_モロッコ_フェズ

【小説】置手紙は捨てられない。~狂気の沙汰と六日目~

第一話【小説】置手紙は捨てられない。
第二話【小説】置手紙は捨てられない。~どうってことない一日目~
第三話【小説】置手紙は捨てられない。~前のめりな旅は二日目~
第四話【小説】置手紙は捨てられない。~想像の裂け目に落ちた三日目~
第五話【小説】置手紙は捨てられない。~這い上がれ四日目~
第六話【小説】置手紙は捨てられない。~蜃気楼に歪む五日目~

(仰木の屈折~蜃気楼に歪む五日目~について)
 五日目は仰木の頭の中にひどくこびりついた。それは、世間一般のレッテルに抗い、複数いる自分自身の存在を認めることに成功した男の手記だった。一日目から四日目も同じような誰かの手記であった。でも、五日目はどうだろう、読んでいて自然と自分自身に重なってきたような手応えがあった。
 人は世間に攻撃されることを恐れ、我を解放することを躊躇い、深呼吸をすれば陰気臭い人々の視線が濃縮された空気に肺は侵されるようになった。そんなことを気にしながら生きていくことは実にくだらないと一蹴するのは難しい。実際のところ難しいのだ。しかし、五日目の男はそれを見事やってのけているように見えた。しがらみを取っ払って、まさに自分自身との共存を選んだ男の生き様は清々しさをも孕んでいた。多重人格を称賛するわけではない。現実と理想の間で揺れる自分は決して一人ではないことは、目を向けるべきことであると感じた。迷い、葛藤する私もいれば、リスクを承知で賭けに打って出る私もいる。そのすべてを認めてあげるということは、心のなかにぽっと湧き出る声を殺さずに済む。最後に全員そろって、乾杯していたのが印象的だった。
 いつでもここへ帰って来ることができる。いつ帰って来ても出迎えてくれる場所や人があるのはきっと幸せなことだ。五日目の男にとって、自分を培養し続ける図書館がそれにあたるのだろうか。仰木は自問自答した。自分自身にはそんなステキで都合のいい場所があっただろうか。今住む家か、職場か、はたまた居酒屋いなりやか。正直わからない。複数いる自分を抱きかかえて守ってくれる場所は、今の仰木には見当もつかなかった。
 自分自身を刻んで、掘りすすめ、化石を発掘するかのように隠された自分自身を発掘していったのだった。結果、彼の場合自分自身が複数いただけの話。私が我々になったことで救われたという。そういう道もあることを知った。
 仰木の思考は次第に歩を緩めた。傾斜がほとんどない下り道を涼しい風を切りながら、ペダルから足を離し、一瞬重力があることを忘れるぐらいの浮遊感を得る。そんな心地がした。六日目のタイトルが目に入った時に、少しぞわっと心が浮き立つのを感じた。きっとまた、何かある。

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狂気の沙汰と六日目

 私はいつしか横断歩道を渡るのをやめた。シマウマ模様の地面を見ていると、あたかも「さぁ、渡れ。」と言われているような気がして、反抗したくなったのだった。もう一度横断歩道を渡れというのなら、それはアフリカで大草原を走るシマウマを見てからだと決めていた。渡るまいという意識は、やがて渡る必要がない、に取って代わった。しかし、そう決めていた割には、私の頭のなかは横断歩道で埋め尽くされていた。横断歩道に翻弄される毎日は何一つ不自由のない生活だった。私は横断歩道を通じて自分が生きる世界の解釈に成功したからだった。

 横断歩道での信号待ちは、すこぶる面白いことに気づいたのだった。もちろん自分自身が渡ることはない。それでも車が横切ったりするのを見たり、人が思い思いに空を見上げたりして、時間が過ぎ去るのを待っているさまは、なお面白かったりする。向こう側で数羽のカラスが人間を警戒しながらゴミを漁っているのが見える。時間帯もゴミ出し直後ということで、絶好のご馳走タイムなわけだ。早く青にならないものかとそわそわしているサラリーマンを除けば、皆、待ち時間のなかで命を育むことを楽しんでいるようにさえ見えた。たかが待って数分だ。されどその数分にはすべてが凝縮していた。
 そう、私はここに毎朝来ては、横断歩道を渡らずに行き来する人間を見ては物思いに耽る、一際不気味で高尚な趣味を持つ隠居者であった。時間はきっちり三時間。世の中の高齢者の趣味だって、多様化してもいいではないか。昔は近所のなかでも多趣味であった私だったか、今はめっきり横断歩道に没頭している。私の日課は、傍から見ればただ交差点に立ち竦むボケ老人そのものだが、そう見くびってもらっては困る。私は自分がいるべき場所で、きっちりと役割を果たしていた。
 横断歩道の待ち人たちの動きを予想するのは、本当に簡単だった。向こう側に学生が見える。向こう側にゴミ出しの中年女性が見える。向こう側に散歩前の老人が見える。自転車に乗ったあたかも多趣味そうな若者が見える。そして、彼らは必ずこちらに渡ってくるのだった。全てお見通しだった。晴れていようが、雨が降っていようが、向こう側で立ち止まった瞬間、私は彼らの動きを予測できるのだった。すべては私の手中にあった。ある少女を除けば。

 何の前触れもなくその少女は現れたのだった。黄色い帽子被り、赤いランドセルを背負った少女だった。初めて出会ったのはだいたい一か月前ぐらいだった。こちらを見ているようで決して視線を合わせようとしない。歩いてくる素振りも全く見せないのだった。ただただ向こう側に立ち尽くしているだけなのだ。毎日私と同じように横断歩道に来ては、行き来する人を虚ろな目で傍観するのだった。
 そこから私の建設的で不毛な推測が始まったのだった。ランドセルを背負っているということは、小学生であることに間違いなかった。毎朝三時間きっちり横断歩道にいる私に張り合うかのように、彼女もずっとそこにいた。学校はどうしたのだろう、登下校の時間をとっくに過ぎても、彼女はそこで微動だにしなかった。そうか、誰かを待っているのか。友達か誰かを待っていて一緒に学校にいくのだろう。それなら納得がいく。ただ彼女の友達がその三時間内に現れたことは一度もなかった。
 納得しかけた翌日の朝には、すぐに新たな疑問が沸き上がっていた。そう言えば、彼女は毎日同じ服を着ていた。あまり洗濯をしない家なのかもしれない。お母さんは彼女の服を洗ってはあげないのだろうか。もしかしたら、一人で寂しく暮らしているなんてことはないだろう。まだ小学生だ、無理がある。
(君はいつも一人だが、大丈夫なのか。元気に暮らしているのか。)
半ば自分自身に話しかけるように、心の中でゆっくり唱えた。向こう側に渡って聞けば、話は早いものの、私は渡ることなどできなかった。彼女がいるのは横断歩道の向こう側だからだ。渡りたくても身体が言うことを聞いてくれなかった。背中に手が届かない思いをねじ伏せながら、念じることしかできないのだった。

 彼女は友達を待っている。もしくは、親でも待っているのだろう。彼女は横断歩道の待ち人だった。一方で私は誰も待っていなかった。いや、でも今日の三時間が終われば、明日の三時間の到来を待っているという点では私も立派な待ち人であった。横断歩道を挟んだこちら側と向こう側を含むこの空間は、もはや極私的な空間だった。誰にも侵入されない絶対的な空間だった。私だけでない。私とあの少女の空間になっていた。横断歩道で私は少女との無言の対話を待ち望んでいたのだった。
 昨日着ていた服の汚れが今日の服にもついている。決して落ちない汚れらしい。今日も黄色い帽子を被り、赤いランドセルを背負い微笑んでいる少女がいる。それでいい。何も問題になるようなことはなかった。雨の日も傘を差さずに立っている少女を見て、私も応えるようにして、傘を捨てた。彼女と同じように振る舞うことで、彼女が意味もなく佇む理由を知ろうとしたのだった。少女の孤独を七十八になった私が理解できるかはわからない。しかし、言葉を交わせない以上は爺なりにそうするしかなかったのだった。雨の日も風の日も直向きに待ち続ける彼女の姿勢に同調することで、少しずつではあるが溝が埋まっていく気がした。

 彼女との対話が始まってから二か月が経とうとしていた晩夏のとある日、夜の間に通過する予定だった台風の足取りが遅くなり、横断歩道での時間が始まる一時間前になっても暴風警報が解除されなかった。もし一人だったら、日課と言えど今日はやめにしていたかもしれない。しかし、少女が来ている以上は私も行く義務がある。幸い雨は止んでいたので、傘は持たずに家を出た。消防署を左手に見ながら道沿いに進み、図書館が見えたところで右に曲がる。よろめきながら、ときにガードレールを支えにしながらなんとかいつもの横断歩道まで辿り着いた。もちろん少女はいつものように立っていた。
 今日はどんなことを話そうか、定位置に立ち少女を見つめ返したときに、強い風が正面から吹き上げ後ろへ倒れ尻もちをついてしまった。転んだときの衝撃がすごかったようで、腰の痛みで背中もピリピリと痛く、しばらく自力では立ち上がれなかった。ちょうどそのときに、この時間によくプラプラ散歩をしている男性に助け起こしてもらい、なんとか事なきを得た。
(暴風警報が出ている日になにも散歩に出なくていいでしょう。)とでも言わんばかりの表情をする男性。ありがとう、助かったよと言っても返事はなかった。その男性は仕草で教えてくれた。耳が聞こえないとのことだった。自分の胸を二、三度軽くポンポンと手の平で叩き、どういたしましてと言わんばかりに、お辞儀をして立ち去っていった。彼の背中にはどこか見覚えがある…視線を数秒投げかけたのち、向こう側に視線を移すと、なんと少女も倒れていた。私が倒れてからかなり時間が経つというのに。事態は思っていた以上に深刻なようだった。

 おそらく私と少女は同時に転倒したのだろう。あの風は幼い身体には強すぎたのかもしれない。しかし、少女のまわりには誰も手助けにいってない様子だった。なんてことだ。幼い少女がうつ伏せで倒れているのに誰も見向きもしないのか。私が行かねば、いや、できない。では誰が彼女を助ける。私しかいないじゃないか。そんな葛藤をしている間に数台の車が行き来し、彼女の姿は見え隠れした。
 そして、予兆もなく私の一部が暴走を始めたのだった。魂が抜け出るかのようにして、目の前に自分自身の残像のようなものが現れ出た。薄っすらとしていて実体がないことからも、それは私自身ではなく、私の一部が独りでに動き始めただけだった。するともう一人の私は、横断歩道の向こう側に向かって急に歩き出したのだった。本体である私の身体は、繋ぎとめている影が伸びるだけで動くことはなかった。奇想天外なことが身近で起こるものだ。横たわる少女の身体より、歩き始めた《彼》に私の意識は集中してしまっていた。私の一部が向こう側に渡ろうとしている。それを見守っているのは他でもない私という現実離れしているこの状況に固唾を飲んだ。何を思ったか、彼が向こう岸に渡るのを見てみようとしたのが間違いだった。一歩一歩、横断歩道を渡る彼の歩く先には、いつの間にか大きな石コロが置かれていた。数秒後、彼は間違いなくそれに躓いてしまう。少女を救い出す前に、私は《彼》を救うべく、横断歩道を手も挙げずにわたり始めたのだった。彼の背中に向かって走り始めた途端、横断歩道の白い部分に急にぽっかりと穴が開いて、足を取られてまもなく、私は白の世界へと吸い込まれてしまったのだった。

 黒の隙間に白があった。いや、白の隙間に黒があるのか。どっちだっていい。私が落ちたのは余白の世界だった。誰もいなかったし、何も聞こえなかった。真っ白であるからこそ、何を想像しても許される自由を感じた。もう横断歩道に囚われる必要はなくなったのだった。私は横断歩道そのものになれたのだった。安堵感が胸の中に広がっていくと同時に猛烈な睡魔に襲われた。もう眠っていいような気がした。奈落の底に落ちていく途中で誰かの声がした。
「おっさん、おい起きろ。おい、おっさんてば。」
その声になんとか反応するかのように、かろうじて片目を開けることができた。そこにはニヤニヤした細身の男がしゃがんでこちらを覗き込んでいた。
「おっさん、こんなところで寝てたら邪魔だろ。培養のしすぎだぜ、アンタ。」

 目が覚めると横断歩道からほど近いかかりつけの病院のベッドにいた。腕にはこれ見よがし点滴の管が繋がれていた。何が現実に起こった出来事で、何が夢のなかの出来事だったか、全く区別がついていなかった。意識が朦朧としているなかぶっきらぼうに戸を開けて入ってきた担当医だという男が一から十まで教えろと言うので、ゆっくりと自分の身に起きたことを少しずつ思い出していった。夢の説明まで含めて伝えると、難しい顔をしながらこう言った。
「お話しありがとうございました。ふぅ~…そうですね。何点か気になる点がありますが、その少女とは直接言葉を交わしたわけではないということで間違いないですか?」
「はい、少女を助け起こそうとしたんですが、向こう側に渡る前に私自身が躓いてしまって、…そうですね。」
「そうですか。わかりました。ここからわりと近所の横断歩道でしたよね、先ほど休憩がてら見に行きましたけど、ん~…そうですね、あまり言いたくはありませんが。夢と現実が入り交じるのはよく起こることなんですけどね。何かを強くイメージすると現実でもイメージしたように見えてしまうことがあったりもするんです。何かの願望がその少女となって映っていたのかもしれないですね。頭のなかで作り出した記憶を追体験していると言いますか…」
このやぶ医者め、何を言ってやがる。
「すると何か…あの少女は存在などしてないというのか。」
「非常に申し上げにくいですか、はい、彼女の本当の姿は木製の看板です。あそこ、通学路でしょ。危ない、飛び出すなって書いてありましたよ。」

続く。→【小説】置手紙は捨てられない。~ふりだしの七日目、終章~


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