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『たった一匹の精子に心と身体は翻弄されて…ある女の末路』

 その女は一度、妊娠してみたいと思っていた。子どもが好きというわけではなかった。産んで育てたいと思っていたわけでもなかった。だから妊娠できたとしてもすぐにおろそうと安易に考えていた。何となく身ごもってみたいという気持ちが芽生えただけだと思い込んでいた。

 生理不順で訪れた病院では、うまく排卵していないかもしれず、不妊症気味と診断されたことがあった。四十歳を目前に妊孕力はますます衰えているだろうし、残された時間はそう多くはないと焦る気持ちもあったのかもしれない。なぜか妊娠したい気持ちが抑えられなくなっていた。

 そんな女の気持ちをいいことに、パートナーの男は女の子宮の中に遠慮なく精液を注ぎ込んでいた。安全日、危険日なんてお構いなしに、女のためではなく、ただ自分の欲望を満たすため、やりたい放題、精子を女の膣内に放出させていた。

 その甲斐あって、医師から不妊症気味と言われていた女は自然妊娠することができた。結婚願望のないパートナーは子どもを認知してくれるはずもなく、まして一人きりで産んで育てるなんて覚悟も持てず、当初から考えていた通り、早くこの子をおろさなきゃと女は思った。しかし女は気づいてしまった。漠然と妊娠してみたいという軽はずみな思いで身ごもったわけではなく、自分の命が母親の子宮に宿った時からの本能のような強い願望で、子どもを妊娠したのだと。無意識のうちに子どもを残し、命をつなぎたいという本能に駆られて、妊娠を望んでしまっていたことに気づいたのだ。病院で初めて我が子の心拍を見せられた時、無性に産んで会いたいと思えた。自分の中に密かに宿っていた命の瞬きを実感した途端、この子の命を諦めたくない、この子の命を守りたいという母性まで目覚めてしまった。女はもはや本能に抗えなくなっていた。

 しかし気づくのが遅かった。もしもその本能に早く気づいていれば、出産・育児に向けて、本気で努力していたかもしれない。本当に子どもが欲しいなら、そもそも認知してくれない男ではなく、自分と子どもを大事にしてくれるパートナーを探すべきだったし、相手に頼らないとすれば、自分一人で子どもを産み、育てるだけの蓄えや体力が必要だった。女には経済力がなく、健康に自信もなかった。

 女は悩み続けた。子どもを迎える準備も覚悟もないけれど、がんばれば出産だけはできるのではないか。養子に出すことも考えれば、せめて命を守ることはできるのではないかと。けれど相談した人たちからは、育てる気もないのに産むなんて無責任だし、それはただの母親としてのエゴだと諭された。それにまだ妊娠初期の今でさえ、そんなに愛しいと思える子どもを産んだ後に手放すなんてできなくなるとも教えられた。たしかにその通りだと思い知らされた。女には本能に抵抗しようとする理性がまだ僅かに残っていたのだ。

 シングルマザーになる覚悟を持てなかった女は、子どもの心拍を止めることは自分の心臓を止めることよりもつらいと思いつつも、泣く泣く子どもを中絶することにした。父親もおらず、経済力も何もない母親だけでは、幸せな暮らしはさせてあげられないと、まるで子どもを愛するが故の行為だと肯定するかのように、自分に言い聞かせるように、自らの意志で、子どもの心拍と人生を止めた。産んであげられないなら人知れず、成長を止めた我が子を胎内に留めておきたかった。それさえ叶うわけもなく、命があったはずの場所は綺麗に空っぽに処置されてしまった。

 今はつらいかもしれないけれど、時間が経てば心の傷は癒えるよと励ましてくれる人もいた。しかし女は決して立ち直ろうとはしなかった。身体に傷らしい傷は残らず、それならせめて心の奥に残った愛を伴う深い傷は生涯残しておこうと決めた。子どもが自分の中にいた痕跡をどうにかして残したかったのだ。

 自分だけ生き残ったつらさに耐えかねて、子どもの後を追うのは簡単なことだった。しかし自分が死んでしまったのでは、生まれようと自分の中で命を瞬かせていた子どもの存在まで完全に消してしまう。自分以外、誰にも認知されることのなかった命は自分が生きて、心の中で生かし続けるしか存在証明する術はなかった。

 自分の意志で子を亡くした女は、子どもの命が自分の胎内にあったことを忘れず、心の中で子どもを弔い、育み続けるために、なるべく生き存えてやろうと決めた。悲しく寂しい思いは払拭できないとしても、むしろその悲しさや寂しさは本当の愛を知らない自分に子どもが与えてくれた気持ちだから、それらを大切に抱えたまま、寿命が尽きるまで生きると誓った。

 女は子どもを手放しても母性は残ることを知った。子どもなんてほしいと思えなかった女に子どもが与えた最大の心は母性だった。

 そして、たった一匹の精子が女の体内で生き延び、卵子と出会ったことにより、命が生まれ、まるで別人のように心も体も変えられてしまった女は、妊娠してみたいのではなく、あの子の母親になりたかったと心から願うようになった。僅かに残っていた理性は消え失せ、女は本能にのみ、支配されながら生きるようになった。

 我が子を亡くした憐れな女は、想像妊娠することで、持て余すほど溢れ出る母性をなだめるようになっていた。不思議なことに生理は止まり、高温状態が続き、眠気やつわりにも襲われた。妊娠中、好んだグレープフルーツジュースやフライドポテト、カレーパンなどを食べ続け、おなかは妊婦のように膨れた。

 夏の終わりから秋の初めの出産予定日頃、「あなたの名前は夏秋(なつあき)に決めたわよ」と慈愛に満ちた笑みを浮かべ、鼻歌を歌いながら、おなかをさする幸せそうな女の姿があった。夕陽に照らされた女の影は、何かに執着するように長く伸び、アスファルトにぴったり張り付いていた。すぐ側の木陰では、残り僅かな命を惜しむかのように、ヒグラシがゆっくり侘し気に鳴いていた。

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※この話とペアになる話はこちら→『たった一人の女の妊娠に性欲は奪われて…ある男の行く末』

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