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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑲おくむら君・製粉業とうんこ売り

《 おくむら君 》

 僕が小、中、高と一緒だった親友の奥村は、もともとは日本橋の駅から歩いて1分のところに住んでいたけれど、戦争で家が焼けてしまい、阿佐ヶ谷に家を借りて移り住んだ。
 東京の良いところに住んでいた人たちがみんな焼夷弾にやられて、あちこちに避難してきていた。阿佐ヶ谷に引っ越してきた人も多かった。
 奥村の借りた土地はむかし田んぼだったから、大水が出ると家が水浸しになちゃう。だから、
「こんなところに住んでいるわけにはいかないなぁ」と、話していた。
 女ばっかりの5人兄弟で、男は奥村一人、あとの4人は女子だった。家は姉妹が着替えていると外から丸見えで、遊びに行くと奥村が、
「見るなー!」って。それでお姉ちゃんたちの、
「終わりましたよー」の声で安心して家に入った。
 
 奥村のお父さんは早くに亡くなって、五人の子供を母親一人が育てていた。だから奥村は本当に苦労をしたんだ。残された女ばっかりの家族の、たった一人の男だったから。それで小学校3年生のとき、
「ぼくがアルバイトをして家族を食わせるんだ」
と、納豆売りのアルバイトを始めた。「なっと、なっとー」って言って売り歩くアルバイト。
だから僕は、
「毎日僕の家にきて」って言った。すると、
「功ちゃん」って来たから、毎日3つか5つは買っていた。
で、うちも毎日納豆を食ってさぁ。そしたら親父が、
「いくらなんでも、こう毎日納豆じゃ、いくら美味しくても飽きちゃう。たまには断れよ」って。なんで、
「本当に申し訳ないけど、納豆食べ過ぎて飽きちゃってるから、何日かに1回くらいにして」と。
そうしたら、何日かおき、3日おきくらいに来た。
奥村はずいぶん長い間納豆売りをやっていた。 

《 製粉とうんこ売り 》

 戦争に負けてみんなが貧乏だったので、親父がやってる植木屋なんて頼む人は誰一人いなくなった。それで親父とお袋は製粉業を始めた。僕の家には、粉をつく機械とお米を精米する機会があった。上から小麦を入れてモーターをグルグル回して動かすと下から粉になって落ちてくる。
 白いお米なんてなくて茶色い玄米しかなかったから、お米を白くするには精米が必要だったし、小麦も粉では売っていなかったから、それを商売にしたんだ。
 あと、賃餅(ちんもち)。もち米はお客さんが持ってくるから、お餅にする加工料をもらっていた。そういうのを賃餅と言った。
 もち米を蒸かして機会に入れると、穴からニョロニョロとお餅が出てきた。で、親父とお袋が一生懸命に平らにのしてた。僕もよく手伝った。それを届けたり、小麦粉にする小麦を預かりに行ったりしていた。近所の人たちがよく頼みにやってきてけっこう繁盛してきた。
 でも、軌道に乗り始めた時、親父の手元がくるってモーターのベルトに手を挟んで切っちゃって、いっぱい血が出た。それで、
「もう怖くて出来ねぇ」とやめちゃった。お袋も、
「怪我してまでやらなくていいから」って。やめてくれって。
 
 汚い話だけど、うんこ、も売っていた。少しでもお金が欲しいから、親父は農家まで僕の家のうんこも売りに行っていた。ちゃんと買ってくれる農家があった。その頃の畑では肥料として人間のうんこを使ってたのでうんこも貴重だった。
  親父は阿佐ヶ谷囃子と言うお囃子の保存会長もしていて、夜になるとお囃子連中がやってきて練習していた。うちは阿佐ヶ谷囃子の集会所でもあり、教習場でもあったから、いつも家には人が集まっていた。だから普通の家のトイレは小さい瓶だけど、うちのトイレの瓶は大きかった。まだトイレが水洗でない時。
 田んぼの脇にはバカでかいうんこ溜めがあった。時々酔っ払いが落ちて、お風呂と間違ってた。
 戦前のまだ平和に畑を耕していた頃は、親父も町までうんこを買いに行っていた。うちだけにくれるように契約もしていた。めちゃくちゃSDGsな時代。うんこも立派にお金になった。
 

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