
では、これは「タイトル詐欺」な本なのか。
そんなわけはない。

異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。すなわち、一見世間に従っているように見せて、読み終わると何やら妙で、あとで「ははあ」と分る人には分るように、正体をかくしていなければならない。いなければ、第一載せてくれない。
(『毒言独語』山本夏彦)

「まだ書いていない人」には、書いてみようと勇気を与える。
「もう書いている人」の目は、パンドラの箱の二重構造に向かう

まさに『読み書け』は「正統なる異端の書」だ。

「ちょっと妄想が過ぎませんか」。そう思う方もいるかもしれない。
だが、上のパラグラフまで今日(1月30日)の午前中に書いて、その後、ツイッターをチェックしていたら、こんなツイートが流れて来た。

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「この人は確信犯だと確信した」などと書いていると、確信という言葉ですら簡単にゲシュタルト崩壊して確信が持てなくなる。

性は善なりと言わなければならない

ここまで私は田中さんと夏彦翁を重ねて書いてきた。
ただし、この2人には決定的な違いがある。
一つは文体。夏彦翁には「天下に五枚で書けないことはない」という名言がある。一方、7000文字は私の推計(割り算)で原稿用紙18枚ほどになる。
それに夏彦翁は「締め切りだけは守っている」という立派な文字数。

何といっても最大の違いは、『読み書け』で繰り返される「愛と敬意」の率直な表明だろう。

夏彦翁には長年交友のあった竹林無想庵の生涯を綴った『無想庵物語』という著作がある。コラムの名手が残した唯一の、痛切な伝記だ。
この中で夏彦翁は晩年の無想庵についてこう記している。

竹林は失敗した芸術家でありながら青年が訪ねて来ると膝のりだすようなところがあった。才能なんて千に一つもないから私は顔をそむけたが、無想庵は才能の有無を問わなかった。思えば私のほうが料簡がせまい。竹林はあの年をしてなお志が学芸にあるなら同好の士だと好意を示したのだから、性は善なりと言わなければならない。だから私はたとえ反面教師としてでもなが年親しんだのである。
(『無想庵物語』 山本夏彦)

『読み書け』で田中さんは最後にこう呼びかけている。

わたしはあなたの書いたものを読んで、おもしろがってみたい。感想を述べてみたい。寂しい人生を別々にだが、どこかで一緒に歩いている仲間としてつながってみたい。
(「おわりに いつ書くのか。どこで書くのか。」p263)

田中さんはあなたの背中を押してくれている。
あなたが「書く人」になるなら、「一緒に歩こう」と。
カモナジョイナスと。
この下りの直後には「魔のエンドレスはめ殺し」@ファミレス「オメーズ」にも誘ってくれている。

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売るのはタイヤではなく本だが、いずれにせよ、「性は善なり」といわなければならない。

「歓喜の歌」を歌う資格

「田中泰延・性善説」を補強してくれるテキストが、『読み書け』の冒頭近くにQRコードが載っている「街角のクリエイティブ」のこの記事だ。

さて、このnoteはここまでですでに8000字ちょいある。
読者もお疲れだろう。私も疲れた。
ここらで、上記リンクの9000字の箸休めで一息いれてもらおう。

……。

………。

…………。

読みましたね?
ちゃんと「超訳」まで、読みましたね?

この「超訳」を読んだ方は、こう感じなかっただろうか。
「これ、どこかで読んだような気がする」
少なくとも私には、『読み書け』第4章「なぜ書くのか その5」の「書くことは生き方の問題である」と「おわりに」にかけての本書の最もアツい部分は、この『第九』の超訳と相似形に見える。
相似形どころか、ほとんど同じことを言っている。

魔法みたいな力が わしらをひとつにすんねん
そら世の中は厳しいで みなバラバラに生きとる
そやけど、みんな兄弟になれるんや
おおきな鳥の翼の下で集まるみたいに

 自分は幸せや、言えるやつおるやろ
こいつはマブダチや、いえるやつと出会えたやつ
この人と一緒に暮らしたい、いう人と巡り会えたやつ
その嬉しさをいっしょに祝おうや!

そや! その通りや! 人はひとりぼっちで生まれてきても
この地球の上で 大切な誰かができるんや!
そんなんでけへんわ、いうようなやつは帰れ!
泣きながらどっかへ行ってまえ!

 この世に生きとし生けるもんは
大自然のおっぱいから恵みを受けて生きてるんや
ええもん、とか、悪もん、とかそんなん関係あらへん
みんな薔薇の小径を歩いて行くんや
(「『歓喜の歌』シラー=ベートーヴェン 超訳:田中泰延」より抜粋)

『読み書け』第4章「なぜ書くのか」は、本書中のゴシック体部分では最小のフォントで「この章こそ他の本にないところである」と書き出される。
ここにも二重構造がある。
この章は『歓喜の歌』の現代語訳だ。それに肉付けしたものだ。「他の本にはない」とわざわざ書いた部分が「述ベテ作ラズ」なのだ。

ツイッターを見ていれば分かるが、田中さんの口調(文体)が改まった時には、名曲の歌詞か映画の名台詞の引用であるケースが大半だ。
読者が『第九』とすぐには気づかないのは、ドイツ語から大阪府国民語という第一言語に超訳したものを、標準語という田中さんにとっての第三言語(第二言語は広島弁)にさらに超訳しているからだ。跳躍しすぎだ。ジャンプばかりしてないで、ステップしてはどうか。

『読み書け』のなかで、『第九』へのリンクはかなり前半に出てくる。
読者がQRコードから飛んで「超訳」を読み、その後に『読み書け』の最後にたどり着けば、脳内には『歓喜の歌』が鳴り響く。
書いているとき、田中さんの脳内にも鳴り響いていたのだろうと私は想像する。
前半のQRコードは前振りなのだ。
よく見れば、帯にすら前振りの仕掛けは潜んでいる。

幼稚園の先生にも、
大柄なジゴロにも、
大飯食らいの居候にも、
交響楽団指揮者にもなれそうな男が、
本を書いてしまった。
ーーー糸井重里
(太字は高井)

帯からステルス「歓喜の歌」への導線がある。その伏線が見事に回収される。フロイデ!

「田中泰延・着ぐるみ説」を経て「田中泰延・性善説」へ、そして「『読み書け』は『第九』説」にたどり着いたとき、私のなかに別の物語が蘇ってきた。
土田世紀の『編集王』である。
未読の人間などいないはずの名作なので、いきなりクライマックスのネタバレから入る。ゴリラの皆さんは『編集王』を読んでから再集合願います。

『編集王』の最終話では、「神様」と表記される手塚治虫がマンボ好塚の安アパート「トキク荘」を訪れるシーンが描かれる。「神様」はマンボが描き上げたばかりの連載マンガの最新回を読み通した後、問いかける。

「マンボさん………『第九』を知ってますか…………?」
「え…………ハイ、あのベートーベンの交響曲の……」
「僕の勝手な翻訳ですが………」
「…ハイ。」

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この後、手塚治虫はマンボ好塚にこう語りかける。

僕のことを競争心の強い子供じみた作家だと言う人が居ますが、互いに自己陶酔を競い合ったって何もならない。
たましいを、下げないように…
その事だけを…僕は競いたいのです………
競いましょう、マンボさん。
あなたには、その資格があるのだから。
(『編集王』土田世紀)

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「おれはおまへをもう見ない」

実はこのnoteにも伏線がはってあった。
皆さんが高速で縦スクスルーしたであろうこのリンクだ。

自分で自分の原稿を引用するのは妙な気分だが、「埋めたリンクは誰も踏まない」のが浮世の定めなので、少しだけ引く。

のちに好塚は、「トキク荘」を抜け出して豪邸に移り、アルコールと享楽に溺れて志を失う。そして、名ばかりで自分で作画もしない「大家」となった後、傷害事件を機に、名声も連載も財産も失う。
末期的なアル中でまともにペンも握れない。それでもペンを手にテープで縛り付け、再デビューをかけて、好塚はもう1度、マンガに向き合う。
再起をかけた作品が脱稿した朝、昔のようにアシスタントとして二人三脚で作業した仙台に礼を述べた後、息を引き取る。

「食えなく」なった好塚は、遺作を書き上げる過程で「たましいを下げない」創作者のあり様に回帰する。

たましいを下げないで書く。
巨人の肩に乗る。
売文しない。

常にこのハードルをクリアできるとは思えない。
それでも私は書き続けるだろう。「もう書いている人」の私は、書くことでしか得られない喜びを知ってしまっているからだ。

私が最初にツイッターで田中さんと接触したのは、先にリンクをはったnoteの投稿「日本のヒルビリーだった私」を巡るこんなやり取りだった。

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この時は「おわ!田中さんにリツイートされた!」ぐらいの驚きだったが、今は恐ろしい。
なぜ恐ろしいのか。
『編集王』に、宮沢賢治の名高い詩を引用した名場面がある。

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
(中略)
おまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
(中略)
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
(中略)
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
(「春と修羅 第二集 告別」 宮沢賢治 「編集王」の引用に沿って中略した)

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田中さんは『読み書け』で、これから書こうとする人たち、すべての背中を押した。
だが、その結果のアウトプットが田中さんの「読みたいもの」のレベルに達していなければ、「おれはおまへをもう見ない」と立ち去るだろう。
人生は短く、本はあまりに多いのだから。
21世紀に生きる我々には、Netflix もアマプラも Hulu も Fanza もあるのだ。
本業のツイッターが疎かになる落とし穴が、そこかしこにある。

「本を出す」ことの恐ろしさ

本を書く、それを出版するというのは、恐れ多い行為だ。
夏彦翁は『編集人兼発行人』で、「本はあんなにあふれているが、本当はあふれてはいない。ただ棚をふさいで、見るべき本の邪魔をしているのである」と喝破した。

小学校に上がりたてのころ、初めて近所の図書館で「おとなのほん」が並ぶ2階に足を踏み入れた時の衝撃は忘れられない。
名古屋市の片隅の区立図書館ですら、そこには、どう考えても人が一生かけても読み切れない量の本があった。
「こんなに読める本があるのか」とワクワクし、同時に「世の中の全部の本は読み切れないのか」と絶望した。

私は2018年に『おカネの教室』という本を出した。デビュー作だ。

書き手側に回ってみて、山のような新刊本が「棚をふさいで、見るべき本の邪魔をしている」書店に行けば、読み手とは違う絶望感が湧き上がってくる。
自分が書く新たな1冊も「棚をふさぐ」だけに終わるのではないかという絶望だ。
こんなに「見るべき本」があるのに、自分が書く必要があるのかという絶望だ。
『読み書け』のなかで田中さんは、幾多の出版のオファーを断ってきたと明かしている。田中さんにも、私のような心の揺れがあったのだろうか。

『おカネの教室』の出版は、「自分の本を出す」という子どもの頃からの夢がかなったという意味で、もちろん嬉しかった。
そして、一歩引いた「読み手」として見ても、この本は「世に出て良いものだった」と自負している。類書がないからだ。
それは成り立ちからして当然だ。「娘に読ませようと思って本を探したけど、見つからなかったので自分で家庭内連載した」というコンテンツが、あれよあれよと本になったのだから。
類書があったら、初めから書いていないのだ。
Amazonのレビューやネット上の感想で、『おカネの教室』は大変ご好評をいただいている。ありがとうございます。
その一方で、こんな批判も少なくない。

「作者独自の考えであって、経済学の基礎解説になっていない」
「経済の見方や職業観が偏っている」

良かった。ちゃんと伝わっている。
この種のレビューをみかけるたび、『おカネの教室』は「偏った考え」の私しか書けない、私が書くべき本だったのだと喜んでいる。
Amazonレビューの星の平均が少々下がるぐらい、安いものである。

読みたいことを、書けばいい

『読み書け』も、疑いなく、類書がない、渾身の一冊だ。誰にとってもデビュー作は格別なものだ。
そこには、私が夏彦翁の影を感知したように、肩を貸した「巨人」たちの姿はほの見える。「歓喜の歌」も鳴り響いている。
だが、これは紛れもなく、田中さんにしか書けない、田中さんに書かれるべき本だ。
「まだ書いていない人」にとっては、副題の通り、人生を変えるきっかけになるかもしれないだろう。
私のような「もう書いている人」には絶望をもたらす「パンドラの箱」だが、開けて良かった。体罰ご法度の21世紀にあって、気合のケツバットを入れてもらった気分だ。

大量の引用込みとはいえ、1万2000字を超えた。そろそろ潮時だろう。
これでようやく呪縛から解放されそうだ。
来週からまた馬鹿馬鹿しいnoteを、あるいは次に出す本の草稿を書こう。
自分のために、自分が読みたいものを書こう。
それが誰かに届いて、ページを繰る手が止まらない姿を夢想しながら。

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(参考文献・画像引用元等)
『読みたいことを、書けばいい。』(田中泰延、ダイヤモンド社)
『ひとことで言う 山本夏彦箴言集』(新潮社)
『何用あって月世界へ 山本夏彦名言集』(植田康夫編、ネスコ・文藝春秋)
『新編 宮沢賢治詩集』(天沢退次郎編、新潮文庫)
『風の谷のナウシカ』(宮崎駿、徳間書店)
『ナニワ金融道』(青木雄二、講談社漫画文庫)
『編集王』(土田世紀、小学館)

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