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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉚チンチン電車 杉並線

《 チンチン電車 杉並線 》

 杉並区にもチンチン電車が走っていた時があったんだ。
 都電杉並線は、青梅街道を始発の荻窪から阿佐ヶ谷を通って、高円寺、中野を過ぎて、新宿まで走っていた。真ん中よりちょっと北側にレールが敷いてあって、そこをゆっくりと運行していた。お袋の実家が中野の鍋屋横丁の近くで、阿佐ヶ谷から行くには都電が一番便利だったから時々一緒に乗って遊びに行っていた。
 車両は一両しかなくて、ホームも無かった。電車が来ると走ってる車が止まってくれて、お袋も「すみません」なんてお礼をしながらで電車に乗った。
 電車に乗ってると窓から友たちが道にいるのもよく見えて、手を振ったら面白がってずーっとついてきていた。電車はゆっくり動くし次の停留所まですぐだから、追いこされては笑われていた。僕も恥ずかしくなって「歩いたほうが早いよ」ってお袋に言っていた。
 途中に車庫があって車両の入れ替えがあるといったん車庫に寄った。車両の入れ替えで停まった時はずーっと待たされる。一時間くらい。その間は車庫の近くの駄菓子屋さんに行ったりして時間を潰していた。お菓子を買ってもらえるから、その時間も僕にとっては貴重だったけれどね。
 ゆっくりと風景が見られるのも好きだった。高いビルなんて全くなかったし、平屋の商店がずっと並んでいた。新宿の街へ行き来する荷物を満載したリヤカーも多くて、人力だったり自転車につなげてたくさんの荷物を運んでいた。その中には新宿のうんこ(肥え)を売りに来るリヤカーもあった。僕も親父のリヤカーに乗せてもらって、チンチン電車の横を通って関町の畑まで行ってたんだ。

 戦争でいくつかの車両が燃えて無くなったり、途中の道路や、荻窪の天沼陸橋も爆弾の被害に遭ったから道も悪くて、さらにゆっくりとしか進めなくて、戦後はすごく混んでいた。
 新宿や鍋屋横丁には大きな闇市があって、チンチン電車に乗って買い出しに行く人も増えたんだ。けれど同時に車も増えたから、青梅街道はいつも大渋滞。チンチン電車が真ん中を走るのが邪魔になってきてしまった。
 その後、青梅街道の真下に丸の内線が開通して、1963年(昭和38年)にチンチン電車は廃線になった。

 僕の頭には青梅街道とチンチン電車はセットになってる。そこにお袋がいたり、紙芝居のおじさんが自転車を押してきたり。夕方親父と帰って来るときは、電車の横に親父と僕の長ーい影が出来て、僕が変な動きをしては影を見て一緒に笑っていた。

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