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【小説】置手紙は捨てられない。

 仕事帰りに近所の公園のベンチに座り、仰木はタバコを吹かしていた。ふーっと長い息を吐き、天を仰ぐその姿は浮浪者そのものだが、仰木はそんなことを気になどしていなかった。何かに長けたように見えるからという理由で、髪も髭も伸び散らかしていため、月に幾度か職務質問を受けるのが決まりだった。警察を見つけるとニヤニヤしてしまう癖がその一因でもあった。
 仰木は何もすることがなく、近所をぶらついているわけではない。彼の言葉を借りれば、「夕暮れどきの空を大切にしている。」のだそうだ。次第に赤みを帯びていく空があって、遠い空から違う色がやってきて自然と混じり、遠のきながら黒へと転じていく。その有様を見ていると、仕事に使えそうなアイデアが湧いてきそうな気がするので、習慣として取り入れているのだった。そのおかげで何か閃いたことはまだなかった。今日の空は赤みがかっているとは言え、まだまだ青かった。不気味なほどに真っ青な空だった。
 山々は衣替えを済まし、少しずつ冬へと向かっていた。近年は秋服を出す間もなく冬がやってくることが多かったが、今年の秋はしっかりと秋らしくなっている。四十代に入り流行に無頓着な仰木にとっては秋も冬も大して変わらないが、紅葉が醸し出す独特の雰囲気は嫌いではなかった。吹かしたタバコの煙は風で流されることもなく、しばらく頭の周辺で滞留していた。煙越しに遠くで子供が遊んでいるのがボヤっと見えるが、子供たちの声は仰木の耳には届いていなかった。
 ひんやりと冷たい風が頬を撫で、そんな中暮れ行く世界に向き合っていると感傷的になりがちだ。巷の作家たちにとってはさぞかし仕事がはかどる季節なのかもしれないが、仰木にとっては冷たい風の吹き始めは仕事納めの時期であった。通常は仕事がひと段落すれば実家がある富山に里帰りし、きのこ栽培の手伝いに勤しむわけだが、今年の秋は冬に向かう単なる通過点にはならなさそうな予感がしていたのだった。数日前にコイツを拾いさえしなければ、いつもの平和な冬が来ていたはずなのに。憂いても仕方ない、勢いよくベンチから立ち上がり、タバコを踏み消して家路についた。

 自分は、あまり勘が鋭い人間ではないことは確かだ。そんな自分にもきっとあるだろう第六感ってやつが疼く。自分には無関係だと刷り込もうとすればするほど、自分に関係のあることのように思えてくるから腹が立つ。こんな紙切れは職人らしく風で吹き飛ばしてしまえ。でもダメだった。初めはどうってことない紙切れと思って手に取ったが、今では不思議な力を持つ巻物のようにさえ感じている。確かに文量的にも到底紙切れとは言えないものだった。仰木を苦しめていたのはその紙切れの中身だった。
 数日前、あれは確か先週の土曜日の夕方だった。仰木は飲み屋に向かうための各駅停車の電車を待っていた。隣駅にある行きつけの「いなりや」に行きたかっただけだった。歩けば十分ほどで到着する距離さえ億劫になるほどの雨だった。足元が多少濡れようが構わない。大将の稲荷のじじいと世間話をしながら、生姜がぶっかかった豆腐をつまみに一杯流し込みたいだけだった。
 次の各駅停車の到着は四時十五分であるという音声アナウンスが静かなホームにこだました。十五分立って待つのもしんどいなと思い、長椅子に掛けてようとした時だった。そこには数枚の紙を丸めたような紙筒が置いてあった。誰かが場所取りでもしているのだろうか、辺りを見渡しても誰もいなかった。それも当然、東京の中心地からはかなり離れている片田舎の駅だ。通勤時間にぶち当たっても混雑することはまずないような駅だ。いつもであればその紙を避けて、別の長椅子に向かえばいいものの、この日は何を血迷ったか、つい手が伸びてしまい中を覗いてしまったのだった。

 開けてまず飛び込んできたのは、印刷されたかのような整然とした手書きの文章たちだった。読み始める前に、その計算の上に配列されたかのようなヒエログリフを見てきっと大事な論文か何かだろうなと直感的に感じた。しかし、不意に目に飛び込んできた太字のサブタイトルを見て、それが論文でないことはすぐにわかった。小難しい論文でもなんでもなかった。中卒で弟子入りして以来、学問というものから遠ざかっていた仰木にも読むことができたのだった。
 内容はどうやら七部構成になっていて、項目ごとに分けて書かれていた。「~一日目」から「~七日目」といった風に順に書かれていた。何かの記録か日記のようにも見えるが、日常では起こり得ないような不可解な空想話も書かれている。ありきたりな日常から極端な思想まで、各項目の内容にも大きく偏りがあった。各項目の統一性もなく、同一人物が書いたようにも思えるし、複数の人間が手分けをして書いたようにも見える。連続的な日記のように見えて各日季節がバラバラであるのも理解できない。仰木の推察では、実際に見た夢をどこかの暇人が記録したものだろう、ということにした。そうすれば、ぶっ飛んだ内容が記されていることや「~日目」の説明がつく。気楽に読み飛ばしていた矢先に、とある箇所で順調に読み進めていた目がピタッと止まった。鼓動が急激に高鳴るのを感じた。誰かのどうでもいい夢を記したものではない。事実が混じっている。そこには仰木にも心当たりのある内容がいくつか記されていたことだった。読み進めれば進むほど、この怪奇文書に対する様々な憶測が錯綜していくのだった。これを書いたのは一体誰だ。おれの何を知っているやつだ。

 読み終えて数秒後、ハッと顔を上げ駅の時計に目をやった。天井に悲しくぶら下がっている頼りないそれは、五時十分を指していた。各駅停車の電車は四度も仰木の前を通過していっていたことになる。
 我に返り、立ち上がったときに目が眩むほどの西日が差した。いつの間にか雨は止んだようだった。駅のホームには仰木の影が不気味に伸びていた。偶然手にした紙切れに耽溺する自分は受け入れ難く、そうかと言って見過ごすこともできず、紙切れの真相を突き止めるための小さな冒険を開始したのだった。

続く。→【小説】置手紙は捨てられない。~どうってことない一日目~


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