箱舟イメージ

【小説】置手紙は捨てられない。~ふりだしの七日目、終章~

第一話【小説】置手紙は捨てられない。
第二話【小説】置手紙は捨てられない。~どうってことない一日目~
第三話【小説】置手紙は捨てられない。~前のめりな旅は二日目~
第四話【小説】置手紙は捨てられない。~想像の裂け目に落ちた三日目~
第五話【小説】置手紙は捨てられない。~這い上がれ四日目~
第六話【小説】置手紙は捨てられない。~蜃気楼に歪む五日目~
第七話【小説】置手紙は捨てられない。~狂気の沙汰と六日目~

 仰木は六日目を熟考することなく、七日目へと目を動かしていった。この置手紙に出会ったのは、意味があった。私は出会うべくして出会ったのだ。目頭が火照るのを感じながら再び七日目へと足を踏み入れた。

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ふりだしの七日目、終章

 ないがしろにしてきた自分が悪かった。長らく考えないようにしていたせいか、あまりにも頭の隅が疼くので、私は仕方なく舟を漕ぎ出し、色が濃くなっている池の中心へと向かうのだった。 意識の隅っこにその池はあった。広さは直径で二キロほどあるだろうか、見渡す限りそこには自分しかいなかった。自分の居場所を確かめるべく、舟の上から池の下に広がる現実世界に向けて釣竿を振った。朝と昼の間に向かって、ときに昼と夜の間に向かって、ときに夜と朝の間に向かって、休まず釣竿を振った。しかし、何かが食いつく反応はあっても釣り糸を切られてしまうのだった。思っていた以上に相手は巨大なようだった。生半可な気持ちでは飲み込まれてしまう、そう思った私は、一対一で堂々と対峙するために舟の上で服を脱ぎ、裸一貫で釣り針を垂らした。釣り糸は脱いだパンツのゴムをほぐして代用した。 幾度となく釣竿を振ったが、遂には境界線を釣り上げることはできなかった。釣り糸に度々引っ掛かるのは、臆病者と夢想家たちだけだった。彼らが手にしていたのは、使いさしのろうそくに、枯れた枝、歪んだ皿に、欠けた鉛筆…。きっといつかの役に立つだろうと持ち帰ろうとしたが、ポケットのなかは使い古された感情ですでにいっぱいだった。最終的に役に立たないものとして、こぼれ落ちるモノたちだった。

 しばらくして、一つの疑問に気づいてしまった。私がいる場所は一体どこなのだろう。朝でも昼でも夜でもなかった。それらは自分がいる池の下にある。でも、私がたったいま浮いているところからは、太陽も月もはっきり見える。太陽は北から南へ、月は東から西へ移動していくが、地平線の下に消えていくことはなかった。地平線にぶつかるとパチンコ玉のように弾けて、また上に昇っていくのだった。少し漕げばいつも生活をしている小屋があって、煙突からは細い煙が立ち昇っていて…。そういえばここは、見当もつかないような場所だった。私の舟も池の下からはみ出た境界線に引っ掛かってしまっているのだろうか。私は今、どこにいるのだろう。
 静謐なひとときのなか、生温い風が頬を撫でた。どこから吹く風だろう、ここには山もなければ、海も空もないのに。匂いも音もしない世界では、みんな独りボッチだった。でも、小さなボッチが集まれば一人の人間になるのだった。水面下では夜を蹴散らす朝があって、朝を塗り替える昼があって、また夜が昼を乗っ取っていく。忙しい毎日だった。昔出会った境界線の番人によれば、世界の明暗に境界線などないらしいのだった。じゃああなたは、いったい何の境界線を守っているんだろう。聞きかけて口を噤んだ。釣竿を振ることをやめて、小屋に戻ろうか、いや、もう少しだけこの空間にとどまってからにしよう。辺り一帯を照らす光を見て、そう決めた。

 この世のまやかしが凝縮してできた池の上に、真実を搔き集めて作った舟を浮かべた。水面には腐った秋が滞留していた。今にも分解されて消化されそうなほど弱々しい秋だった。どこかで冬が大口を開けて、ユラユラと流れてくるのを待っているに違いない。季節には、季節折々の弱肉強食ドラマがあるのだった。
 太陽の逞しい光を月明かりが優しく包み、水面へと届けた。そして、水面で反射した光は私の瞳の中で乱反射した。そのせいで、五秒以上水面を見ると目が眩むので、釣り糸を垂らすときは目を閉じて、神経を釣り針の先に集中させるのだった。二方向から注がれる柔い光と鋭い光によって、私の影は水面で不自然に揺れた。
 私の影は水面に複数あった。光源が二つあるので当然か、と思いきや、本体とは全く異なる動きをしている。一人は陽気にラッパを吹き、また、一人肩を落としうな垂れていた。また別の一人は…。影が勝手に動き出しているのを見ても、取り立てて驚くことはなかった。太陽も月も沈まない世界だから、もう何が起きてもおかしくない。影のそれぞれの個性をボーっと見とれていると、舟の脇の水面から池の主だろうか、巨大なガマガエルが急に顔を覗かせた。
「驚かすなよ、出てくるなら泡を吹いてからにしてくれよ。」
私はこのガマと会うのは初めてだったが、見たことのある顔をしているなと反射的に感じた。ガマは意外にもこう切り返してきた。
「驚かすも何も、君はぼくが来るのを知っていたはずだよ。なんたって、一心同体なんだから。」
「一心同体…?ぼくとカエルの君が?そんなことあるかい。」
試しに胸ポケットから白紙を取り出し、池に落としてみた。まやかしの池だ、真実とは逆の文字が浮かび上がってくる。紙全体に水がスーッと染みわたり、半透明になったかと思いきや、薄っすらと黒い文字が浮かび上がってきた。
「ド、ドウショウイム…。同床異夢って。なんだよそれ。」
「同じ床で寝ても見る夢は異なるってことさ。つまりは、いつも一緒にいても考え方が異なっているってことさ。ここはまやかしの池、つまりは、君とぼくは同じってことさ。」
ガマは寂しそうにこう続けた。
「でもね、それはぼくなようでぼくじゃないんだよね。ぼくはやっぱりどこにもいないよ。ぼくは手足の生えたおたまじゃくし。カエルのふりをしたおたまじゃくし。」
一通り解説を終えガマは満足したのか、ゲコッと一鳴きしてまた水中へと消えていった。

 思っていたほど風は吹いていなかった。何の匂いもしなかった。線香花火すら消すことができないような僅かな風。これでは蝶も風に乗ることはできないだろう。そんな風が今度は指の隙間をぬるっと抜けていった。
 記憶の轍に意識の車輪がのる。用意されていた滑走路をはるかにオーバーし、地球の端から脱輪したところで目が覚めた。釣りをしながら、うたた寝をしてしまっていたようだった。今日も境界線を釣り上げることは叶わなかったようだ。水面下では、未完成な夜がまた不都合な朝にバトンを渡し始めたところだった。
 ぼくとカエルは同じなのだろうか。今いる世界はいったいどこなのだろうか。解を得ないままなんとなく時間切れを迎えたような気分になり、苛立ちを覚えた。
 波紋すら生まれない池に背中を向け、溜まったもどかしさは家に持ち帰った。神社の祠ぐらいのサイズの箱が家の中にあったので、そこに南京錠をかけて忘れることにした。家までの帰り道は、昨晩に雨が降ったようでぬかるんでいた。それにも関わらず、振り返ると全く足跡がついていなかったのだった。きっとそういうことなのだ。
 完璧だと思われた木桶の底には僅かな隙間があり、水はそこから一滴ずつ流れ出てしまっていたようだ。自分は水に溶けて、ここではないどこかに行ってしまった。次なる書き手に託す。私を釣り上げて。

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 ここで文章は終わっていた。いや、不運にも途切れていた、とも言えるかもしれない。一日目から六日目の解説がなされていたわけでもなく、並行して書かれていたのは個人的な体験だった。まるで物語のような書かれ方、この表現の仕方や葛藤に仰木は身に覚えが少しあった。しかし、記憶の断片が空から降ってきては着地するまでに、風で飛ばされてしまうのだった。
 なぜだろう、読み終わるたびに自分のなかに釈然としないものが初めは溜まっていっていたのに、今回は読み終わったあと不思議と人に会いたくなった。そう言えば、この紙も一杯飲みに行こうと居酒屋に行くために駅にいたら出くわしたものだった。あの日は雨が降っていたな。今日も偶然だろうか、カーテンの外を見ると雨だった。

 たった一駅の距離を足元が濡れそうだからという理由で電車に乗った。あの日と同じだった。今日はたった一駅でも乗ることで何かに出会いそうな気がしたのだった。仕度をして駅に向かう。到着と同時に各駅停車の電車がホームに流れ込んできた。乗り込むとまばらに客はいる。小さな町だとは言え、見知った顔の人間は一人もいなかった。腰をかけて前にいる乗客を眺めてみた。老夫婦がちょこんと座っている。その横に何やら疲れ気味の出で立ちの男、大きな買い物袋を持ったわりと若めの男、ハイキング帰りの大学生、ニット帽を耳が隠れるまで被り深く寝ている者もいた。このなかにもしかしたら何日目かの書き手がいたりしてな、そう思うと可笑しくなり、フッと笑ってしまった。私の隣に座っていた細身の男性はそれに気づき、訝しめに覗き込んできてこう囁いた。
「アンタ、培養しすぎだぜ。」
意味は全くわからなかったが、何故だか腑に落ちた。

 居酒屋「いなりや」に着くと今日は珍しく繁盛していて、テーブル席が埋まっていた。ここ数日、置手紙に没頭していたせいか曜日感覚がなくなっていた。その混雑具合を見て仰木は土曜日だったのかと知った。
 引き戸を開けて入ると、カウンター席の奥で稲荷のじじいがクルっと振り返り微笑むのが見えた。盛大に出迎えられるわけではない。だからこそ、ここは落ち着く。普段であれば店の奥の二人席に座るのだが、そこには常連だろうか、スタッフと仲良さげに話すサラリーマンたちが陣取っていた。仕方なくカウンター席に座ることにした。
「仰木さんよ、調子はどうよ。お冷。」
「うん、まあぼちぼちですね。人生翻弄されっぱなしです。」
そう言うとじじいはニヤリと笑い、若いスタッフを呼びに何やら耳打ちをしていた。
《このおっさんは生姜豆腐しか食わねえんだ。》
「稲荷さん、新しい子かい?」
「あ~いやいや、違う違う。コイツ隣の酒蔵にいるやつでな、最近兄貴に弟子入りしたらしいんだが日本酒が好きだっつーんで、今日こっちの手伝いしてもらってんのよ。おう。」 
見ていると手慣れた感じでお客の注文をさばいていた。最近の若い子は物覚えがいいな。
 
 三時間ほどしっぽりと飲んでいただろうか。忙しそうにしている稲荷のじじいを見ていると妙に酒が進んだ。何かに精を出す男の背中はいくつになっても格好いいものだ。手が空いたところで、勘定を済まして席を立った。
「稲荷さん、人生都合の良いように書き足すことなんてきないんですね、上書きするか削って、繰り返すだけ。感じては忘れていくだけなのかもしれませんね。」 
「何言ってんだおめぇ。扇子づくりのおっさんが。」
「実はね…いや、やっぱりいいです。また今度来た時に話しますよ。」
「今日はあんまり話せんかったから、また平日に来な。来週には良い日本酒が入る。」
いつものようにじじいにありがとよ、の張り手を背中に受けて家路についた。
 仰木が店を出て、三ブロックほど歩いたときに数人の男と稲荷のじじいが暖簾をくぐって店から出てきた。そしてこう口々に言葉を繋げた。
「稲荷さん、よかったんですか、彼に伝えなくて。七日目って彼のお師匠さんでしょ。先月亡くなったとか言ってたあの。」
「あのなかではおれは四日目の老いぼれなんだよっ。言えるかい、情けねぇ。」
「明日は遂に八日目ですか。そうですか、そこまで渡ったのですね。それでは三日目も今日はこれで失礼。」
「彼は八日目に適した男だね。おれは推すよ、あいつはきっといいやつだ。」
稲荷のじじいはフッと笑って、店の中に戻っていった。他の男たちも互いに一礼をし、散り散りに暗闇に消えていった。

 仰木は、自分のなかでこの置手紙との折り合いがつけば、目の前からすぐにでも消すつもりだった。でもなぜか、捨てられなかった。誰かに引き留められているように思えたからだった。代わりにくだらない自分のエゴをクチャクチャに丸めて部屋の隅のゴミ箱に投げ捨てた。自然と湧いてきた思いはこうだった。捨てるのではない、書き加えろと。
 仰木は八日目を書き足すことにした。極々自然に、誰からも強制されることなく筆を執ったのは初めてかもしれない。人は欲しているものにしか、耳は貸さない。人は見たい現実にしか、目を向けない。それでもいいと思う。自分の声さえ拾い取ってあげることができるのなら。私たちはみんな特別な人間だ。それを愛してあげなくてどうする。口下手で文才のない自分が一度も筆を休めることなく書けたことにはびっくりした。七日目の文才には叶わない。五日目ほど正直に自分を綴ることができたかはわからない。でも、仰木は書いたのだった。澱みがスーッと抜き、少しずつ浄化されていくのがわかった。ありがとう。八日目に何を書いたのかは、誰にも打ち明けないことにした。
 
 翌日駅へ向かい、自分の想いで繋いだバトンを拾った元の場所にそっと置いた。電車が来るまでの間、恋人と腰掛けるかのようにして並んで座った。名残惜しくないと言ったら嘘になる。でもひとつの冒険が幕を閉じ、新しい冒険がまた人知れず始まるのかと思うと、心は躍った。
 電車がホームに流れ込んできても、仰木は乗らなかった。今日も人々のどうってことない一日が流れていく。でも、その一つ一つが大切で語り継がれていく物語なんだと思うと、窮屈で疲れた車内も愛おしく思えた。
 置手紙をベンチに残して、電車が出発する前に立ち上がり、改札口へと歩き始めた。すると反対のホームから移動してきたのか、扉が閉まる数秒前に階段を駆け上がってきた中年男性がいた。わりと寒い日なのにかなり汗をかいていた。タッチの差で間に合わず、男は絵に描いたように閉まった扉の前で肩を落とした。
 男は休むためにベンチを探していたようで、こちらに向かってきたときにすれ違った。数秒後、振り返ると、男は私がさっきまで座っていた場所に腰を掛けていた。置手紙に気づいたのを確認して踵を返し、仰木は家路についた。久しぶりに良い扇子が作れる気がした。心のなかで、冴えない駅員の代わりに声高にアナウンスをしてやった。

「次は八日目。再出発は八日目~!」



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