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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)㉙茶畑と養蚕・石鹼作り

《 茶畑と養蚕 》

 戦争でなくなった身近なものとして、茶畑と養蚕がある。

 阿佐ヶ谷には茶畑があちこちにあって、春には茶摘みが見られた。
 杉七の先の畑で親父は芋や野菜を作っていたけれど、その周りは茶畑だった。となりの荻窪駅近くまで続いていて、本当にのどかなところだったんだ。茶畑の地主さんの家の周辺は初夏にになるとお茶を作っている匂いが漂ってきた。なんとも良い香りだった。だから僕は今でもお茶が大好き。
 戦争で駅周辺の多くが焼かれてしまって、茶畑もその被害にあった。その後は食糧難になって、サツマイモやカボチャなどのお腹に溜まる作物の畑へと変わり、茶畑は消滅してしまった。 あさがや茶、幻のお茶。

 養蚕を副業にしている農家も多くて、僕の家もやっていた。
 蚕(かいこ)の幼虫が入った箱が天井裏にいっぱいあって、そこに桑の葉を与えて幼虫を育てていた。屋根裏は仕切りが無いから広くて、いつも温かいから蚕を飼うにはちょうど良い。
 何百、何千匹って言うくらい幼虫がうじゃうじゃいて、そいつらが葉っぱを食べる音がすごかった。バリバリ、ジャリジャリと聞こえてきて大雨が降っているようだった。それが天井の真上から一晩中聞こえてくる。

 親父は桑畑から新鮮な葉をリヤカーいっぱいに積んできて、食べやすいように太い枝を切って与えていた。すごい食欲で葉っぱを食べ続け、1か月もすると数ミリだった幼虫は5~6㎝にも大きくなって繭を作り始める。すると段々静かになって、最後は音が止んでシーンと静かになる。そうやって出来た繭を売っていた。
 けれど戦争が始まって、絹糸のアメリカへの輸出が禁止されて需要が激減した。桑畑も食糧難でサツマイモ畑へと変わってしまい、幼虫への餌も確保出来なくなった。それで養蚕は続けられなくなってしまったんだ。

 僕には5歳年下の弟がいるけれど、5歳違うと思い出の景色が全く違うんだ。終戦の時、弟は2歳。茶畑があったことも、蚕の音も知らない。戦争で一変してしまった後しか知らない。でも、弟が戦争を知らなくて本当に良かったと思う。

《 石鹸作り 》

 戦後しばらくは配給もなくて石鹸も高価なもので手に入らなかった。なので近所の人たちで協力してうちの庭で石鹸を作っていた。
 それぞれ古い油を持ち寄ってうちに集まった。何度も使った茶色くなった油。それを大きなお鍋に入れ、苛性ソーダをと水を入れて、よーくかき回す。みんなで交代しながらかき混ぜるとだんだんと固まってくる。容器に入れて一日置いておくとしっかり固まって石鹸になる。色はそのままの茶色い石鹸。今の石鹸のように香りとかも無い。ただ洗うと泡が出る。石鹸があるかないかじゃ洗濯も炊事も大きく手間が違うから本当に貴重だったんだ。

 油を持って来れなかった人にもそこはお互い様だから分けてあげた。戦後はとにかく足りないものばかりだから、近所で助け合わないと生活出来なかった。
 

                            つづく
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