人間のプロトコル
「AとB、どっちがいいと思いますか?」と聞かれたとき、どう答えますか。
プライベートっていうよりは、仕事で。
・「A(B)がいいと思う」と自分で"決断を代行"する
・「あなたはどっちがいいと思う?」と"相手の決断を補助"する
こういうとき、聞き手が求めてるものと全然違う答えをしてしまうことって、あるなぁと。
あとはなんか指摘されてムッとするときって、"内容よりも言い方にムッとしてるケースが多い"んだろうな、とかそういうことを考えてたら、自分の中で腑に落ちたことがありまして。
この記事の元ネタは、このツイート。
では、いきまーす。
* * *
1.関係性別で考えてみる
便宜上、
先輩…自分より何かしら上だと思ってる相手
後輩…自分の方が何かしら上だと思える相手
とする。
先輩に「AとBどっちがいいと思う?」と聞かれたとき、
どう答えますか。
後輩に「AとBどっちがいいと思いますか?」と聞かれたとき、
どう答えますか。
僕の場合。
先輩に聞かれたら、
「Aはこうですよね、でBはこうですよね。目的が◯◯だとしたら、A(B)じゃないですかね」
と、わりと慎重にプレゼンする。
後輩に聞かれたときが、危険だ。
「こっちがいいと思う。いやむしろこういうCはどうだ?」
とやってしまう。
よくないと思ってる。
自分がされても嫌だ。
まぁそういうときは、僕の聞き方が悪いんだろう。
とすると…
2-1.聞く側のミス
まず「AとBどっちがいいと思いますか?」という質問の仕方がよくない。
じゃあどう聞くべきなのかというと、たぶんこうだ。
「Aはこうで、でBはこうだと思ってて。で、目的が◯◯だから、A(B)がいいと思うんですが、どう思いますか?」
ここまで質問の解像度を上げれたら、意外とその時点で答えは出ている。
そうすればいいものを、「どっちがいいと思いますか?」とか「どう思いますか?」なんてついついざっくり聞いてしまう。
だから、なんかピンと来ないまま、問題が解決されないままズルズル間違った方向へ進んでしまう。
2-2.「答える側」のミス
相手は意見やヒントを求めて聞いてきてるのに、ついつい頭ごなしに、断定的に、決断を代行する感じで答えてしまったとする。
相手は「いや、意見を聞きたかっただけなんだけどな…」と違和感をおぼえながら、次からはもう聞いてこないだろう。
3-1.それは「プロトコル」のミス
僕自身こういう「いや、意見を聞きたかっただけなんだけどな…」みたいなズレに悩まされてきたし、逆に相手を悩ませてしまったことも多いと思う。
ただ、こういうのって頻発する具体的なズレなのに、性格や感覚ベースの「合う、合わない」で片付けてしまっていないか。
と思って、考えた。
「プロトコルが違う」という言葉が浮かんだ。
コニュニケーションにおける〈人間のプロトコル〉だ。
これがもしかして聞く側の〈受信〉と、答える側の〈送信〉で性質が違うんじゃないか?そしてそれが「合う、合わない」問題の原因なんじゃないか?
と思ったのだ。
3-2.〈受信プロトコル〉は固有である
たぶん〈受信プロトコル〉は基本、自分で選べない。
それこそ性格ベースだ。性格を変えるのは、難しい。
それぞれの人が、〈固有の受信プロトコル〉を持っている。
この〈固有の受信プロトコル〉自覚がある人は「褒められてのびるタイプなんです」とか、逆に「自分、ドMなんでビシバシ言ってください」とか、ちゃんとアピールする。
それぞれが、甘いとかタフとかではなくて、変えられない自分の〈固有の受信プロトコル〉を自覚的に理解しているということになる。いいも悪いもない。
そして、そのへんが"マルチスイッチャー"な自覚アピールは、僕はあんまり聞いたことがない。
3-3.〈送信プロトコル〉は選べる
〈受信プロトコル〉が固有なのは、感情や性格ベースなので、しょうがないとすしても…〈送信プロトコル〉は、実は〈相手の固有の受信プロトコル〉に合わせていろいろ選択可能なんじゃないか?
しかし人間いざ自分が何かを伝えるときは、ついつい自分の〈デフォルトの送信プロトコル〉で反射対応してしまう。
〈相手の固有の受信プロトコル〉に対して、〈自分のデフォルトの送信プロトコル〉だけでコミュニケーションしてると、そりゃただのマッチング=「合う、合わない」にしかならないはずだ。
4-1.〈送信プロトコル〉をスイッチングしよう
じゃあどうすればいいかというと、
〈送信プロトコル〉を〈相手の受信プロトコル〉に合わせてスイッチングするしかないんじゃないか?
自分の〈固有の受信プログラム〉を矯正することも不可能ではない。
しかし苦痛がともなう。くそしんどい。それを相手に強いるのは難しい。
〈送信プロトコル〉は〈相手の受信プロトコル〉に合わせられるんだから、そっちをみんなでがんばった方がいろいろハッピーなんじゃないか?
4-2.〈送信プロコル〉を選べなくなるとき
しかし〈送信プロトコル〉を〈相手の受信プロトコル〉に合わせて選ぶ、ということを、人はだんだんしなくなる。
なぜか。どういうときにそうなるのか。
「こっちの〈固有の受信プロトコル〉に合わせてくれる人ばっかりになる」と、まずい。
…あれ?
これは〈受信プロトコル〉は固有である、ということと矛盾するぞ。
違うな。
人が〈送信プロトコル〉を選ばなくなるのは、
「相手の〈固有の受信プログラム〉を矯正するようになったとき」だ。
相手が納得してないのに。相手にスッと届く〈固有の受信プロトコル〉があるのに。それを使わないで、「いいから聞け」と、〈自分のデフォルト送信プロトコル〉でばかりコミュニケーションをするようになると…
人は〈送信プロトコル〉を選ばなくなる。
そうなると…良くない感じ、しません?
(まぁ、乱暴に言うと"えらくなる"と起きやすいのかも)
相手の〈固有の受信プロトコル〉に合わせて巧みに〈送信プロトコル〉を使い分けることを怠ると、どうなるかというと。
「合う、合わない」でなんでもすますようになる。
つまり、関係性やコミュニケーションのポテンシャルが早い段階で終了する。そうすると、だんだん多様性が死んでいく。多様性が死んだ種は…滅びる。えー!こわい!
いやいやいや。逆に言おう。ポジティブに。
4-3.〈送信プロトコル〉を使い分けられると、強い
相手の〈固有の受信プロトコル〉に合わせて巧みに〈送信プロトコル〉を使い分ければ、コミュニケーションのポテンシャルや効果を最大化できる。ということだ。お互いにそれができれば、人と人のコミュニケーションの可能性が広まると思う。
単純な、ツールの選択についてもこれは言える。
会話コミュニケーション、電話、メール、スラック、fbメッセンジャー、会って打ち合わせ、など。
相手の〈受信プロトコル〉に合わせたアプローチをすればいいだけだ。
いちがいに"いまどき電話なんてクソ"とか、"わざわざ会って打ち合わせは無駄"とかいうんじゃなくて。
こういう不満もたぶん、自分の〈受信プロトコル〉と相手の〈送信プロトコル〉の不一致、つまり〈送信側〉がプロトコルの選択肢を〈受信側〉に合わせないことで起こる。
電話使わない人には電話しない、
逆に電話で話したい人には電話してあげる、
テキストで共有したい人にはテキストで、
会って打ち合わせたい人には会いに行く。
こっちが楽な〈送信プロトコル〉を安易に押し付けない。
自分の〈固有の受信プロトコル〉は適切にアピールする。
これだけ。
問題はそれぞれのツールではなくて、
それぞれの人間なのである。
さらに、実際の言語におきかえてもわかりやすいかもしれない。
〈受信プロトコル〉…自分の母国語
〈送信プロトコル〉…自分が話せる言語
と考えてみる。
聞きやすい自分の母国語は固有でも、自分が話せる言語は増やしたり、選択していくことができるはずだ。
母国語が英語の相手に、英語で質問する。
相手は、こっちの母国語に合わせて日本語で答えてくれる。
こういうことができれば、いいコミュニケーションになるのではないか。
実際には言語でこれをやるのは難しいが、単純な〈言い方〉や〈ツール〉なら、できないことはないはずだ。
5.まとめ
結局コーチングがうまい人なんかは、こういう〈送信プロトコルの使い分け〉がうまいんじゃないかと思う。
監督業もまさにそうかもしれない。
〈変幻自在の送信プロトコル〉で指揮をとるのが本来ではあるが、
ほぼ1種類の〈デフォルトの送信プロトコル〉で貫き通す人もいるだろう。
コーチングといえば逆に、自身の成功体験をベースに〈特定の送信プロトコル〉を万能かのように思ったり言ったりしはじめると、これも危険だ。
それは〈送信プロトコル〉を使い分けることにはならないから。
で、冒頭の「AとB、どっちがいいと思いますか?」問題に戻してみると、以下のポイントを見誤らないように注意しようと思った次第。
・自分の流儀で答えることが、相手の助けになるのか?
・求められてるのは、本当に自分の意見なのか?
・決済権を委ねられたのか、助けを求められたのか?
意見聞かれたとき「オレはこう思うオレはオレはオレは!」って言っちゃった後輩たち、ごめんなさい。
そして…またここまで書いて、そういえばぜーんぶひとことで言えることに気づいてしまった。つまり、こういうことだ。
「言い方は、選ぼう」
あーあ、送信プロトコル間違えたかなー!
おまけ:創作物のプロトコル
で、いつものように大好きな映画の話に結びつけると。
映画にも「合う、合わない」というのが当然ある。
自分には全くピンと来なかったのに、絶賛されてる映画とか、
自分は大好きなのに、世間で酷評されてる映画とか。
賞とかも。
これもなんか、プロトコルのような気がする。
創作物と受け手のあいだにも、送受信のプロトコルがある。
昔ジェリー・ブラッカイマーが毒づいていた。
「批評家の意見?気にしないよ。クラシック評論家がキッド・ロックのアルバムを気に入るわけがないだろ?」
みたいなことを。
自分の〈固有の受信プロトコル〉にドンピシャな映画は、たまらない。
しかしなにか〈とんでもない未知の送信プロトコル〉に、自分の〈固有の受信プロトコル〉を拡張させられたとき、人はなんかすごい感動するんじゃないか。
そしてそれは、〈固有の受信プロトコル〉が未開発で無自覚な子供の頃に起きやすい。映画に限らず、音楽でも、なんでも。
「人は青春時代に聴いてた音楽を一生聴く」とよく言うが、そういうことなのかも。
そして、子供の頃のように〈未知の受信プロトコル〉を自分の中に発見するために、きっと今日も人は映画を観にいくのであーる。
「アリータ:バトルエンジェル」は僕のプロトコルに直撃しました。
ジェームズ・キャメロンプロトコル、根深い。
と、ここまでドヤ顔で書いてますが、ちょっと調べたら男女とかいろいろ、コミュニケーション・プロトコルってけっこう一般的な考え方だったんですね。知らなんだ。
まぁ「自分で腑に落ちた思考の流れを書きながらまとめる」のが、僕のnoteにおける〈送信プロトコル〉だから、いっか。
また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。