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自由と自殺についての考察
人間の本質は自由と定義される。人間とは自由な存在である。それは目の前の現実を超える想像力である。それは未来を予測する想像力である。一方で人間は死すべき存在である。そうならば、人間が自身の死を想像し、考えることはそもそも人間として本質的な思考である。従って、ヒトが死を思うことは極めて本来的な事であり、誰も何事も妨げる事は出来ない。
すると、ヒトが自身の生を終わらせること、即ち自殺を考えるのは自身の
犯行時の心理学的状態をどう説明するか
犯行時の心理学的状態は最終的に裁判所が当事者の責任能力を確定する上で大切な情報になる。しかし、その場に居てもいない他人が何からどう推測したら良いのか、大きな問題だ。
果たして犯行中の当事者の心理状態が、善悪を弁識できる状態なのか、どれほどそうなのか、酷く障害されているのか、全く喪失しているのか。これらの状態を区別して、客観的に正しく指摘することは出来るのだろうか。
普通の人にしても、犯行時に善
理非善悪の弁識能力とは
「理非善悪」とは、物事の正・不正、良し悪しのことで、「弁識能力」とはそれらを区別して分かる能力のこと。
では、ある瞬間、あるいはある時間の流れの中でその時にA氏には、理非善悪の弁識能力が必要十分に備わっていた、と説明するには、何をどう分析し、その時にA氏がいかなる状態であれば、そうであったと見做すことが出来るのだろうか。
A氏が一般の社会人として、この社会に於いて一人で考え、判断し、生きて
メモ:刑事事件における心理学的条件としての判断能力についての考え方
刑事事件に於いて、当事者の当該事件当時における判断能力はどのように考えられるべきなのか。考えたらよいのか。考えることが出来るのか。そういうことについての自分の考えを整理するためにメモしていこうと思う。ランダムな考察になるが何れは問題点を網羅したものにしたい。
『短歌人』2021年12月号掲載五首
キンモクセイが香る季節となりました夏にわかれはなかったけれど
庭の木に雀あそべる秋の日に部屋の中までキンモクセイの香
並盛のなみとおなじかナミアゲハ頭に翠のティアラがひかる
実らない花がしぼんで落ちてゐる一度は咲いた高原の道
下校時の学校の空あかね雲ドヴォルジャークは家路をせかす