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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑰紙芝居

《 紙芝居 》

 戦争が終わって、僕の一番の楽しみは紙芝居だった。紙芝居のおじさんは、紙芝居とお菓子をいっぱい載せた自転車で、あちこちの空き地を順繰りに回っていた。「黄金バット」が面白くて、来てくれるのが本当に待ち遠しかった。

 紙芝居が来るときは空き地に早く来て陣取りをして待っていた。早く行くと、紙芝居のおじさんが、
「坊やの家はこの辺かい?」
「そうだよ」
「子供がどこにいるかわかるかい?」
「うん。わかるよ」
「ならこの周りを一回りしてきておくれよ」
って、子供たちを集めるための拍子木を渡してくれた。僕はこの拍子木を叩くのも大好きで、近所を叩いて歩いた。おじさんは拍子木をカチャカチャとたくさん持っていて、それを鳴らせた子たちに少しお駄賃やお菓子をくれた。

 戦争で家さえない人たちもいて、お菓子を買えるような親はいなかった。
 紙芝居のおじさんたちは、青梅街道沿い移動して商売をしていたから、子供たちの方が子供のいる場所を知っていた。拍子木のカチカチの音で自然と子供たちが集まってきた。
 僕は紙芝居のおじさんに可愛がられて、
「10人集めてくれたら水あめをあげるよ」
って、一人でも子供が多く集まるとおじさんが喜んでくれた。
 子供がいるところを知っているのは子供と、おじさんも分かっていた。
 
 紙芝居のおじさんは大人で、商売で紙芝居をやってるから、お菓子を買った子は前に座らせた。「買う子は前、買わない子は後ろ」ってはじめにお金持ってるか持っていないか確認するおじさんもいた。
 買えない子は後ろの方で可哀そうだった。でもおじさんは「帰れ」とは言わずに、アルバイトとして使ってやった。
 紙芝居の前でおじさんが拍子木を打っていると、その間におじさんの金目のものを盗もうとする人もいた。だからおじさんは子供たちに拍子木をならせて、自分は自転車を守っていた。水あめが安くて一番買いやすかったから、水あめの割りばし(その頃は竹串)を盗まれると大変だった。割りばしは高価だったし、子供たちにも売れなくなっちゃう。割りばしさえない時代だった。
 たまにアルバイトの子が「火の用心」とか言ってふざけると怒る人もいた。雨の日は、「お煎餅が湿気るから、早く買って」とか、「お煎餅買ってくれたらオマケするよ」とか言われていた。
 
 子供でも怪しい子はいた。近隣の子たちが集まっているのに見ない顔があるとすぐバレた。
「お前どこの子だ」
「そ、そこの子だよ」
「ウソだ!」って、殴られると、
「ごめんなさい」と泣いた。
「正直に言えば殴らなかったのに」なんてよくあった。
 だから、ウソをつく子はあまりいなかった。ウソをつくとこらしめられたり、友達がいなくなるから。
 紙芝居を中心に僕は色んなことを学んだんだ。

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