ひろみこ

「 ぼ く も の が た り 」 父から徒然に聞いていた 太平洋戦争の戦前、戦中、…

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「 ぼ く も の が た り 」 父から徒然に聞いていた 太平洋戦争の戦前、戦中、戦後のエピソードをまとめています。 終戦の1945(昭和20)年は小学校2年生。場所は阿佐ヶ谷。 戦争と当時の取りとめのない日常の一コマです。 ご一読いただければ嬉しいです。

最近の記事

ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉚チンチン電車 杉並線

《 チンチン電車 杉並線 》 杉並区にもチンチン電車が走っていた時があったんだ。  都電杉並線は、青梅街道を始発の荻窪から阿佐ヶ谷を通って、高円寺、中野を過ぎて、新宿まで走っていた。真ん中よりちょっと北側にレールが敷いてあって、そこをゆっくりと運行していた。お袋の実家が中野の鍋屋横丁の近くで、阿佐ヶ谷から行くには都電が一番便利だったから時々一緒に乗って遊びに行っていた。  車両は一両しかなくて、ホームも無かった。電車が来ると走ってる車が止まってくれて、お袋も「すみません」なん

    • ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉙茶畑・養蚕・石鹼作り

      《 茶 畑 》 杉七の西にあった親父の畑は、もとは鍬太郎が貸家にしていた建物があったけれど、戦争で焼けちゃって、親父が焼け跡をきれいにして畑にしていた。そして、その周りには茶畑があった。別の地主さんがお茶を作っていて、阿佐ヶ谷でも茶摘みが見られたんだ。あさがや茶なんて聞いたことないから、自分たちや仲間うちでの飲んでいたもかもしれない。うちでもお茶は毎日よく飲んでいたたし、誰が来てもお茶を出して話をしていた。だから僕も今でもお茶が大好き。  茶畑はなくなってしまった。戦争で多く

      • ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉘三角乗り・野球と相撲   

        《 三角乗り 》 小学生でも子供たちの行動範囲は広かった。子供用自転車なんてないから、大人用の大きな自転車で、三角乗りって言ってちょっと変わった乗り方をしていた。サドルの下の三角に空いてるところに右足を入れて、右のペダルに乗せて、左足でキックボードみたいに地面を蹴って、安定したら左足もペダルに乗せる。そして、ペダルをクルクル回さずに半回転だけさせて前に進むんだ。大人の自転車は大きくて足がとどかなくて乗れないから、子供たちはみんな三角乗りをしていた。  道路は今みたく整備されて

        • ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉗民主化へ・弟、タケヒロ

          《 民主化へ 》 マッカーサー率いるGHQは日本の軍主主義を排除して民主化をはかった。僕たちの学校も色々なことがガラッと180度色が変わった。  教科書は戦争や天皇に関することは全部が不適切とされた。国語なんてほとんどが戦争とか神の国とかの話しだったから全部ダメ。だから先生たちが教科書を墨で黒く塗りつぶした。真っ黒け。何が書いてあるかさっぱりわからない。  体育の時間も、それまで歩く時は隊列を組んで行進してたんだ。それもダメ。癖になってたから、つい手足を高くあげて行進してしま

        ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉚チンチン電車 杉並線

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉖ギブミーチョコレート・危険な食料

          《 ギブミーチョコレート 》 終戦後しばらくすると阿佐ヶ谷にも進駐軍って言って日本を統治し始めたアメリカ軍がよくやってきた。アメリカ軍のことをヤンキーと呼んでいた。    ヤンキーたちはジープに乗って青梅街道沿いをよく通っていた。子供たちはジープ見つけると「ギブミーチョコレート」って叫びながら追いかけた。そうすると止まってくれたから、大勢の子供が群がった。  ヤンキーはお菓子をいっぱい持っていた。ちゃんと一人一人に行き渡るだけのお菓子を気前よくくれて、配り終えるとまた走り去っ

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉖ギブミーチョコレート・危険な食料

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉕空き地のアキラさん・大人たちの内緒話

          《 空き地のアキラさん 》 僕が友達と遊んでいる空き地に、足が悪くて歩けないアキラさんって25、6歳くらいのお兄さん一人で遊びに来ていた。足が悪いから地べたに座って子供たちが来るのを待っていた。子供たちとベーゴマやメンコ遊びを一緒にやろうと待っているのだけれど、地べたを這うように近づく姿が怖かったのと、子供たちに手加減しないかったから一緒に遊ぶのを嫌がる子もいた。  僕はなぜか嫌いではなかったから一緒に遊んでいた。アキラさんは人気のあった野球選手のメンコをいっぱい持っていたの

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉕空き地のアキラさん・大人たちの内緒話

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉔ おまじない・軍医さん 

          《 おまじない 》 お袋は、ちょっと変わった特技があって、火傷を治すのが得意だった。       お風呂屋で熱湯で火傷してしまった人に呼ばれて、お袋がまじないをしたら、痛みが取れたと喜んでいた。近所の人も親戚も、火傷したり怪我をしたりするとお袋のところへやってきた。時々変なアドバイスもあって、「座布団の下に物差し(定規のこと)を入れて座っててください」なんて。でも不思議と翌日になると、「おかげですっかり痛みが取れた」なんてお礼を言いに来た。  寝る前には正座して東西南北を向い

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉔ おまじない・軍医さん 

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉓電気パン・釣り・風呂の水

          《 電気パン 》 僕の家は戦争で燃えなかったから、戦後は色々な人が間借りしていた。 ずっと住むわけではなくて家が建つまでの間うちに住んでいたんだ。  戦後しばらくいた親戚の家族に、テルオちゃんとタカシちゃんって言う中学1年生と5年生の兄弟がいた。僕と年が近かった弟のタカシちゃんとは話がよく合って、ずいぶん一緒に遊んでいた。中1のテルオちゃんはとっても大人に見えた。  テルオちゃんはすごく器用で、ある日、「電気パン」を作るって言うので僕はそれをずーっと見ていた。  箱を作って

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉓電気パン・釣り・風呂の水

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉒被爆者・富裕税

          《 被爆者 》 1945年(昭和20年)8月6日と9日に落とされた広島と長崎の原爆は、始めは大きな爆弾としか思っていなかったけど、だんだんと新聞などで被爆の恐ろしさがわかってきた。と同時に、 「なんだか放射能とやらで、原爆を受けた人のそばに近づくと自分もやられちゃうから、絶対に近寄るな」 って言うデマが流れた。  だから、原爆をうけて東京に流れてきた人は、広島から来たとわかっただけでみんなに追い出された。追い出された人は、水を求めてどっかの川っぷちに逃げて行ったから、玉川の川

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉒被爆者・富裕税

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉑取られてしまったケヤキの森・阿佐谷囃子 

          《 取られてしまったケヤキの森 》 前にも書いたように、僕のうちはたくさんのケヤキの木の囲まれていて「横山の森」と言われていた。ケヤキは戦争中、僕の家を隠してB29から守ってくれた。夕方になると怖くて歩けないほどの森で、ちょうちんを持って歩いても怖いほどだった。  しかし終戦直後、そのケヤキの森は強制的に国に伐採されてしまった。  空襲で東京中が燃えたので、家を建てる木材が足りなくなった。そのため、町に残っている木は全部持ってこいって、政府が命令した。 「嫌だ」 なんて言って

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉑取られてしまったケヤキの森・阿佐谷囃子 

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑳着物とサツマイモ・農地改革

          《 着物とサツマイモ 》 親父の仕事は百姓と植木屋だから、戦争が終わったらすぐに関町に借りている畑へ行って、爆弾で大きな穴が空いている畑に土を運び、また作物を作り始めた。  戦後しばらくは本当に食べ物がなかった。戦争中は配給と言って国が決まった量を国民に割り当ててくれたんだ。お米や味噌、石鹸とか生活用品も。 家を失ってしまった人たちにも配給はあったし、隣組で用意してくれて、困った人には炊き出しをして食事を配ることもあったから、少なくとも飢えることはなかった。  けれど戦争

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑳着物とサツマイモ・農地改革

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑲おくむら君・製粉業とうんこ売り

          《 おくむら君 》 僕が小、中、高と一緒だった親友の奥村は、もともとは日本橋の駅から歩いて1分のところに住んでいたけれど、戦争で家が焼けてしまい、阿佐ヶ谷に家を借りて移り住んだ。  東京の良いところに住んでいた人たちがみんな焼夷弾にやられて、あちこちに避難してきていた。阿佐ヶ谷に引っ越してきた人も多かった。  奥村の借りた土地はむかし田んぼだったから、大水が出ると家が水浸しになちゃう。だから、 「こんなところに住んでいるわけにはいかないなぁ」と、話していた。  女ばっかりの5

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑲おくむら君・製粉業とうんこ売り

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑱神社とお寺とキリスト教・自転車ドロボー

          《 神社とお寺とキリスト教 》 仏もキリスト教もよく分からなかったけど、神社やキリスト教会は何かあるとお菓子をくれた。みんな貧乏だし、戦争で家さえない人たちも多かったから、 「母ちゃんお菓子ちょうだい」と言っても、やっぱり、 「そんなもんないよ!」って言われた。  神社か教会の両方行ってれば、どっちかでお菓子をもらえた。近所の人は 「よくお菓子買えるわねぇ」と、教会を心配していた。  教会はあちこちにあった。僕が通いはじめた学習塾の中に教会があって、先生がクリスチャンだった。

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑱神社とお寺とキリスト教・自転車ドロボー

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑰紙芝居

          《 紙芝居 》 戦争が終わって、僕の一番の楽しみは紙芝居だった。紙芝居のおじさんは、紙芝居とお菓子をいっぱい載せた自転車で、あちこちの空き地を順繰りに回っていた。「黄金バット」が面白くて、来てくれるのが本当に待ち遠しかった。  紙芝居が来るときは空き地に早く来て陣取りをして待っていた。早く行くと、紙芝居のおじさんが、 「坊やの家はこの辺かい?」 「そうだよ」 「子供がどこにいるかわかるかい?」 「うん。わかるよ」 「ならこの周りを一回りしてきておくれよ」 って、子供たちを集

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑰紙芝居

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑯物干し泥棒

          《 物干し泥棒 》 小学2年の終戦からその後の数年間、日本はなにしろ貧乏になった。戦争で両親が死んじゃった戦争孤児もいっぱいいた。汚れて道端にただ座ってたむろしていた。空襲から阿佐ヶ谷に逃げてきた孤児たち。あの子たちはどうなったんだろうと今でも時々思う。  戦争で焼けて家がない人も多かった。阿佐ヶ谷も線路に近い家はみんな燃やされて、バラックが点々とあるだけだった。多くの人が燃え残った廃材を集め、焼けトタンを屋根にして4本の柱で雨風をしのげるだけのバラックを作って、そこで生活

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑯物干し泥棒

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑮爆弾遊び・金属探し

          《 爆弾遊び 》 戦争が終わって校庭に行ったときには、焼夷弾の燃えカスや日本の兵隊がいた時の鉄砲の弾なんかがいっぱい落ちていた。みんなそれを拾って、中には火薬が入っているのもあったから、その火薬を取り出してマッチで火をつけて、バーっと燃えるのを見て楽しんだりしていた。  そのうち火薬遊びの爆発で、指が何本もふき飛ばされちゃった人がいるという話を聞いて、「絶対に爆弾にはさわるな」と言われるようになった。   でも大人たちは、戦争に負けたショックからか、ただ茫然としているから片付

          ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑮爆弾遊び・金属探し