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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉒被爆者・富裕税

《 被爆者 》

 1945年(昭和20年)8月6日と9日に落とされた広島と長崎の原爆は、始めは大きな爆弾としか思っていなかったけど、だんだんと新聞などで被爆の恐ろしさがわかってきた。と同時に、
「なんだか放射能とやらで、原爆を受けた人のそばに近づくと自分もやられちゃうから、絶対に近寄るな」
って言うデマが流れた。
 だから、原爆をうけて東京に流れてきた人は、広島から来たとわかっただけでみんなに追い出された。追い出された人は、水を求めてどっかの川っぷちに逃げて行ったから、玉川の川のふちには、原爆を受けて逃げてきた人たちが集まって、あちこちから拾ったガラクタで掘っ立て小屋を建てていた。
 
  自分が被爆者だってことは絶対に人には言えなかった。言ったら、聞いた人はオバケを見るように遠ざかってしまったから。
「被爆者」って言葉はなかったけど、とにかく原子爆弾ってひどいやつにやられたって言うと、みんな気味悪がって相手にしなかった。
「向こう行け、向こういけ!」って言われて。
 広島や長崎じゃ生活できないから、なんとか親戚を頼りにこっちの方へきたんだろうけど、被爆者ってわかると相手にされなかったし、被爆者が死ぬとみんなが気味悪がった。
 被爆者の人は可哀そうだとしか言いようがなかった。

《 富裕税 》

 1950年(昭和25年)、吉田内閣が今度は、とにかく取れるところから税金を取れ!って、富裕税と名付けて土地を持っている人にものすごい重税をかけたんだ。
 国民はみんなお金がないし売れるものも持っていない。唯一手っ取り早く売れるのは土地。国は土地をを売らせて、そのお金を収めさせようとした。
 なので地主はみんな泡を食ってノイローゼになる人もいた。

 親父もすごく困った。いきなり借地を売るのも借地人に申し訳ない。困ったあげくに、なんとうちの家を勝手に売りに出しちゃったんだ。
 何も知らないお袋に近所の人が、
「おたくの家が売りに出されてる」って話したそうで、
「そんなバカな」
って、不動産屋に行って、
「本当に頼んだんですか?」って聞いたら、
「ああ、そうだよ。おたくの旦那さんが来て、売ってくれって頼んだんだよ」って。
 お袋が帰ってきて、とにかく自宅を売るのだけは止めてくれって。もう、親父に泣いて頼んだんだってさ。じゃぁ、って親父も、
「うちを売るのはやめるか…」って。
で、不動産屋に家を売るのは取り下げてもらって、何とか別の方法で税金を払うことを考えた。
 
 それで親父は杉並の都税事務所の小使いをはじめた。その給料を全部税金にあてて少しでも足しにしようと思った。食い物はうちの畑で何とかなるから。それでしのいで生活をしていた。親父は杉七の先の焼け跡を、片付けて耕して畑にしていた。
 小使いの仕事は都税事務所内の掃除とか雑巾がけ、郵便物の整理とかお茶くみ。朝と昼には必ず、働いている人たちみんなにお茶を沸かして配った。
「おーい、小使いさん、小使いさん」って呼ばれて色んな雑用を何でもやった。
 親父は今までそんな事やったことなかったんだ。親父は百姓っきりやったことがなかった。けれど、うちのためだからって、我慢してやっていた。
 
 周りの人たちの中には、
「あの横山さんが小使いさんとは、ずいぶんと地に落ちたもんだ」とか、
「プライドもあったもんじゃない。横山も終わりだね」とか、色々言われた。
ほかの地主からも、
「いくら困っても、小使いってだけで地主の名誉が損なうだろ」
って、とめられたりもした。ここら辺の地主で小使いをやったのは親父だけだった。
 
 そのうちだんだんと世の中が落ち着いてきて、土地の値段が少しずつ上がりはじめた。それで、土地を譲ってくれって言う借地人もあちこちから出てきて、
「しょうがねぇ、金がないんだから土地を売るしかしょうがねぇ」
って言って、借地人に土地を売ってそのお金でしのいだ。

 結局親父は、11年と7か月、小使いを務めた。税金支払いのための借金も返した。親父は晩年、酒を飲んで酔っ払っては、
「俺は11年7か月小使いをやってきたんだぞ。そのおかげで今のお前たちはいるんだぞ。」って、言っていた。
  余談だけど、親父はもし家を売っていたら、疎開していた長野か山梨あたりに引っ越そうと思っていたそうだ。

                         つづく



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