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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉘三角乗り・野球と相撲   

《 三角乗り 》

 小学生でも子供たちの行動範囲は広かった。子供用自転車なんてないから、大人用の大きな自転車で、三角乗りって言ってちょっと変わった乗り方をしていた。サドルの下の三角に空いてるところに右足を入れて、右のペダルに乗せて、左足でキックボードみたいに地面を蹴って、安定したら左足もペダルに乗せる。そして、ペダルをクルクル回さずに半回転だけさせて前に進むんだ。大人の自転車は大きくて足がとどかなくて乗れないから、子供たちはみんな三角乗りをしていた。
 道路は今みたく整備されてなくデコボコしていて、慣れないとよく転んだでしまった。転んで痛くて泣きたくっても、とにかく帰らないといけないし、それを怖がっちゃどこにも行けないからって頑張ってこいでいたら、上手くなって転ばずにどこにでも行けるようになった。

 吉祥寺の井の頭公園にもよく遊びに行って、夏になると弁天池で泳いでいた。今はヘドロだらけの池になちゃたけど、昔は水の底が見えるくらい透き通っていてきれいな水だった。夏になると大人も子供も、泳ぐ人がいっぱいいたんだ。
 遠足で行ってた豊島園や三鷹の野川公園、新宿まで。新宿は高いビルはまだ全くなかった。復興のため、あちこちで突貫工事をやっていて、それを見ながら行くのが楽しかった。

三角乗り(資料/自転車文化センター) 

《 野球と相撲 》

 小学校も高学年になると、野球と相撲が僕たちの遊びの中心だった。
 僕と仲が良かった石屋のコウちゃんは野球が上手くて足も速くて、草野球で一番活躍できたから人気者だった。僕は球がほとんど当たらなかったけど、当たると遠くへ飛んだ。でも、上手いところへ当たってくれないと明後日の方へ飛んでちゃった。
 読売新聞で後楽園球場の野球観戦のチケットをタダでくれたから、友だちとよく行っていた。試合前早くに球場へ入って、あっちこっち駆けずり回って遊んだ。手すりに乗って滑ったりしていた。
 戦後は娯楽がなかったから、観客も夢中になって応援していた。ヤジもすごかったんだ。見てる人がすげー悪口を言っていた。日頃のストレスを野球で発散していた。エラーなんかするとさらにすごくなって、選手に向かって「下手くそー!」「やめちまえー!」なんて怒鳴っていた。
 だから選手も「うるせー!」とか言い返していた。
 巨人対阪神戦の試合は特にすごくて、みんな狂ったように応援していた。ファン同士のケンカも多かった。時々ヤクザが中に入って、後から脅しをかけてきていた。

 相撲は空き地に丸く円を作って、西と東に分かれて「僕が横綱」とか「なら僕は大関とか」言っておおぜいで遊んだ。大相撲も子供たちにすごく人気があった。僕は相撲は強くてみんなをやっつけた。
 杉七の前には花籠部屋って言う相撲部屋があったから、のぞくとお相撲さんの稽古が見られた。阿佐ヶ谷には多くのお相撲さんが歩いていて、お相撲さんが頭につける、びんつけ油の匂いがあちこちに漂っていたんだ。お相撲は子供たちにすごく身近だった。
 花籠部屋からはその後、第45代横綱の若乃花、輪島など活躍するお相撲さんをいっぱい出した。 そのあと阿佐ヶ谷には放駒部屋、二子山部屋も出来て、「東の両国・西の阿佐ヶ谷」と言われるくらいにお相撲で有名な町になったんだ。

                           つづく

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