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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑳着物とサツマイモ・農地改革

《 着物とサツマイモ 》

 親父の仕事は百姓と植木屋だから、戦争が終わったらすぐに関町に借りている畑へ行って、爆弾で大きな穴が空いている畑に土を運び、また作物を作り始めた。
 戦後しばらくは本当に食べ物がなかった。戦争中は配給と言って国が決まった量を国民に割り当ててくれたんだ。お米や味噌、石鹸とか生活用品も。 家を失ってしまった人たちにも配給はあったし、隣組で用意してくれて、困った人には炊き出しをして食事を配ることもあったから、少なくとも飢えることはなかった。
 
 けれど戦争が終わったら、今まで日本をはなれていた兵隊さん達がいっせいに帰ってきて、その数600万人以上。だけどあちこちの畑はうちの畑と同じに、荒れ果てて作物なんか作れてなかった。今は輸入があるけど、日本は世界中を敵にしてたんだからそれもない。だから食糧難が一気にやってきた。配給も止まっちゃって、店に行っても食べ物は全く売ってない。
 
 親父はなんとか食料を手にしようと、うちの着物や置物などの高価なものをいっぱい背負って、埼玉の川越まで食料調達に行っていた。毎回いくつかの農家を回って、持ってきた着物などを、米や味噌と交換してもらった。
 それも食糧難が深刻化してだんだん厳しくなり、代々伝わった着物や置物を持って行っても、たった2、3本のサツマイモしかもらえなくなった。 
 帰ってきた親父は「情けねぇ」「悔しい」って涙を流して。寝る間を惜しんで自分の畑が元通りになるように耕し続けて、少しずつまた作物を収穫できるようになった。
 
 でも、親父も分かってたんだ。農家の人たちも本当に必要なのは木綿の着物だったってこと。高価で派手な絹の着物なんか洗濯できないし、第一それで畑仕事なんて出来ない。必要ないものを出されて、貴重な食料と交換してくれって言われて。2,3本でももらえて助かったんだ。だから、親父も畑仕事を頑張れたんだ。
 誰がわるいってんじゃないんだ。悪いのは戦争だから。

《 農地改革 》

 吉田茂首相が1946年(昭和21年)、今、畑を借りて耕している小作人がその畑をもらってよい、的なことを決めた。
 正しくは、今実際に地主が耕していない土地を国が強制的に買い上げて、安く小作人に売りわたすこと言うこと。日本を統治していたマッカーサー率いるGHQが決めたんだ。小作人も人の土地を耕すより、自分の土地を耕して方がやる気が出るだろうって。そうやって生産を向上させて食糧難を乗り切ろうって。

 親父も関町の親戚に広い畑を借りていた。中田さんて親戚だ。もし畑をもらっていたら今頃すごい大地主だった。けれど親父は、
「借りたものは返す。助かったんだ。お芋もお米もできて、それは中田さんのおかげだ」とその土地を返した。 中田さんは先祖代々の土地が取り上げられないでとても感謝してくれた。

 地主と小作人でひと悶着あった人もいた。親戚から借りていた土地を返さなくて、そのまま仲たがいになったんだ。農地改革で得られた畑を、後になって家を建てたり売ったりするには、隣の土地の持ち主に色々と協力してもらわないと出来ない。その周囲の人に協力してもらえなくて、その後残された家族が苦労することになった。

 隣地の人の協力が得られずに空き地のままになった土地。良く話し合って納得できるような優しい政策じゃなかったから、恨みが残ることがあった。それから80年近く経った今でも空き地のままの土地があるんだ。
 親父は「苦しい時に畑を貸してくれた」その恩を忘れなかった。
 
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