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黄色のチューリップ

 忙しなく毎日が過ぎていく中で、僕以外は効率的に動くことが多くなっていた。韓国ドラマは2倍速で観て消化するし、自炊よりもUBER EATSで食事を済ます。電車で仕事場に行く事が減り、同じ空間で誰かと仕事をすることもなくなっていた。これは大学が同じでよく連んでいた山田からの情報だ。山田は新卒で渋谷区にある大手IT企業に入社し、今もそこに勤めている。山田から連絡があったのは久々だった。たぶん卒業以来、初めての連絡だと記憶している。山田は懐かしい話を一方的にし始め、ついには最近の同世代あるいは僕らよりも下の世代についての話題に変わっていった。例えば、最近はUBER EARTSデートが流行っているという。車で宅配しながら、助手席に彼女を乗らせ、バイトとデートの時間をハイブリッドしているという。それを聞いた時、僕は正直そんな彼氏は嫌だなと思った。大事なデートの時間をバイトとは言え仕事と同じにするのは何かが違うような気がした。そこにすら効率主義が潜んでいるのかと恐ろしくなった程だ。すぐに結論を急ぐ昨今の風潮に嫌気が生じる。そして何事にも結果を求められている僕たち人間は健全であり続けられるのだろうかと疑問に思うこともある。そんな中でも僕たちには毎日がやってきて、日々が過ぎていく。先の見えないと感じるのはこの日本に住む若者だけでなく、もっと上の世代の人々にとっても同様のことなのかもしれない。人生は長いのだから、もう少しのんびり生きてもいいのではないかと思う。そんな声も首都高の下で叫べばかき消されるのだろうか。それでも声を発し、多くの人間にとっての希望を見出したいとも思う。僕には何ができるか。それを毎日考える。あいつはパイロットになった。どうやら国内線で頑張っているらしい。あいつはデザイナーになった。よくわかんないが、元気でやっているらしい。あいつは転職したらしい。大手を辞めて、やりたいことを始めたらしい。みんなの噂話は皆、山田から聞いた。僕はあまり自分から連絡しないタイプだから、疎遠になった友達も多かった。しかし山田は、積極的とまでは言わずとも、皆にこまめに連絡をとるタイプで彼らの近況も把握していた。もちろん彼らも僕の近況について山田から話があったことだろう。それに関してはどうも思わない。彼らとは長い間会っていないし、守るべき存在も増えていることだろう。前とは異なる彼らと会うことはある種の怖さもあったし、僕は社会から断絶された立場として存在していると思っていたから何を話していいかわからない側面もあった。日々進んでいるように感じる彼らと亀よりも遅い歩みで進んでいるか止まっているか後退しているかもわからない僕とではもうすでに世界は違っているのではないか。そんな気持ちでいっぱいであったのは事実だ。それでも僕は僕の役割を歩もうと必死でもがいていた。こんなちっぽけな僕にでもやれることがあるのではないか。そう自分に言い聞かせて、そう、耳にタコができるくらい言い聞かせたのだ。そうやって自分を認識し、存在を認め、強く肯定していくことから始めた。そうやって僕は僕であることを許し、世界の中での僕という立ち位置を保とうとしていた。存在しているこの世界に、少しでも意義が欲しかったのかもしれない。山田に僕はお願いをした。暇があったら極力立ち寄ってほしい。手土産は大変だから気が向いた時でいい。僕は少なからず君と話していて救われている。少し大袈裟かもしれないけど、外界との窓を開けてくれるのは君しかいないんだ。僕には兄弟もいないし、両親も早くに亡くなっている。だから身寄りもない。あいにく彼女もだいぶ前に別れたからね、訪ねてくれる人は君しかいない。なあ山田。今日の空は淡いだろう。この淡い空が一番好きなんだ。

 山田は10日に1回くらいのペースできてくれることが決まった。月に多くても3、4回とのことらしい。忙しい日こそ、お前と話すためにサボりにくるよ、そう言った時の山田の表情には微塵の不自然さもなかった。山田は気持ちのいい男だった。ややおしゃべりではあるが。僕を助手席に乗せてドライブに連れていってくれたことも何度もある。彼は車の運転が好きで、夜通し車で旅をしたこともあった。その時は里中という男も一緒だった。西日本を車で横断するという旅のコンセプトは「美味いものを食う」。僕と山田と里中、三人で各地の美味しいと言われている店やB級グルメを制覇していった。これはちょうど大学一年の夏の話である。たっぷりと時間があった僕らはダラダラと夏休みを過ごしていたのだが、山田の提案で急遽その旅は始まった。期間は1週間ほどと記憶している。夜も車を走らせていたこともあり、山田の体力を削らないように僕ら二人は工夫を施した。夜の運転はダンスミュージックを流し、盛り上げることで山田を睡魔から救った。基本的に運転は山田一人がおこなった。それは山田自身が言い出したことである。それほど、運転することが好きなのだ。それでも山田は人間なので疲労が蓄積していく。夜中の2時になり、今日はもう厳しいと山田が言った日があった。その時はすぐに駐車できる場所を探し、3人で車中泊をした。次の日は案の定、身体のあちこちが痛かった。
 その旅の思い出は僕の中で大きなものとなっている。それは人生における財産と言えるかもしれない。まさに初期衝動で動いた、若いからこそできる旅だったのだ。次の山田の来訪が楽しみだ。彼は次の機会に何を土産話として持ってくるのだろうか。期待が膨らむ。山田が帰った後、彼が座った椅子を見て、不思議な虚無感はあった。誰かがいて、いなくなると不思議とそういった感覚に苛まれる。この感覚は僕が子供時代から抱いていたと記憶している。小学校の頃、友達と遊んだあとの帰宅時間が18時だった。18時ころになって解散すると虚しい気持ちによくなったのものだ。その感覚と非常に似ていた。しかし、寂しいという気持ちがあるわけではなく、名残惜しくなるという感覚が一番近しいだろうか。いつまでも遊びの時間やお話の時間が続けば良いのにとよく思う。限りなく続けばいいのにと思う一方で、終わりがあるから美しいとも言える側面がある。それは人間の命に関しても同じではなかろうか。

 朝が来た。この部屋でこれから訪れるだろう朝に毎度感謝しなくてはいけない。感謝の数が多くなればなるほど、僕の命が生きながらえたことになる。感謝を忘れずに日々を生きることで、命のありがたみを感じるのだ。
 朝の体温検査の確認に看護師がやってきた。初芝という名前のショートカットをした女性だった。目は奥二重で切長だが、彼女の印象に鋭さはまるで感じられない。
「白山さん、初めまして。初芝と申します。よろしくお願いしますね。
お熱何度でしたか?」
初芝は丁寧に言葉を置いていくタイプで口調に嫌らしさはなかった。
「36度2分です。」
「平熱のようですね。体調にお変わりないですか?」
「そうですね、好調です。」
「わかりました。良かったです。綺麗な絵ですね。チューリップですか?」
「ありがとう。そう、チューリップ。」
「綺麗な黄色。」
この後、僕は初芝と少し長く話し込んだ。主な内容は、なぜチューリップの花の色を黄色にしたかについてだ。初芝は言った。
「一般的にチューリップを描くなら赤が多いですよね。そして姿形をイメージする場合も同じで赤だと思うんです。どうしてですか。」
「僕の実家の前の道に、ある時期になると必ず黄色のチューリップが咲いていたんです。だから僕の原体験ではチューリップは黄色なんです。その後知りました。一般的に思い浮かべるのは赤だということを。」
主流じゃない方にスポットライトを与えたくて描いたわけではなかった。ただ僕にとってのチューリップはひたすら黄色だった。赤のチューリップはもちろん見たことはあるが、実際に自分で描いたことはなかった。そこには僕なりに感じる違和感というものが存在していて、赤を描くという選択肢を自然と省いていたのだろうと思う。
そういえば昔、そう、高校生の頃だ、同じことを言ってきた人がいた。

「どうして黄色なの?」
僕のチューリップの絵を見て、真弓ゆみは言った。僕はすかさず言い返した。
「なぜゆみが2回続いているの?」
すぐに真弓は答えた。
「私が決めたことじゃないから。でも聞いたことがある。語呂がいいからって親が言ってた。」
「そんな軽薄に子供の名前を決めてもいいのかよ。」
「だから、私に言わないでよ。で、なんで黄色なの?」
この時の僕は真弓に対して、初芝に言ったのと同じように返答した。すると彼女からの提案があった。
「んじゃ見に行っていい?」
微笑みながら真弓は言った。
「今の家の前じゃなくて、前住んでいた家の近くに咲いていたんだ。だから、見れないよ。」
「そこまで今日見に行こうよ。」
身を乗り出すような形で真弓は提案してきた。
「ここから遠いよ。学校終わってからだと夕方になる。」
「今度の土曜に朝から行こう。」
「朝弱いんだけど。」
「決まりね。駅前に7時に集合。」
「それは早い。」
半ば強引な形で土曜の予定が決まった。真弓とはよく学校で話すが、放課後に一緒に遊んだことはなかった。もちろん、登下校を一緒にしたこともない。ただ、学校という場でよく話す異性という立ち位置だった。そしてこの時まではそれ以上の感情も持ち合わせていなかった。
 土曜までに時間はあった。約束を取り決めた日が月曜だったこともあり、考えることは多かった。当日に何を着ていけば良いのか、彼女は僕を異性として意識しているのか、どんなことを考えて休日に会おうと提案してきたのか、単に黄色のチューリップを見たいだけなのか、授業に集中しようとしても、さまざまな感情や考えが頭を駆け巡ることに少しばかり驚いた自分がいた。そして土曜までの期間に真弓と話すのは何か違和感があった。これはネガティブな違和感ではない。意識しすぎて、話しにくい自分がいたのだ。それでも、真弓は普通におはようのあいさつをしてくるし、普通に平然と過ごしている。彼女にとっては異性と出かけることはそこまで特別なことではないのだろうと思った。金曜の昼休みに真弓が話しかけてきた。
「明日だよね、ちゃんと覚えている? 遅刻しないでね。」
「おう、わかってるよ。真弓こそ寝坊するなよ。」
帰宅後、すぐに明日着ていく服を考えた。クローゼットからありったけの服を出したため、それがベットに散乱していた。さてどれを着ていくか、決めるのに二時間くらいかかった。

 当日、僕は15分前に駅前に着いた。基本的に人を待たせたくないという信条を持っているのが僕だった。そして15分前という細かい時間にも当時こだわりがあった。待ち合わせ場所に着くとまず、次起こるであろうことに自分のチャンネルを合わせる必要がある。この15分間で自分と他者、あるいは世界に対して接続する。この接続に僕はちと時間がかかるタイプだった。約束の時間のちょうど3分前頃に彼女は来た。
「早いね。白山くん。朝弱くないじゃん。」
どうやら早く来たと思われたらしい。そのことで妙にこちらのテンションが上がっていると思われたくなかった僕はこう答えた。
「僕っさ、いつも待ち合わせすると早いんだよね。今日もそう。だからさ、通常運転なんだよ。」
「そうなの。相手からすると心強いね。」
僕たちは少し立ち話した後、改札口を通り抜けた。そして停まっていた電車に僕たちは乗り込んだ。座ったタイミングで真弓は言った。
「よく考えてみたら私、黄色のチューリップ見たことないかも。」
不意に言った言葉だった。僕はすぐに答えた。
「花屋さんとかで見たことない?」
「ああ、そっか花屋さんだとあるか。でも地面に根ざしているのは見たことないはず。」
「なんだよ、根ざしているって。言い回し。おそらく自然と目に入っていると思うけどな。」
「やっぱりさ、黄色の花っていうと一般的にひまわりやタンポポをイメージすると思うけど、そう考えるとチューリップを想起する優先順位は低くなっちゃうんだよなぁ。」
僕たちはチューリップに関する半径何メートルかの話題ばかりを話した。どうやって花の色は決まるのか、周りの自然環境が異なると成長スピードが変わったりするのかなど、そして話は植物全般に移っていった。僕は植物に関してはさほど詳しくなく、幼い時に見た植物図鑑のうんちくを真弓に言ったりした。
例えば、「チューリップの球根って栗の形をしていて、なんだか玉ねぎのような姿なんだよね。」
これに対して真弓は「それ本当なの?」と半信半疑だった。
このネタも植物図鑑を見た時に思ったことであり、個人の感想にすぎない。その後も会話は弾み、あっという間に最寄駅に到着した。黄色のチューリップはここから約20分ほど歩いたところの遊歩道にある。
「あれ、猿じゃない?」
と真弓は言った。
「犬や猫の見間違いじゃない?」
と僕は即答した。
「冬眠から出てきたってことはない?」
「猿も冬眠するんだろうか?」
「熊のイメージが強いけどね。」
「天気も良いし、気持ち良い天候だから降りてきたのかもね。なんかさ、その猿がこっちだよって手招きしているように見えたんだよね。」
「急にホラーじゃん。」
「いやいや本当に。だから私たちを先導しているのかなって。」
猿が手招きするって縁起がいい話なのかわからなかった僕は返答に困った。猫が手招きしているのは金銭的に縁起が良いとイメージが湧くのだが、猿が手招きしていることが一般的な解釈でどういったことを表しているのかは想像も付かなかった。駅の南口から少し歩いたところを右に曲がるとその遊歩道は現れる。久々に来たがやはりこの道は落ち着くと思った。木々が生い茂り、緑たちがまるで優しく踊っているように感じるほど、気持ち良かった。まるで植物園かのように豊富にさまざまな植物たちが同居していた。この道に関して僕は町の美観に良い影響を与えているなと子供ながらに昔から思っていた。そして今も健在であることに嬉しさが込み上げた。僕らは駅から離れていくのに比例して進行スピードが増していった。それは期待感の現れでもあったように思う。どんどんと進んでいくと、目的である黄色のチューリップが眼前に広がった。
「綺麗。」
開口一番の真弓の言葉。
まんざらでもなく僕も素直に綺麗だとおもった。そしてこの気持ちは大事にしたいと強くおもった。黄色のチューリップたちは相変わらずの様子で、僕が前に近くに住んでいた頃と全く変わっていなかった。これは久々に友人に会った際、関係性が変わっていないときに感じる安心感と同じだと思った。
「白山くん、教えてくれてありがとね。良いものが見れました。」
と真弓は少し恥ずかしげに言った。
しかしその後、彼女は涙を流し始めた。
急なことでもあったので、僕はことを理解できなかった。
「どうした?」
と聞いても返事はない。
球根が玉ねぎのようだから目がやられたのかと言いそうになったが、それもそれで問題になると思い、言うのをやめた。
「お母さんがね、黄色が好きだったの。それで、白山くんの絵を見て、そのチューリップの黄色に何だか思うところがあって。」
泣きながらも少し笑みが見られた。僕はひとまず安心した。授業をサボって書いていた絵がまさかこのような形になるとは思わなかった。
 この後真弓は黄色のチューリップたちを、持参したカメラで撮影した。その写真をプリントしてお母さんにも共有したいとのことだった。僕らはどの構図が一番綺麗に写るかを何度も何度も確かめながら撮影した。真弓が父から借りたカメラはニコンのフィルムカメラだった。そのため、ライブビューがあるわけではないので現像してみるまではドキドキだった。途中から僕たちはお互いを取り合ったりもした。もちろん背景は黄色のチューリップ。
「白山カメラマン、今日の出来はいかがですが。」
「僕は巨匠なので失敗しません。」
「さっき明らかに手ブレしてましたよ。」
「手ブレも芸術だ。」
「岡本太郎並みの名言出ました。」
この日、すごく距離が縮まった。お互いフランクに話せるようになったし、帰りの電車もたのしかったイメージしかない。正直細かい話は覚えていない。新芽が出たような初々しさと共に加速していく高揚感が帰りの乗車中ずっと感じられた。このまま電車が止まらなければいいのにと本気で思った。
 二人でのこの日から数日後、写真をプリントしたものを見て欲しいとメッセージが来た。次の日の朝、いつもより早めに家を出た。
「おはよう。やっぱり15分前に来るんだね。」
真弓の方が先に来ていた。僕は自分のルーティンとは違うこの日の状況に少し困惑したが、次の真弓の一声で平静を取り戻した。
「巨匠の写真、ブレすぎてたよ。」
「狙ったんだよ。」
僕が撮った写真は全部下手っぴだった。
「見てよ、ここ。」
黄色いチューリップの後ろに猿が歩いていた。
「やっぱりいたでしょ。」
僕はこれ以上何も言えなかった。本当に彼女の見間違いと思っていたからだ。
「お父さんに見せたら、なんて言ったと思う?
これはお母さんだって。お母さんが二人を手招きして黄色のチューリップのところへ連れて行ったんだって。ファンタジーにも程があるよね。笑っちゃった。」
彼女の発言に対して僕はそんなまさかと思う反面、妙な説得力を感じそう思いたい自分もいた。真弓の父の意味付けにファンタジーと簡単に片付けられるほどの安っぽさは存在していない。内心、僕はその真弓の父の言動を否定できないと思った。真弓自身は父が言うことのおかしさのようなものや、子ども心があることを茶化すような意味合いでファンタジーと発言したのだと思う。でも僕はそのファンタジーを信じたい、大事にしたいとこのとき本気で思ったのだ。
教室に勢いよく駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「一番乗り。」
山田が入ってきた。山田とは中学と大学が一緒で、お互い違う高校の時もよく連んでいた。今の関係性と何ら変わりがない。山田自身も、昔も今も何も変わっていないほどそのまま大人になったような奴だった。
「いや、二番乗り、三番乗りか。お前らはやいぞ今日。なんかあったの?」
「何もないよ。朝からテンション高いな、山田は。」
僕はそう返答して、山田と教室を出て水飲み場に向かった。

 中学を卒業した後、僕たちは一度も会うことはなかった。正確に言えば、駅前で見かけることはあったがお互い挨拶をする程度で、その先の進展はなかった。中学から彼女はモテて人気があった。それは高校に進んでもそうだったと聞いている。大学以降のことは僕は知らない。彼女がいまどこで何をやっているのかも知らなかった。

 山田が病室に来た。この日僕は、黄色のチューリップの出来事について山田に打ち明けてみた。すると山田はこう言った。
「お前らさ、中学の時なぜ付き合わなかったんだ?真弓はお前のこと気に入っていたはずだよ。」
「なんでだろうな。タイミングとか色々あったんだろうよ当時は。」
「その出来事があったことを聞くと尚更付き合えたんじゃないかと思うよ俺は。」
「真弓はどうしてるの?」
「俺も詳しくはわからないけど、大学で東京出てきてそのあと結婚したらしいよ。」
「そっか。もう真弓ゆみじゃないのかな。語呂が悪くなるから結婚しても別姓を貫くって言ってたけども。」
「何年まえの話だよ。」
「そうだよな、中学の時の考えだもんな。」

 中学を卒業する間際の冬に真弓と長く話したことをふと思い出した。会話の最後の方で真弓が僕にある質問をした。
「明日から好きなことを好きなだけしていいって言われたらどうする?」
と真弓は言い、僕の顔をじっと見た。
「絵をひたすら描いてるかな。僕は。」
「授業中も休み時間も絵ばかり描いてるもんね。今すでに実現してるじゃん。」
「真弓は?何をする?」
「私はね、、、、」
途中、真弓の友達が来たことでこの話は中断された。よくよく考えると真弓自体のことを何も知らないんじゃないか、と思った自分がそこにはいた。結局、この問いに関する答えを真弓から聞くことはなかった。もしかしたら彼女は将来の話をしたかったのかもしれない。後になってそう思う時がある。

「お前、いま真弓に会いたいか?」
山田が唐突に言った。
「今度、中学の同窓会があるんだ。お前は参加厳しいかもしれないけど、俺は参加する予定で。どうやら真弓も来るらしいんだよ。」

 もちろん僕は行けなかった。もしかしたら外出の許可は取れたのかもしれないけど僕は諦めた。今になって真弓と話すのも何だか気恥ずかしく感じられたからだ。


 僕は今日も描いている。担当看護師は初芝だ。
「今日も素敵ですね。猿がチューリップ持ってる。かわいい。これ、私にくれませんか?」
僕はすぐにオーケーと言えなかった。なぜなら欠席の代わりに山田が同窓会に持っていった絵がチューリップを持つ猿だったからだ。でも本当に欲しそうな初芝の表情を見て、僕は彼女にその絵をプレゼントした。いつしかその噂が広まり、看護師さんたちに僕の絵は評判になった。また、その病棟にいる患者の何人かも絵を気に入ったらしく、リクエストは毎日のようにきた。そういった意味では僕は充実した、多忙な日々を病院内で過ごした。

 作品をつくるという意味では自由に時間を作れるようになったと思っていた。でも少しばかり僕は勘違いをしていたのかもしれない。僕はあの時から変わってしまったと思っていた。状況も含め、僕の自由さについても。社会から断絶された存在としてここにいると思っていた。だからこそ、生きた証のようなものを欲してしまっていた自分がいた。でも僕は、何も変わっていない。好きなことをやり続ける。そう、やり続けているのだ。確かに今は不自由さもそこにはあるのだけれど、僕が僕らしくいられたのは絵を描き続けたからだ。
あの時僕はこう聞きたかった。
「真弓が好きなことは何?」
そしていま僕は、あの時言えなかったこと、後悔の念から生まれたある言葉をこめて黄色のチューリップを持った猿を山田に委ねた。
「好きなことを好きと言えてますか?」

 僕の絵のことは院内でも広く知られるようになった。院長も気に入っているようで、各病棟のフリールームに僕の作品が飾られることが決まった。山田が来たときに一緒にフリールームへ見に行ってみたことがあった。その時山田は言った。
「この色彩がいいんだよなあ。」
「何わかった風なこと言っているか。」
と僕は返した。
すると目鼻立ちはっきりとした顔の子どもと車椅子に乗った目が一重で地味目な風貌のおじいさんが僕の絵を見てなにやら仲良さげに話していた。すると、
「この絵、僕でも書けそう。」
と子どもは言った。
「この絵、わしでも書けそう。」
とおじいさんも続けて言った。
それを聞いた山田はくすくす笑い始めた。
子どもは続ける。
「どうして猿がチューリップを持っているの?」
「猿が花泥棒じゃな。これはいけないことだから、
自分はやめようという戒めのための絵じゃな。」
とおじいさんが自信ありげに言った。
今度は山田が吹くように笑った。
「でも、おじいちゃん。花も猿も幸せそうだよ。」
僕らはお互い顔を見合わせ、その後フリールームを後にした。

病室に戻ると山田が言った。
「今度は人物画でも描いてみたら。」
「山田は特徴ありすぎて描きやすいな。」
「記念すべき第一号は俺か。華々しい。」
描くことが続いていく。それが僕の生きるということだった。

--完--

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