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映画「遠いところ」を観ました

沖縄・コザの見慣れた風景。私も通ったことのある道。

主人公の日常は、ひと言で言うなら、苦しい。

だろうか。

混乱、かもしれない。

私の感じる事と、主人公が感じる事は、異なる。
みんな別の人間だ。

映画を観ながら、「知っている。」と思った。

沖縄だけでなく、茨城でも出会っている。だけど、それは、知っているけれど、なんの意味も持たないのかもしれない、と打ち消す。わかったようなふりをして、どんな感想をもっともらしく綴るのか。さまざまな大人が、身近な大人が、支援者と呼ばれる大人が、知っているけれど、なにもできずに放置している。その怠慢を、第三者的な視点で、安全な場所から、もっともらしく言って、なんの意味があるのか。それでも、書かずにはいられない。

これまでに私が出会った人達。

主人公の断片を持つ人たち。

私の記憶が刺激される。

私がしたことは、人生のほんの一瞬の関わり。
相手に届いていたか。

映画の中の児童相談所職員の対応。人と人の初対面時のマナーはあれでいいのか。親権者への説明責任は果たしているのか。違和感を感じたけれど、主人公の視点からみれば、あのように感じるのかもしれない。もっともらしく近づいて、正論を言い、児相の業務を果たすだけ。

警察署女性警察官の対応。被害女性の対応なら、被害者に寄り添ってくれるのだろうか。加害女性の対応なら、相手を叱責し、追い詰める事が許されるのだろうか。

被害と加害。視点を変えれば、つながっているのに。どうして未成年なのに、違法と知っていながら、働いているのか。尋問する前に、ほんの少しでも想像力があれば、疑問を感じるのではないか。そもそも違法なのに雇う大人がいるのが問題ではないか。

役割は、怖い。求められている役割を果たす為に、思考が停止する。自分の行動が求められている役割に沿っていれば、相手への暴力さえ免責されるように感じる。しかし、暴力は暴力だし、許されない。役割は、個人の人格の一部を強化しているだけなのかもしれないけれど、なんの役割も持たない時点では取らなかったはずの行動を引き出すこともある。

私も、この映画のなかの児相職員と同じことをしているのではないか。そして、誠実に対応していたとしても、主人公の困難さや求めているものに気づけずに、一方的に支援を押し付けているとすれば、結局は同じことをしているんだ。

公的相談機関よりも、違法な関係につながってしまうのは、窮地の本人の目の前にある、解決しなければならない(と責任を押し付けられている)問題に、解決手段を提供し、本人のとりあえずのニーズを満たしてくれるからだ。本人も、とりあえずは助かったように感じるし、搾取者は搾取できる。一見Win-Winだ。だけど、実際に得をするのは搾取者だけだ。

問題が一時的に解決されたように感じても、新たな問題が始まるだけだ。お金を得ても、心身に傷が蓄積すれば、健康を害したり、働けなくなったりして、日常生活を送ることが困難になる。さらなる困難が続く。搾取者がその責任を負う事はない。

主人公は、「母」という役割を担っている。
子育てをしながら、働き、生活を維持しようと努めている。

主人公は、「妻」という役割を担っている。
DV夫の示談金を工面しようと、働く。

主人公は、未成年。

主人公も「こども」だよ。

だけど、守られない。

主人公の「未成年」という部分は、法を犯す時にだけ適用されて、普段の生活では、適用されない。こどもの権利を侵害されているのに、誰もそのことを問題にしない。誰も問題だと思わない。

未成年であることよりも、母であり、妻であることが優先される。

母であり、妻でもあるけど、こどもだよ。

児相の支援対象者だよ。守られるはずの存在だよ。

主人公のまわりにいる大人は、主人公を罵る。呪いの言葉を言い続ける。悪い未来ばかり予言する。主人公の存在を否定し、傷つける。まさに児童虐待だ。

児相は息子の虐待は疑うのに、なぜ主人公が受け続けている虐待には気づいてくれないのか。

主人公は、無視され続けている。

子どもの権利は4つ。
「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」

生きる、育つ、守られる、参加する。

どれも守られていない。

17歳の主人公。2歳の息子を育てている。
妊娠出産時は15歳だったはず。

その時、大人たちは何をしただろう。

同じ場所で、同じ景色を見ているのに、まるで別世界に住んでいる。別の世界の住人だ。隣にいるのに、離れている。

主人公のまわりには、当たり前のように暴力がある。身体的暴力。言葉で傷つける精神的暴力。性的暴力。経済的暴力。必要な世話をしないネグレクト。

そして、主人公に暴力を振るう人たちも、暴力を経験している。

DV夫は、父(実父か継父かは不明)から暴力を振るわれる。映画中では描かれないが、父から母に対するDVを目撃している可能性もある。面前DVは、児童虐待だ。

主人公の実母は登場しないけれど、主人公の実父は家庭があり、主人公の養育を拒否している。たとえ合意のもとの性交渉であっても、避妊しなかった実父は、無責任であり、実母に対して性暴力を振るったといえる。

暴力は連鎖する。DV夫は主人公に暴力を振るい、実母と実父は主人公の養育を放棄した。

もともとは被害者だった人が、加害者となった時、その人の被害体験は考慮されずに、加害者としての事実だけが動かぬ証拠として責められる。

もちろん、被害体験があるからといって、加害行為が許される訳ではない。犯した罪は償わなければならない。

だけど、被害を受けた時に、その被害による傷つきを手当てされていたら、加害行為に至らなかったかもしれない。

日常的に暴力に曝されることで、心身に不調が起こる。思い出したくないのに暴力場面が思い浮かんだり、自分でうまく感情がコントロールしにくくなったりする。とても混乱する。自分がおかしくなったのではないかと混乱する。その感覚を鈍らせる為に、飲酒や煙草や薬物の力を頼ったり、自傷行為を行ったり、逆に危険な行為をしてみたりする。そして、アルコール依存や薬物依存、ギャンブル依存などの新たな問題を抱えることになる。それでも、それは全て自分を保つ為の、自分を守る為の、自助努力なのだ。

だれも助けてくれないから、じぶんで自分を助けているんだ。

だけど、それを責められる。自助努力を責められる。自分を救う手段を禁止される。それらを禁止されたら、どうやって自分を救えばいい。生き延びる術なのに、禁止されたら、生きていけない。

生きにくい。

他者を信頼できず、距離を取る。人との交流を避ける。それも、暴力を受けた後に起こる症状のひとつだ。

ただでさえ、人を信頼しにくくなっている状態で、誰かに助けを求めることは難しい。自助努力を責められたら、拒否感は強まる。さらに傷つくくらいなら、孤立を選ぶ。

生きにくい。

それでも誰かを求める。人を救うのは、人とのつながりだ。それが、新たな暴力の始まりだとしても。DV夫だとしても。なかなかDV夫と離れられないのは、恐怖での支配や、経済面での不安などもあるけれど、つながりを奪われることへの恐怖もある。やっと手に入れた自分の家族だからこそ、守りたい。それは、DV夫しかいないくらい、孤立しているということだ。もちろん、DV夫は自分から逃げられないように、DV被害者を孤立させる。だけど、そのDV夫と出会う前から孤立している事も多い。

お互いのニーズを満たしているようで、弱みにつけこみ、搾取しているという点では、違法な搾取者と構図は同じだ。

公的な支援機関は支援してくれるけれど、人生のすべてを受け止めてはくれない。それぞれが担う役割の部分だけ支援してくれるだけだから。それでも、利用できるサービスは活用してほしいけれど、孤立していることで必要な情報を得られなければ、検索もできないし、情報の信頼性も分かりにくくて、結果、必要な支援にたどり着けない。

いざ、支援機関にたどりついても、主人公が「こども」や「DV被害者」であるよりも、「母」や「妻」としての役割を果たしているかどうかで判断されて叱責されたりすれば、もう利用したいとは思えなくなる。

主人公と相談機関をつなぐ第三者が必要だ。それは、守られている人ならば、親や友人かもしれない。それらが奪われている人は、どうすればいい。困りごとが見えず、発見されず、存在を無視され続ける。

そして、困りごとが大きくなって、発見された時には、「困っている被害者」としてではなく、「困った加害者」として認識されてしまうとしたら。

生きにくい。

困った加害者とされてしまった人の言い分は、誰が聞く?

主人公の言い分は、誰が聞いてくれるんだ。

主人公には友達がいる。主人公を心配してくれるし、一緒に楽しく過ごして、気晴らしに付き合ってくれる。助けを求めたら、助けに来てくれる。血まみれの顔を拭いてくれる。病院に同行してくれて、医療費も立て替えてくれる。仕事をつなげてくれようとするけれど、主人公の尊厳を奪う仕事は断固拒否してくれる。主人公の変化に気づき、止めてくれる。

だけど、日常的に暴力に曝され、心身共に追い詰められた主人公は、友達の思いを受け取れない。友達に見下されているように感じたのは、主人公が自分自身の行動を見下しているからだ。主人公のなかに良心や自分を大切にしたいという気持ちがあるからこそ、人間らしさがあるからこそ、苦しみ、辛いんだ。

主人公は、他者から求められる役割を果たすために、自分の大切なものを守るために、自分にできることを頑張ってきたのに。ことごとく主人公の尊厳を奪う人達の暴力に曝され続ける。直接的な暴力だけでなく、主人公の思いや、行動の理由を聞かれることはなく、大切なものを奪われる。

主人公のケアは、誰がするんだ。

友達がしてくれていたケア。

だけど、友達は死ぬ。

友達の声は、誰が聞いていた?

遠くに行きたかった友達。主人公と同じように未成年だけどキャバクラで働いていた友達。薬物を吸い出した友達。売春は「気持ち悪いのは、おっさんの方だ」と買う側が悪いと、はっきりと言ってくれた友達。

友達も、なにか抱えていた。絶対。

主人公がDV夫の暴力によって、顔面傷だらけの血だらけでも、顔色ひとつ変えず、驚かなかった友達。友達にとって、暴力によるケガは、驚くことではないということだ。それだけ、暴力が日常ということだ。

主人公は、自分のことで精一杯で、友達のことを気にかける余裕はなかった。他の人が、主人公のことを気にかけることがないように。

余裕がないんだ。

みんな、余裕がない。

主人公も、DV夫も、祖母も、実父も、実母も、義母も、なんなら医療機関も相談機関も警察も。経済的にも、精神的にも、余裕がない。みんな余裕がないなか、生きている。

みんなのケアは、だれがする。
みんな助けを求めてる。

問題はひとつじゃない。

だからこそ、分担して、いろんな機関がある。警察も、児相も、病院も、それぞれがそれぞれの役割を果たしている。たとえそれが淡々と役割だけを果たしているように感じても。必要な支援を行う。

自己責任のように見られる行動や、問題と思える事態が起きた時、目の前の事実は揺るがないかもしれないけれど、その問題が起きた理由をたどれば、別の事実があるのではないかという想像力があれば、別の視点を持てる。

困った人は、困っている人。

何に困っているのか、混乱していると、わからない。自分の困りごとを自覚できていない事もある。何を解決したいのか、言葉で説明するには、こんがらがった出来事や記憶や感情を、丁寧に紐解く時間が必要だ。さっと分かりやすく説明できる人は、誰かと整理して、話す練習をする機会があった人だ。それは、親子関係のなかで練習した人もいるだろうし、支援者と整理した人もいるだろう。そういった経験がないまま、急に説明する事を要求されても、できなくて当然だ。それは、恥じる必要のないことだし、大人はまだ言葉になっていない想いが言葉になるのをフォローしながら待つ、ということが当たり前になって欲しい。

主人公が今日まで生き延びてきた歴史を想像する力が、まわりの大人や支援者にあれば、この物語には、別の道があるはずだ。

どこかで、ひとりの人が大切にされる。

それが広がり、つながり、救われる。

そう思わないと、苦しい。

まずは目の前のひとりの人を大切にする。

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