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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉔ おまじない・軍医さん 

《 おまじない 》

 お袋は、ちょっと変わった特技があって、火傷を治すのが得意だった。     
 お風呂屋で熱湯で火傷してしまった人に呼ばれて、お袋がまじないをしたら、痛みが取れたと喜んでいた。近所の人も親戚も、火傷したり怪我をしたりするとお袋のところへやってきた。時々変なアドバイスもあって、「座布団の下に物差し(定規のこと)を入れて座っててください」なんて。でも不思議と翌日になると、「おかげですっかり痛みが取れた」なんてお礼を言いに来た。
 寝る前には正座して東西南北を向いて拝んでいた。拝んでいる時は集中してて、話しかけてもずっと拝んでいた。それがお袋にとっては大切な時間なんだと僕も邪魔はしなかった。
 そんなお袋が死ぬ時は、明け方まだ暗い時に布団に入りながら「お水を一杯持ってきてくださいな」と親父に言った。そんなこと頼まれるの初めてなので珍しいと思ったけど、水を汲んで「はいよ」って枕もとに置いたら、「ありがとうございました」って丁寧にお礼を言った。朝明るくなった時には冷たくなっていた。安らかな顔で。自分が死ぬのを分かってたのかもしれない。

 近くにお医者さんは出来てはいたけれど、そんなふうにまだまだ「おまじない」が身近で拝む先生もいた。荻窪の駅前にいたから、急病人が出たり何か良くないことが起きると急いで人力車で呼びに行った。
 すると先生が「お稲荷さんが怒っている」なんて言って、お稲荷さんを見ると案の定、落ち葉に埋まって汚れていた。「お稲荷さんの祟りだ!」と慌てて掃除をすると、不思議と原因不明の高熱も下がった。
 阿佐ヶ谷の古い家の多くは庭にお稲荷さんがある。建て替えなどでお稲荷さんを取っ払ってしまった家はみんな没落してまった。拝む先生は「祈祷師(きとうし)さん」と言って今もお願いをしている。「おなじない」は令和の今でも100年以上続いてる。

 《 軍医さん 》

 杉七には校医として倉本閣下と言う軍医さんがいた。ヒゲを生やして馬に乗って移動していたから「お馬の軍医さん」とか「ヒゲの軍医さん」「お馬の閣下」とか呼ばれていた。馬に乗っている時は腰に小さな刀も下げていた。近くに住んでいたからその姿をよく見て、「カッコいいなぁ」と思っていた。やっぱり軍人さんだから厳しくて、「男だろ!泣くな!」とか言われた。急病人はリヤカーに乗せられて軍医さんのところまで運ばれていた。

 この軍医さんがいたこともあって、戦争中の杉七は学校の訓練には力が入っていた。1943年(昭和18年)には陸軍の超~お偉いさんの土肥原大尉が杉七の国防訓練を視察に来た。この時は親父も植木職人として杉七の植木の整備をしたんだ。雑誌の「アサヒグラフ」で取り上げられたり、ニュースにもなった。
 でも戦争が終わって、土肥原陸軍大尉は極東国際軍事裁判(別名、東京裁判)のA級戦犯として死刑になった。
 軍医さんは戦後も阿佐ヶ谷に残って医院をしていた。戦争が終わると少し優しくなったと周りの人が言っていた。

杉七に来た土肥原陸軍大尉

                             つづく

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