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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉓電気パン・釣り・風呂の水

《 電気パン 》

 僕の家は戦争で燃えなかったから、戦後は色々な人が間借りしていた。 ずっと住むわけではなくて家が建つまでの間うちに住んでいたんだ。
 戦後しばらくいた親戚の家族に、テルオちゃんとタカシちゃんって言う中学1年生と5年生の兄弟がいた。僕と年が近かった弟のタカシちゃんとは話がよく合って、ずいぶん一緒に遊んでいた。中1のテルオちゃんはとっても大人に見えた。

 テルオちゃんはすごく器用で、ある日、「電気パン」を作るって言うので僕はそれをずーっと見ていた。
 箱を作って、そこに銅板って言って銅で出来た板をはじとはじに2枚入れる。銅って言うのは電気を一番通じさせるやつだと教えてくれた。
 そこにメリケン粉(小麦粉)を水で溶かして入れて、電気を通すとメリケン粉が熱を出しはじめて、それが美味しいパンになった。
 テルオちゃんはそれからよく作ってくれてみんなで食べた。

《 間借りしていた人たち 》

 テルオちゃんは釣りも好きで、よく釣り堀の金魚の釣り方を教えてもらった。僕もすぐに釣れるようになった。すぐに釣れちゃう。釣れすぎて困るくらいに釣れた。その釣り堀は寿々木園って言って今も阿佐谷にある。今は大人のお客さんが多いけど、昔は子供たちがいっぱいいた。
 ツヨシさんって言う遠い親戚のお兄さんも、兵隊から帰ってきてうちでずっと下宿をしていた。ツヨシさんも釣りが好きで、よく善福寺川に連れて行ってもらった。善福寺川は昔は大川と言って、ホタルがいるくらいキレイな川で魚もいっぱいいた。そこに行ってタナゴやフナを釣ったり。釣り方もよく教えてくれたし、釣り竿も作ってくれた。だから僕も一人でも釣りに行けるようになったんだ。

 レイ子ちゃんて女の子は、こたつの中で遊んでいたら、突然泣き出して、「わー!」っと声を張り上げて大人しくなった。僕は何かおかしいとお袋に言ったら、たどん中毒(一酸化炭素中毒)だった。慌てて外に出て深呼吸をさせたら正気にもどった。むかしのこたつは火鉢に炭を入れて燃やしていたから危険だった。
 うちにいる間に出産した人もいた。大勢の女の人たちが集まってお産をしていた。赤ちゃんは夜泣きするから「うるせー」とか言われて「ごめんなさい、ごめんなさい」って外に出てあやしていた。

《 風呂の水 》

 そんな風にうちにはたくさんの人が間借りしていたし、近くの親戚がお風呂だけ借りにも来ていたから、大勢のひとがみんなうちのお風呂に入っていた。
 その時水道がなかったから、いくら汚れてもお風呂の水をなかなか変えられなかった。変えるには井戸から水を持ってきて、窓から入れなくてはならなかったから。
 戦争で負けてどこの家も水道なんか出なくなっていた。だから井戸からみんなでバケツリレーして、風呂に誰か一人いないと水を入れられなかった。

 お風呂は五右衛門風呂と言って、風呂の下から薪を燃やして沸かした。薪と言っても、ちゃんとした薪なんて贅沢なものではなくて、そこらへんで燃えるものを拾ってきて燃やした。井戸は鶴瓶井戸(つるべいど)って言って、バケツに縄を付けて下から汲んで持ってこなければならなかった。
 1回のお風呂で何十人も入ってた。7、8センチくらい垢が溜まっていたけれど、それを取っちゃうとまた水を足すのに大変なので取れなかった。
 みんな垢をよけて入っていた。

                           つづく



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