映画「教育と愛国」を観ました
伝えたいこと。
伝えられるのは、いつまでだろう。
私は、学びたい。
歴史から、学びたい。
誰かを傷つけたら、謝る。
お互いの主張が異なることは、あるだろう。裁判ならば、事実や証拠に基づいて、話し合い、判断していく。片方の主張だけ聞いて、もう片方の主張は聞かないで決めるなんてことはしない。どちらの主張も発言できる。
自分達の自尊心を保つ為だと言って、誰かを傷つけた事実を、一方的に書き換える事は、しないはず。
自分達に都合よく、言葉や表現を変えてしまう。
それは、何のために、必要なのか。
判断基準となる情報が偏っていれば、
導き出す答えも、変わる。
知らされない。
それは。
知らなかった。
という言い訳も成り立つ。
支配したい人たちと、
誰かに判断を委ねたい人たち。
どちらにも都合が良いのかもしれない。
考えなくていい。
それは、なんだかんだ、楽だから。
私だって、この国の不穏な流れに恐怖を感じていても、誰か、導いてくれる指導者の登場を待っている。私が成ろうとは思わない。
それでも、偏った情報だけを鵜呑みにして、考える事を放棄したくない。もちろん、自分に都合の良い情報だけ集めたくなるけれど。さまざまな情報や意見を、表現する自由を守り続けたい。
過去に日本が行った酷いこと。それは、言葉や表現を変えて、消そうとしても、消えることはない。教科書から奪っても、被害を受けた人達の証言や、その歴史を伝える資料館や作品が、教えてくれる。
その情報を受け取り、どう感じるかは、人それぞれ。
集団自決のことや、従軍慰安婦のこと。私は、それらの事実を知ったとき。知らなかった私を恥じたと共に、私だって同じ被害を受けるかもしれないと恐怖も感じた。これからを生きる自分にできる事は何かを考えた。
それでも、これらの歴史を知る事が、自虐的だとは思わないし、それを知って、日本人である自分に対する自信を失ったりはしていない。
ドイツのように、自分達の加害と向き合い、その歴史を消すのではなく、向き合う。その姿勢こそが、かっこいいと私は思う。
これは、私の価値観だから、違う人もいるはず。
ひとつの事実から、いろんな価値観が生まれる。
それを、許容できる国が、いい。
先回りして、情報を変えて、消していく。
なかったことにする。
それは、解決ではなく隠蔽だ。
それが、嫌なんだ。
考える力を養うのが、教育だ。
考える力を奪われたくない。
私を、奪われたくない。
映画「教育と愛国」。
シアタードーナツで、現在、再上映中です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?